◇2006年7月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

ミヒャエル・エンデ著「はてしない物語」

映画「阿弥陀堂だより」

ショートショート「千年の樟」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2006.7.1
ミヒャエル・エンデ著「はてしない物語」(岩波書店)

ミヒャエル・エンデ著(上田真而子/佐藤真理子訳)「はてしない物語」(岩波書店)を 読みました。
おいしいものをようく味わうように、少しずつ読み進めていたのが、 ついに読了してしまったのです。
読書好きの少年バスチアンが、古書店で万引きした「はてしない物語」を 読むうちに物語の世界ファンタージェンに入り込んでしまうというふしぎなファンタジー。
何より楽しませてもらったのは、バスチアンがファンタージェンで巡り合う 奇妙きてれつな世界のありようと奇想天外な住人たち。一期一会、 バスチアンと彼らの生の軌跡が交叉したがために、一瞬物語の火花を咲かせるが、 当の物語はバスチアンを追ってゆくために、彼らとは離れていかざるをえない。
「けれどもこれは別の物語、いつかまた別のときにはなすことにしよう。」といった言い回しで、 どれだけの興味深い物語が置き去りにされたことか。たしかに、ミヒャエル・エンデは、 彼の代表作「モモ」からも、「サーカス物語」など別の物語を拾い上げているのだから、 この物語からもたくさんの拾遺の物語が生まれる可能性もあったわけですが、 亡くなった今となっては、それもあきらめざるをえないのでしょう。
わたしが、特に興味を引かれたのは、「霧の海」と「絵の採掘坑」。

「霧の海」というのは、「元帝王たちの都」に次のように描写されています。

「バスチアンは手すりにもたれて霧の海を見おろした。この町を支えている柱がどれほど 高いかが、太陽の光を受けてしたの白い海面に落ちている影でわかった。」
この町は篭細工で柱に支えられているのです。

「町はたいして大きくはなかったので、バスチアンはまもなくはずれに出た。 そこに広がる眺めは、この町がまぎれもなく船乗りの町であることを示していた。 形も大きさもさまざまの、何百という船があった。それにしても、かなり風変わりな港ではあった。 というのは、ずれりと並んだ船がみな巨大な釣りざおにつるされ、 白い霧が深く立ちこめている上で静かにゆれていたからだ。その船もまた、 篭細工でできているようだった。」
「「夜になると、」横から声が聞こえた。「霧は町の高さまで立ちのぼってくるのです。 そうなれば海に出られるのですよ。昼間は太陽が霧を散らすので、海面が下がります。」」

この町のありようにはイメージを喚起させられます。霧の海という発想はすばらしいものだと 思います。いくつもの物語がそこから生まれてきそうな気がします。

もう一つは「絵の採掘坑」

「小屋の裏に木造のやぐらが建っていて、その下に垂直に縦坑が地中深く掘ってあった。」

その縦坑から絵を掘り出してくるのです。

「それはある種の雲母でできた、ごくうすい透明の板に色がついたもので、 大きさも形もさまざまだった。」
「それらの絵が何を現しているのかは、謎めいていてよくわからなかった。」
「「あれは人間世界の忘れられた夢だ。」ヨルは説明した。「一度見られた夢は、 無に帰すということはない。だが、それを見た人間が覚えていない夢はどこへゆくのか?  ここ、ファンタージェンにきて、地下深くにおさまる。忘れられた夢は、地下で、 うすいうすい層になり積み重なってゆく。深く掘れば掘るほど、夢の層は密になっている。 全ファンタージェンが、忘れられた夢の基盤の上にあるのだ。」」

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にあるひかりの化石とも響き合うものがあって、 とても印象が深かったのです。
二つの例をあげましたが、こんなイメージがそれこそいっぱいつまっているのです。 人により惹きつけられるところが違っているでしょうが、きっとお気に入りの 個所を見つけられると思います。
十分な紹介とはなっていませんが、お勧めの一冊であることはわかっていただけたかと思います。 一度手にとってご覧ください。


