◇2006年6月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

大江健三郎「治療塔」

ネジキの花

ショートショート「船乗り込み」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2006.6.1
大江健三郎「治療塔」

大江健三郎著「治療塔」を読みました。SF版ノア箱舟とでもいったストーリーです。 環境汚染がどんどん進んでいく地球を見捨てて、「選ばれた者」が大挙して宇宙のどのかにある 「新しい地球」に向けて大出発をしていきます。
そして、彼らがふたたび地球に帰還してきます。ノアの箱舟船団は新しい地球に 地歩を築くことはできなかったのです。
主人公はリッチャンという少女。彼女は、祖母といっしょに住んでいて、 その祖母の息子は、つまり彼女の伯父は、日本の宇宙船団の総指揮者であり、 もう一人の伯父は、地球に残されたいわゆる「落ちこぼれ」を組織して生産性を 維持させるための実践を提唱した人物であるのです。また「選ばれた者」への 抵抗運動を組織している人物もまた親戚筋にはいます。
祖母が要の位置にいるために、これらの人物がつぎつぎに訪れてきます。 そんな中でリッチャンは、総指揮者の息子の朔ちゃんと結ばれるにいたります。
筋書きはそのようなものなのですが、詳しくは読んでいただくとして、 わたしが取り上げたいのは、「障害受容」と関わる、つぎのような個所です。

これまで、障害の「受容」、特に知的障害者の障害の「受容」ということを考えてきたものとして、 興味深い一節にめぐりあったのです。

残留したものたち(この小説では、『落ちこぼれ』と呼ばれています。)を励まして 再建を掲げた政治家森首相がつぎのように提唱しているのです。(現実の森首相ではありません。 念のため。)
「森首相が説いたのは、この汚染された地球に残された『落ちこぼれ』たちには、 障害者と比較されていい性質があるということだった。障害者であることに、 人間的な価値はいささかも影響されない。障害を『受容』して、 積極的に自分を生かそうとする道を歩きはじめた障害者には、 むしろあきらかに尊重されるべき価値がある。地球に残った者らは、 『落ちこぼれ』ということになっている自分の現状について、 困難な障害を持った人間がそれ自体を直視することから始めるように、 まず積極的な自己認識を持たねばならない。」

現代版『ノアの箱舟』に選ばれなかった『落ちこぼれ』は、「障害者」と似ている、 というのです。
その前提が、障害をもつことは人間的な価値とは無関係なのと同様、 『落ちこぼれ』も人間的な価値は『選ばれた者』と同様ということ。
そこことを踏まえた上で、現代版『ノアの箱舟』に選ばれなかった『落ちこぼれ』は、 障害者にまなんで、そのことを受容せよというのです。
医学者でもあるらしい森首相の理論によれば、この受容はつぎのような 段階を追ってなされるといいます。
「ショック期」、「否認期」、「混乱期」……
これは、ガン告知の受容の過程とにていますね。
さらに森首相の論。
「さて、このような過程を乗り越えて、どのように障害を受容するかが課題となる。 あなた方にとっては、『落ちこぼれ』たることを受容し、この地球に残っていることを自分の 個性として受け入れるために、いかに努力を行うかが課題であろう。その努力こそが、 いま汚染された地球に残され『落ちこぼれ』と呼ばれさえする人類のなすべきことであろう……」
障害をその人の個性と捉えようという考え方がありますが、 この理論はそれとまったく同じ発想です。

このあたりを読んで何だかがっかりしてしまったのです。これまで大江健三郎とずっと 読み続けてきたものとして、大いに不満をもたざるをえません。
「大江さん、やっぱりそれはムリがありますよ。そういった口先だけの建て前平等論に不満を もつ人間を描くことこそ文学の役目ではないのですか」とツッコミたくなってしまいます。

