◇2006年5月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

現代狂言「白毫(びゃくごう)」−自閉症って、何?−(続)

自分をさらす

映画「サマータイム・マシーン・ブルース」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2006.5.1
現代狂言「白毫(びゃくごう)」−自閉症って、何?−(続)

現代狂言「白毫(びゃくごう)」−自閉症って、何?−という 脚本を書いたということは、先月号の「うずのしゅげ通信」でも触れました。 どうしてこんな劇を書いたのかじつは自分でもわからないのですが、 ただ、この脚本を読めば、自閉症というもののイメージをそこそこもてるようにという考えは はじめからあったように思います。 それもただたんに解説本のように性格、特徴が列挙されているといのではなく、 自閉症の主人公が、一人の登場人物として、一人の人間として、実在感をもって 立ち上がってくるようであったら、 というのがわたしのねらいだったのです。それが充分に達成されたかどうかは、 読んでいただくしかありません。不満な個所も多く見つかるかもしれません。 この脚本にどんな意味があるのか、と問われれば返答に窮してしまいます。 自分でもわからないからです。 もし、奇特な方がおられて、もしお読みになられたなら、ご感想をお送りください。
脚本を書いた余勢を駆って、高機能自閉症に関する本をいくつか読んでみました。 以前に比べると、いわゆる高機能自閉症、アスペルガー症候群といわれる当事者や親が 書いた本がたくさん出版されています。
中でもとりわけ惹きつけられたのは、高城寛志・星河美雪共著「高機能自閉症の子育てと 療育・教育−発達と障害の視点から−」(クリエイツかもがわ)です。
親の立場から、教師の立場から、そして発達相談の立場から、それぞれの立場から 子どもをじつによく見られていて、啓発されるところが大変多かったのです。
特に星河美雪さんの記述からは、親としてほんとうに子どもを細部にわたってあたたかい目で 見て、そして 事実は事実として愛情豊かに受け止めて、的確に対応しておられる様子がわかって、 さわやかな感銘を受けました。


2006.5.1
自分をさらす

『免疫学者、多田富雄さんと、奈良・興福寺貫首、多川俊映さんのメール対談』という ものが、朝日新聞2006年4月4日と4月11日夕刊に掲載されていて、 惹きつけられました。
多田富雄さんについては、以前にもこの『うずのしゅげ通信』で、 『アインシュタイン・トリビア』というテーマで触れたことがあります。 「アインシュタインが一石仙人として登場する能がある」というトリビアを提起したときです。
その後、NHKテレビで、多田氏が脳梗塞の後遺症のためにリハビリに取り組みながらも、 なお原子爆弾をテーマにした能の脚本を書き、不自由な体を押して初舞台を見にゆかれる 様子が放映されていました。しかし、もっとも感動したのは、多田さんの日常生活、 とりわけ飲食の様子が撮されている画面でした。 よくぞここまで許可されたものだと驚きました。食事の場面、涎をぬぐいつつ食べておられる様子、 また、アルコールを控えさせたい奥さんを何とか宥めすかしながらウィスキーを 飲んでおられるやりとりなどです。嚥下に問題があるためでしょうか、液体は止められているらしく、 ウィスキーもゼラチン状にしたものを飲んでおられるのですが、それがじつにうまそうなのです。 奥さんとのやりとりもよかったし、また、もうすこし飲みたいという多田さんの気持ちも 素直に出ていて、ほんとうに感動したのです。見ようによっては、何もそこまで自分を さらさなくてもいいのにと言えるかもしれませんが、私としては、 多田さんが世間というものをこんなにも信頼しておられるのかと、あらためて感動したのでした。 それほど素直な自分のさらしようだったのです。たとえぶざまと見えようとおのれの 真実をさらしていく、そこにほのみえる覚悟、世間への身の委ね方がじつに見事なものでした。
短歌をつくっていたころ、もっともっと自分をさらすようにといわれたことがあります。 本音を吐けともいわれました。おのれをさらすことはそれだけむずかしいという ことなのでしょう。
(この番組「脳梗塞からの”再生”」によってNHKの放送文化賞を受賞されたことが、 この対談の冒頭に触れられています。)
メール対談『語りあう いのちと死と能と』を飾る写真の表情もすばらしいものです。 その表情は、ちょっと口元に引き締まらないところがあって、脳梗塞のための麻痺が あることをうかがわせるものですが、多田さんの浮かべておられる笑いには、 人を信じている安心感のようなものが色濃く滲んでいます。じつにいい笑顔なのです。
メール対談では、多田さんが書かれた能が主に取り上げられています。
多田富雄さんは、「広島の犠牲者への鎮魂の思いを託すには能しかないと思ったのです。」と 述べておられて、それに対して、興福寺貫首 多川俊映さんは、「能は祈りだと思います。」 と応じておられます。
「(能の)主人公に多い、非業の死者や不幸な人たちにどう向き合うか。 私たちにできるのは祈り、それも深い沈黙だけかもしれません。」(多川俊映)
そうすると、非業の死者に満ち満ちた現代は、まだまだ能の祈りを必要としているのでしょう。 そこに能がいまなお現代的である秘密が垣間みられるようです。


2006.5.1
映画「サマータイム・マシーン・ブルース」

映画「サマータイム・マシーン・ブルース」を観ました。 タイムマシーンものです。昨年「ぼくたちに赤紙が来た」という脚本を書いているとき、 タイムマシーンについて調べたのですが、そのときにこの映画のことを知りました。 一度見たいと思っていたのですが、やっと念願がかないました。
舞台はどこかの大学の部室。夏の真っ最中、かろうじて動いているおんぼろクーラーのリモコンが、 部員の不注意からジュースをかぶって壊れてしまいます。 そこに、どこかからタイムマシーンが現れます。で、そのタイムマシーンで昨日の部室にいって、 リモコンを持ってこようということになり、一人のお調子者がでかけていきます。
そこから展開するドタバタ喜劇。
タイムマシーンという大業な設定を、壊れたリモコンを取りに、 昨日に帰ることにほとんど限定したところに、きみょうなおかしみが醸し出されます。
最後になって、限定的に使われていたタイムマシーンの使用の枠組みが破られて、 30年後に行ったり、千年前に戻ったりするといったことが出てくると、 とたんに映画はつまらなくなってしまいます。
そして、最後に種明かしされて、はじめにタイムマシーンを運転して現れたのが、 じつは部員同士が結婚して生まれた子どもだったとなると、 それこそ「バック・ツー・ザ・フュチャー」もどきになって、興ざめもいいところです。
やはり、タイムマシーンを、ごく日常での使用に限定するといった枠組みに、新味があって、 びみょうなおかしさが醸し出されていたのが、最後になって、その枠組みがはずされることで、 すべてが台無しにしてしまったように思います。やはり最初の目論見のママ、 タイムマシーンの限定使用を 貫くべきだったのではないでしょうか。

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