2006.7.1
映画「阿弥陀堂だより」

「雨あがる」の感想を書いたことがありますが、 「阿弥陀堂だより」も、時代劇と現代劇の違いはあるものの、 主人公の性格はそっくり。監督がおなじ小泉堯史、そこに寺尾聡とくれば、 役柄が似通ってくるのも当然なのでしょうか。。
しかし、「雨あがる」の寺尾が演じる侍は、まだ強かったのですが、この映画では、 ヒロインである女医の夫は、そんな個性さえないような描かれ方です。
主人公は、新人賞をもらって、以後鳴かず飛ばずといった小説家ということになっています。 しかし、彼は無類に人がいいのです。
パニック障害を抱え持つ妻のために、生まれ故郷の信州の村に帰ってきます。
年寄りばかりが残されたその村の診療所で彼女が働くようになってからは、 彼はせっせと主婦をします。家々への広報紙の配付も気安く引き受けます。 その広報紙には、村一番長寿のお婆さんの聞き書きである「阿弥陀堂だより」が 連載されているのです。その聞き書きを書いているのは、 ガンのために声帯を失ってしゃべれなくなった娘、彼は彼女とも知り合いになります。 彼女のガンの再発などもからめて、なつかしく美しい自然を映しながら、 村の生活が流れていきます。
悪人など一人も登場しないのです。愛想がないといえばそのとおりなのですが、 それでもわたしはこの映画が気に入ったのです。だからこそ、取り上げたのです。

「うずのしゅげ通信」4月号でも触れましたが、「雨あがる」に善良ということについて、 殿様と側女のつぎのような会話がありました。

「おもしろそうなお方ですこと、優しさというものは、時によって人のこころを 傷つけるのでしょうね。」
「そうかもしれん。だれだって気の毒に思われるのはいやだ。自尊心を傷つけられるから。」
「お強い方もたいへんですこと、……ほんとうに強い方はどんなに善良に生まれついても だれかしらの怨みをかってしまうでしょうし……」

「阿弥陀堂だより」の主人公が強いかどうかはわかりません。強いかどうかはわかりませんが、 恵まれていることはたしかでしょう。歓迎の宴が開かれて、彼は「花百姓」といってから かわれています。百姓仕事をほっぽりだして花見にうつつをぬかしているということでしょう。 彼は恵まれて育ったのです。そして彼はまぎれもなく善良なのです。恵まれて育って善良、 そんな彼が怨みをかわないのはなぜなのでしょうか?
そこに秘密があるように思います。彼は彼一人としては見られていないのです。 おそらく村の人たちは、善良な彼とパニック障害を抱えた妻とを人括りのものとして 見ているのではないでしょうか。だからこそ、彼はその善良さを許されて、 怨みをかうこともない、そんな気がします。弱いものと一対としての善良さ。 それが映画の中で彼がその存在をゆるされるための隠れた仕掛けのように思います。 この映画の美しい映像、素朴な内容を下でささえているのが、実は障害を抱えた妻と善良な 夫という組み合わせのように思うのです。


2006.7.1
ショートショート「千年の樟」

鬱屈を抱え込んでいました。
父の介護に疲れていたのです。数カ月前に肺にガンが見つかり、 余命一年くらいと宣告されました。できるだけ家で看病するというので、 病院の紹介で酸素吸入の機械まで借りて、父のベッドまでホースを引いたりもしました。 しかし、病状は徐々に進行しているようで、すこし動くと息苦しさを訴えたりします。
休みの日は一日中、離れた部屋にいる父の気配を気にして過ごしていました。 そんなとき、ふいにその樟に会いたくなることがあるのです。父のそばから逃げたかったのかも しれません。しかし、そこは歩いていくには少し遠いので 自転車で出かけるのです。腰折れ地蔵のある山裾の道を自転車で走って 10分くらいの隣村に、 古めかしい壷井八幡という神社があって、 千年の樟はそこにあります。
道路にかかっている鳥居をくぐると、左手に屋根のついた井戸があります。 しかし井戸はいまでは管理されていなくて、水も湧いていなようです。
自転車を道路脇の掘ったて小屋のところに止めて、かなり急な石段を上っていきます。 ほとんど息をきらせて石段をのぼりきると、千年の樟が全容をもって迎えてくれるのです。 照っているときは、境内を陰で覆い、風があるときはざわざわと無数の葉群をふるわせて。