日頃から障害の受容というものがいかにむずかしいかを身近に見ている私としては、 ことはそんなに簡単なものだとは思えないのです。
障害者であることを、たとえば知的障害者であることを、どのようにして受容できるのでしょうか。 知的遅れがあるということは、それだけで、価値観がからんできます。 劣ったものというイメージがどうしてもつきまとってくるのです。それは現代版『ノアの箱舟』に 選ばれなかった『落ちこぼれ』の人たちも同様で、そんなに簡単に受容できるものではないはずです。『選ばれた者』と『落ちこぼれ』には、あきらかに差別があるからです。簡単に同等とみなすことはできないはずです。そういったことが、読んでいる間中つねに頭にこびりついてきて、わたしとしては、この小説に入り込んでいくことができませんでした。
では、障害の受容について、現段階でどう考えているのかを述べて 批判してもらうしかありません。
私が勤務する養護学校は、中学校の障害児学級から進学してくる生徒が大半ですが、 通常学級にいた生徒もまじっています。そして、中には障害受容が十分にできていない ものがいるのです。彼らは、養護学校に進学してきた事実を受け入れることができません。 最初は、ショックを受けて、まずは、「この学校に来るつもりはなかった。」と否認します。 彼らも混乱しているのです。それがいわゆる荒れとして表現されることも多々あります。 彼らも苦しんでいるのが感じとれます。この移行は、小説にあった段階を踏んでいきます。 そして、うまくいけば徐々に受容していけるのです。そういった過程で、生徒に寄り添いながら、 私としては、生徒に次のような気持ちを伝えられたらと考えています。
「君には、自分には一人では充分にできないところがあるだろう。そこのところでは助けを必要だ。 そのことは認めなければいけないし、助けを必要としていることは何も恥ずかしいことじゃない。 だれだって、歳をとったり、ケガをしたりしたら助けてもらわないといけないからね。」
こういった理解の仕方が、障害受容というもののありうべきかたちではないかと 考えているのです。
事実、この小説の終盤では、老齢に達したヒカリさんが、周りの人に助けられて、 音楽を教えている場面が描かれています。それが、障害受容のありうべきかたちのようにも 思うのです。
こういった考え方は、以前にも、この「うずのしゅげ通信」に書いたことがあります。


2006.6.1
ネジキの花

休日にはきまって近くの近つ飛鳥風土記の丘を散策します。いまは、膝を痛めているので、 あまりムリはしないのですが、かなりの登りもあって、山歩きの気分を楽しめます。
つい先日(5月27日)も、風土記の丘から近つ飛鳥博物館への道を歩いていると、 ネジキの花が咲いていました。白い鈴蘭のような可憐な花が まばらな房のようになって垂れています。しばらく足を止めて見とれてしまいました。 以前風土記の丘を登り切ったあたりで初めてその白い花をみつけたこときのことを思い出しました。 ちょうど、花の下に木の名前を書いた板が懸かっていて、 ネジキという名前を初めて知りました。 木じたいはあまり特徴もなくて、白い花が咲いていないと見過ごしてしまうほどのものです。 名前の由来を思いながら、木をようく見ると、なるほどねじれているのです。 樹皮をたどると幹がゆるやかにねじれていることがわかります。
しかし、それを知ってから、わたしはその木になぜか親しみを感じるようになったのです。 幹がどうしようもなくねじれていて、一方白い粒花はじつに可憐、 ふだんはなかなか覚えられない木の名前が、ネジキだけはしっかりと脳裏に刻まれました。
花をみつけた機会に、ネジキをインターネットで調べてみました。
「私の花図鑑」というホームページに花の写真とともにつぎのような説明があります。

「6月頃白色の集団の小花が枝からぶら下がる
花長8ミリ程度、花は壷型で竿灯状だ
葉は互生し長さ6〜10センチで卵型楕円ですこし波打つ
秋、日当たりの良い場所では紅葉する
木肌に特徴があり縦にねじれ模様がある
表皮は柔らかく明灰色をしている。有毒植物
暖地から高地までの山地に幅広く分布している
樹高は5Mまで、落葉低木、幹を割ってもねじれている」

「幹を割ってもねじれている」というこの一節にやはり奇妙に 惹きつけられてしまいます。この木、よほどねじくれているのですね。 その上、毒をもっている。
そんな木に、どうして惹かれるのでしょうか?


2006.6.1
ショートショート「船乗り込み」

夢の中では、恐怖は強調されるものです。
不穏な気配が空に満ちて、際限もなく大雨が降り続いていました。 雷鳴は一日中鳴り響いて、ただならぬ不穏な気配を醸しています。 大都市の排水能力をはるかに凌駕した雨が一週間、二週間と続いて、都市部も水浸しです。 マンション住まいの人はいいとして、一軒家を持っている家族の中には、自分の家を抛棄して、 山岳地帯に移転する家族が出ています。そして、嵐がすぎると、平野一面に泥の波紋を残して、 水が去り、容赦ない日差しで泥沼にひび割れが走り始めます。大雨に取って変わり、 何日も日照りが続きます。それこそ、雨の気配などどこにもない突き抜けたようなからからの 晴天が、一月、二月も続くのです。そうなると田圃の中に円形脱毛症のように丸い砂漠が出現して、 それが日々大きくなっていくのです。雨が降るまでその拡大を止める方法がありません。 乾季はいつまでも続くかのようで、およそ規則性がありません。天気の周期的なリズムを 無視した厳しさが支配しています。四季の優しさが、気まぐれな砂漠の気候に 取ってかわられたようです。
環境破壊が際限もなくすすんで、自然の復讐がはじまったのかもしれない、 私はそんな気がしていました。中国をはじめとするアジアやアフリカの国々の工業化が すすむにつれて、際限もなく環境が悪化してきたのです。食糧も目に見えて 乏しくなっていました。
疫病が波状的に人類に襲いかかりました。未知のウィルスによるいままでにない奇妙な 病気が猛威を振るうようになりました。昨年は、猫エイズの変種が、西アジアから ヨーロッパにかけて蔓延し、多くの人々が死んだということです。人の出入りを阻むために、 国境線はいっそう 厳重に閉ざされるようになりました。しかし、情報が切断されたわけではないので、 恐ろしい噂だけは世界を駆けめぐっています。
国連は、疫病の対策だけでもおおわらわ、それ以外の現実的な対応はとれていないようです。
そんななかで、六月下旬、梅雨だからなのか、それとも単なる雨季の巡り合わせなのか、 ここ3週間ばかり大雨の続く中、「『船乗り込み』がはじまる」という噂が、 街中に蔓延しはじめていました。
その船というのは、じつは「ノアの箱舟」の現代版で、宇宙戦艦ヤマトのように大きな宇宙船が、 種子島で製造されていたのができあがって、宇宙ステーションに向かって、 百万人規模の船団を組んで移住しようという計画らしいのです。 そこで地球の環境破壊から退避して、何百年か後に地球環境が改善したところで、 いずれはまた地球に還ってくる予定だといいます。
わたしは、自分が選ばれて「ノアの箱舟」に乗る資格があるなどとは思いませんでした。 しかし、私が勤めている養護学校の生徒たちは、乗る資格があると考えたのです。
自宅の地下室にこもっている場合ではない、そう決意しました。洪水で交通機関が麻痺して以来、 わたしは何週間も地下室の床をくりぬいてむき出しになった地面に足をつけて座り続けていたのです。 裸足を地面に置いていると、雨が降り続けば地面からは雨水が滲んできます。また日照りの時は、 足下の土が砂のようにもろくなって砂漠を実感できるのです。しかし、いま地下室から 出ていかなければなりません。 わたしは、自分が担任する生徒たちを連れて「船乗り込み」があるという広場に出かけました。 降り続く雨で足下は泥沼化しているにもかかわず、広場は人々でごった返しています。 全体を見ることができない巨大な宇宙戦艦の一部が、おどろくほど上空に、 煙るような雨の帳の隙間から現れる瞬間があります。そんなとき、 声にもならないどよめきが広場をつつみます。雨に煙っているためによくはわかりませんが、おそらく 蟻のような多数の人間が蝟集して、 彼らの周りで同じように雨を浴びながら巨大戦艦を見上げているのです。 人々に頭上から湯気のようなものがたちのぼっていて、 それがまるで行き場のない殺気のようでもあるのです。 日頃は人の思惑などおもんばかることの すくない自閉傾向の隆くんまでがおびえたような顔をしています。 他の生徒たちのもそのおびえが感染したのか、健一くんと裕子さんが同時に身震いをしました。 生徒たちは、透明なビニールの雨合羽に身を包んでいるのですが、巨大戦艦を見上げたとき、 雨水がしみこんだためか、智則くんが「寒い、寒い」と訴え始めました。 アスペルガーの新一くんは、さっきからしゃべりずめで、何とか不安をまぎら そうとしています。そんな中でも、ダウン症のエリさんは、おどろくべきことにいつも通り上機嫌で、 鼻歌でも歌いだしそうです。本質的に楽天家なのかもしれません。 彼女の笑顔はみんなをほっとさせたました。
わたしは、受付はどこかを探し回りました。たくさんの人々がどのようにならんでいるのかまったく 検討もつかないのです。わたしは、二十歳のころ行った大阪万博の雑踏を 思い出していました。生徒を連れて あちこち半日ばかり列の最後尾を探し回ったあげく、巨大戦艦の側舷の下のあたりで、 偶然に受付にいきあたったのです。幸運なことに、最後尾ではなく、受付のほん前でした。