根方の太さはどれほどあるのでしょうか、検討もつきません。幹には注連縄がはられ、 傍らには千年樟を紹介する立て札が立っています。正面は生け垣に囲われているのですが、 横手からなら千年樟の根元に入ることが出来ます。
大きな根っこが何畳ともしれない広さで地面を覆っています。膝の上を歩くような 申し訳ない気持ちで根っこを踏んで太幹に近づいてみます。とても樹とは思えないほどの 存在感が迫ってきます。幹に掌を押しつけるとあたたかい樹の体温とでもいったものが 伝わってきます。幹に耳を押しつけてみたこともあります。何かうごめくような 音が伝わってくるのです。何の音なのでしょうか。
そんなふうにして、千年樟にしばらくたわぶれて、やがてまた正面にもどってくると、 立て札の前にある石のベンチに座らせてもらいます。
そうして、千年樟との向き合いがはじまるのです。それは語らいといっても いいものかもしれません。
ベンチに座るとまるで条件反射のようにもの思いはいつも決まったように劇の 一場面からはじまります。現在勤務している養護学校で上演したときのものです。
わたしが脚本を書いたその劇の主な登場人物は、ざしきぼっこと賢治先生(宮沢賢治)。
ざしきぼっこが、環境汚染が進んだ騒々しい地球に愛想をつかして、 地球からの脱出を企んでいます。そこへ、賢治先生が、以前に教えていたこともある 養護学校に帰ってくるという風の噂を耳にします。そこで、ざしきぼっこは、 賢治先生に頼んで銀河鉄道に便乗させてもらおうと考えます。 しかし、ざしきぼっこが地球から出ていってしまうと、地球がビンボーになってしまいます。 それは、たいへん、と生徒たちがざしきぼっこを賢治先生に会わせないように画策するのです。
そんなこんなで大騒ぎの学校に、賢治先生は、星の王子さまを伴ってやってきます。 じつは、賢治先生は千年と樟さんと話をするために地球に帰ってきたのです。

ざしきぼっこ 賢治先生はなにをしに地球に帰ってくるのかな。
生徒D よくわからないけれど、千年の樟の木に会いに来るんだって校長先生が おっしゃってたよ。
生徒E 八幡神社の大きな樟の木に聞きたいことがあるんだって……。
生徒A 賢治先生は、木とでも、トマトとでも話ができるんだよ。
ざしきぼっこ ふーん、すごいね。それでなにをききたいのかな?
生徒B これまでの千年の話をききたいんだって……。
生徒C これからの千年の話をしたいんだって……。
ざしきぼっこ たしかに千年の話は、千年の樟の木しか知らないからね。

そして、実際に賢治先生が千年の樟さんと話をする場面はこうなっています。

賢治先生 そうかもしれない。バオバブみたいに、よくばり人間がはびこって、 いまに地球をこわしてしまいそうだ。(樟の大木に向き直って)千年の樟さん、 あなたの千年の知恵をさずけてください。どうして、こんなことになったのでしょうか。
千年の樟(大木の幹に顔がある。) 百歳の賢治先生、あなたにはほんとうのことをいおう。 私が生きてきた千年で水や空気がこんなにまずかったことはなかった。 すべて人間がはびこっているからだ。バオバブの木が小さな星を壊してしまうように、 人間が地球を壊そうとしている。

「たしかに、千年の樟さん、」と私はつい呼びかけてしまいます。 「あなたが生きてきた千年で、水や空気がこんなにまずかったことはなかったでしょう。」
「おまえたち、人間のせいではないか。」
聞こえているのか聞こえていないのか不分明な声、 大樹のささやきといわれればそうとも聞こえ、またおのれのこころの声と言われればそうとも言える、 そんな声をわたしは聞いていたのです。
「すべて人間がはびこっているからだ。」
「人間のせいだと……、たしかに、そうかもしれない。では、どうすればいいのですか?……、 みんなが死んでしまえば解決するのですか、父が早晩死んでいくように……。」
脈絡もなくわたしは父の死を持ち出していました。そして、そのとき、きょうここに来たのは、 父の死について考えたかったのだということに思い当たったのです。
いつもにくらべてもの思いはせっかちに本題にふれてきたのです。 ふだんなら劇の場面からはじまって、しばらくいろんな想念が脈絡もなく浮かんでは消えて、 やがて一つの思いに収斂していくのです。しかし、きょうは単刀直入に父の死に触れてきたのです。 よほどせっぱ詰まっていることがあらためて痛感されました。 わたしはしばらくは、父の病気がわかってからのドタバタした日々をなぞっていました。
「自分の死、あるいは肉親の死を前にしたとき、人の時間感覚はどうなるのか。刹那的になるのか、 あるいは永遠を見てしまうのか」
わたしの中にふとそんな問いが浮上してきました。
しかし、その問いは切実さにおいて間近に迫っているにちがいない父の死に拮抗できる ものではありませんでした。
自分がほんとうに直視しなければならないものから目をそらすための観念の遊びに過ぎないような 気がしました。もっとも、だからといって、父の死を直視できるかというととてもできないのです。 そんなことは、所詮人間にできるはずもない、といった自嘲も浮かんできます。
意識の流れの堂々巡りをしているうちに眠っていたのでしょうか、 父が丸木舟で海にこぎだしていくイメージが浮かびました。大きな樟の木をくりぬいて 作った舟です。一瞬その舟のまあたらしい樟の香をかいだような幻覚がありました。
わたしは、父を呼び戻そうとしたのですが、すでに海原の遙かかなたに離れすぎていて 声も届きそうもなく、呼び戻すすべがありません。無力感に襲われ、 何かふっきれない気持ちを抱えたまま、わたしは我に返りました。うとうととしていたのかもしれない、 とそのときはじめて気がつきました。ふしぎな幻覚だった、と今度は意識的に遠ざかる舟 のイメージを追っているうちに、ふと以前つくった歌が浮かんできました。ここの千年樟を詠んで、 属している同人誌に載せたものです。

千年の樟大幹(おおみき)に韻きあり 熊野水軍夜の舟音

樟の大幹に耳を当てると聞こえてくる、何ともしれないふしぎな音。 それは、まるで「熊野水軍の夜の舟音」のようだと聞き取ったのです。
もちろん、熊野水軍の軍船が水を切る水音がどんなものなのかは分かりません。 ただ、水が幹を昇っていく音が、そんなふうなイメージをともなって聞こえたということなのです。 たしか熊野水軍の舟は樟の木をくりぬいて作っていたということをどこかで読んだ記憶があります。 その事実を下敷きにしてこの歌が出来ているのです。
ふしぎな夢でした。夢というより、白昼夢といったほうがいいかもしれません。 わたしは立ち上がって、あらためて、この夢を見させてくれたにちがいない鬱蒼とした樟の大樹に 向き合いました。
と、そのときです。白い蝶が一羽、樟の根元から樹容に沿って舞い上がっていくのを見つけました。 ひらひらとした白い蝶が、太幹と戯れながら上昇して、無数の樟の葉群と木漏れ日の 中にまぎれて見えなくなってからも、わたしは千年樟を見上げながら、 しばらく立ち尽くしていました。

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