ずらっと並んだ受付の担当者がジロッと冷たい目で私たちを舐め回しました。
「−−県の養護学校から来ました。この生徒たちをお願いします。彼らは、 宇宙船に乗り込む資格があると思います。」
「あなたは誰ですか? 先生?」
「はい、担任です。」
「皆さんで乗り込みたいと……。」
「わたしはそんな資格はありませんが、生徒たちには資格があると思うのです。」
「はい、では、資格証を見せてください。」
「えっ、そんなものがいるのですか?」
はじめての話に私がおどろくと、受付の担当者は、さげすむように一同をみまわしました。
「資格証をもっていない人はだめですよ。」
「資格の話なんかこれまで聞いたことはありませんが……。」
「しかるべきところには、秘密裏に案内を送っているはずです。学校にも各校一人あたり 校長推薦をお願いしたはずです。」
「では、私たちの養護学校は、そのそもの学校選抜に洩れているわけですか?」 「私にはわかりませんが、そういうことかもしれませんね。」
冷たい言い方でした。
「資格証がないのなら、帰った方がいい、無駄だから、悪いことは言わないですよ、 先生、生徒さんをつれてお帰りなさい。 ここは、ご覧のとおり混雑して、殺気だっているから何が怒るかわからないんだから……。」
「彼らは選ばれた人なんですよ。そんな資格証なんかなくても、私にはわかるんです。」
わたしは、疲れがどっと押し寄せたようで、半泣きになって訴えました。
「どんな人たちが秘密裏に選ばれたのか知りませんが、きっと後悔するはずです。 彼らが選ばれた人たちだということがわかるまでには時間がかかるんですよ。」
「そんなことを言われても、選ぶのは私たちじゃない、私たちは船乗り込みの 受付をしているだけなんだからか……。」
「はやくしろ、ぶっ殺すぞ……。」
後ろに行列ができていて、殺気だった罵声が浴びせかけられました。行列が揺れて、 私たちをはじき出してしまいました。
「さあ、さあ、どいてください。資格証のないものに付き合っている暇はないんだから……。」
けんもほろろにそう言われれば、もう一度行列に割り込んで交渉する気が失せました。 私たちは列から押し出されたまま、すごすごと引き下がらざるをえませんでした。
「やっぱりダメだったな。」
人混みをかき分けながら、私は隆くんに話しかけました。
「しょうがないよ、先生。宇宙戦艦ヤマトはあきらめよう。」
「ちきしょう、ぼくらこそ『ノアの箱舟』に乗るべき人間なんですがね。」
アスペルガーの新一くんは、いつものアニメ口調でつぶやきました。 思い通りにならなかったことで、彼は明らかに感情を害しています。 彼は、一度感情を乱すと半日くらいはそのことにこだわりつづけるのです。 学校に帰り着くまで、彼のおしゃべりを聞くのかとわたしはちょっとうんざりしました。
「ぼくはいつもそう思うんだけれどもね。ああいう人は見る目がないんだな。」
私は、新一君に寄り添いながら、慰めるように話しかけました。
「君たちのよさがわからないんだな。」
しかし、新一君の怒りは収まりそうもありませんでした。
「おれこそ、お前たちを見捨ててやるぞ。宇宙のどこかに姥棄て伝説だ。」
新一君が、人中を考えないで大きく叫びました。大きな声を制しながら、 わたしはふと気がついたのです。
「そうか、そうかもしれないな。こんな船に乗っていったら、宇宙のどこかに みんな棄てられるかもしれないよな。」
たしかに、宇宙戦艦ヤマトは現代版「ノアの箱舟」かもしれないけれど、もしかしたら、 それは新一君の言うように現代版の姥棄て山、姥棄て宇宙ステーションでもあるかもしれない、 という恐れもあるのです。
本当は姥棄てなのに、政治家はさも「ノアの箱舟」らしく装って、 何百万の人々を口減らしのために宇宙に放り出そうとしているのかもしれない。 「ノアの棄て船」。たしかに、そんな恐れもあるのです。
「地球がこんなことになってしまった責任は君たちにはないからね。 君たちはこれまでも何も悪いことをして こなかった。むしろ悪いのは、偉い人たちだよ。だから、 彼らを宇宙にほっぽりだそうというのかもしれない。」
「ぼくたちは、何も悪いことをしてこなかった?」
隆くんが、得意のオーム返しめかして応じました。
「悪いのはあいつらだ。オレの中の悪魔が命じている。あいつらを宇宙に棄ててしまうのだ。」
新一君は興奮した口調で叫びました。
「まあ、そう興奮しないで……。ぼくたちも危ないところだったね。」
わたしはほっとした気持ちでつぶやきました。
「船に乗れなくって、よかった、よかった。」
エリさんもあかるく賛成してくれたのです。
「そうやな。宇宙にすてられなくてよかったか? そんなふうに考えるか。」
わたしはみんなを励ますように大きな声をかけて、一人一人の顔を振り返りました。
生徒たちは無罪で、罪があるのはエリートたち。棄てられるべきは、彼らの方なのだ、 私のこころの中では、その思念は徐々に確信に変わりつつあったのです。

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