◇2006年8月号◇
【近つ飛鳥風景】
[見出し]
今月号の特集
折口信夫著「死者の書」
ハグロトンボ
手話コーラスを聞きながら
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2006.8.1
折口信夫著「死者の書」
折口信夫著「死者の書」を読み返してみました。
折口信夫には、もう一つの名前があって釈迢空というのですが、
二つの名前ともに現在では知らない人が多いのではないでしょうか。
明治二十年に大阪に生まれ、天王寺中学から国学院大学を出て、
三年ばかり大阪府立今宮中学校の教師をしていたこともあります。民俗学者としては、
柳田国男と同時代で並び称される大家、また歌人釈迢空としても有名です。
私は、釈迢空の独特な歌に魅せられて、歌も読み、伝記も読んだりしてきました。
折口の小説「死者の書」は、昭和四十二年、中央公論社の全集廿四巻をわざわざそのために
買って読んでいます。何と当時で950円、当時大学生であった私には安くはなかったはず。
本を手にそんな感慨も浮かびます。全集の中には「口訳万葉集」もあって、
それは万葉集を読むときに参考書として愛用してきました。
今回、ふと「死者の書」が読みたくなったのですが、全集は重くて持ち歩く
わけにもいかないので、ちくま日本文学全集「折口信夫集」で読み返してみました。
大津皇子(みこ)のよみがえりをテーマにした小説です。
大津皇子の墓は、二上山にあります。
犬養孝著「万葉の旅(上)」(現代教養文庫)から引用します。
「大津皇子墓
あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと われ立ちぬれぬ 山のしづくに
(巻二−一○七)−大津皇子−
二上山の雄岳の頂上に大津皇子の墓がある。墓のところからは河内平野も大和平野も一望のもとで、
眺望はすばらしい。なぜこんな山頂に葬ったのか、畏怖のためか敬遠のためかわからない。
しかし青春有為の人の、いまもやすまらぬ魂のしずまるところとしてはかえってふさわしい
ように思われる。こんもりとしげった幽暗な山頂の墓所は、釈迢空の「死者の書」をよまないでも、
颯々(さつさつ)の風に身の毛のよだつような感がある。」
「万葉の旅(上)」には、その2つ前に「二上山」という項目があって、大津皇子の姉、
大来皇女(おおくのひめみこ)が弟を傷む歌が掲げられています。
「二上山
大津皇子の屍を葛城(かつらぎ)の二上山に移し葬(はふ)る時、
大来皇女(おおくのひめみこ)の哀(かな)しび傷む御作歌(みうた)二首
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む」
大津皇子の死罪は、持統天皇が、わが子草壁皇子を擁立するためにじゃまになることを
予想して謀反の罪におとしめたもの。
彼にはつぎのような挽歌が残っています。
百伝(ももづた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
「百伝ふ」は枕詞、「雲隠る」は、死を意味していて、大津皇子が最後に見た風景を
詠み込んでいます。「百伝ふ」は、枕詞とはいえ、百年も伝わるといった意味を
響かせているようです。つまりは、「百年たったらまた会おう」という意味をこめた
ようなところもあるのかもしれません。
「死者の書」は、まさにそのごとく、百年たって大津皇子の霊がよみがえるといった物語に
なっています。
二上山は、奈良からすれば西にあり、西方浄土の方角にあたることから、山の間から
阿弥陀仏が顔を出している「山越え阿弥陀」の絵柄があります。大津皇子が死んだのが686年。
「死者の書」は、それから7、80年後、大伴家持の時代に、大津皇子がよみがえり、
南家郎女(なんけのいらつめ)に依り憑き、二上山の麓の当麻寺(たぎまてら)に呼び寄せ、
山越え阿弥陀の絵柄で己の面影をかいま見せるといった筋立てになっています。
二上山(ふたかみやま)といい、当麻寺(たぎまてら)といい、小説の舞台はすべて
私の住んでいるところから近いということもあって、それだけで、ずいぶん親しさを感じるのです。
「たいまでら」というと近鉄電車には同名の駅もあり、日常の表現なのですが、
それが「たぎまてら」となると、なにか古代的な、独特の存在感のある響きをおびてくるようです。
そういった古代の雰囲気にあふれた文体は、ごつごつとしてとっつきにくいものですが、
舞台の近しさが、聞き慣れた地名が、その読みにくさをわすれさせてくれるようなところもあります。
釈迢空の短歌も、独特の韻律をもっていて、好きなのですが、この「死者の書」も、
作者折口信夫の憑かれたような語り口に惹きつけられます。癖のあるごつごつした文体は、
志賀直哉などの文章にくらべればはるかに読みにくい。しかし、折口の文体には、
歌人釈迢空の韻律、民俗学者折口信夫の学問的な教養、さらにまた同性愛者折口信夫の嗜好、
そういったいろんなものがない交ぜにされている太縄のような手触りがあって、
読後にも強い印象を残します。
読みにくいものであることは確かですが、読みにくさがマイナス価値ではなくて、
独特の魅力の源泉になっています。そんな小説ですから、もちろん読んでみる価値はあります。
一度挑戦してみてください。現在もっとも手に入りやすいのは、中公文庫のものです。
追伸
「万葉の旅」の著者、犬養孝さんには、因縁があります。まずは犬養さんの授業を
一年間受けたこと。「万葉の旅」と称するハイキングに参加したこともあります。
同人誌「火食鳥」主宰の国貞祐一氏のご母堂(書家)とも親交があったようで、
著書の表書きとかも依頼されたようなことをうかがったことがあります。また、十何年か前、
もっとなるかもしれませんが、「竹ノ内街道を歩く」といったイベントがあり、
その集合場所に指定されていた太子町の叡福寺(聖徳太子御廟があります。)にこられたことが
あります。そのときは、すでに介助を受けておらて、それがおみかけした最後でした。
犬養先生から教えていただいたことでいまに残っているのは、いわゆる「犬養節」と
称されている万葉短歌の読みかたです。一年間授業を受けたおかげで、
知らず知らずのうちに犬養節が身についてしまったのです。万葉集の歌を読むときはもちろんですが、
自作の短歌でも韻律をたしかめたくて、声に出して読むときがあります。
そんなときは、つい犬養節が出てしまうのです。独特のリズムと抑揚をもった読み方です。
でも、いかにも万葉調といった響きがこめられています。そういったリズムで現代短歌を読む、
それが作歌の方法としていいのか悪いのかは判断できませんが、ついそんなふうに
口ずさんでしまうのはとどめようがありません。
歌の読み方としては、歌会始めのやり方もありますが、あれは語尾を長く引きすぎているように
思います。個人的には犬養節の方を採ります。
いま手垢で汚れた「万葉の旅」を取り出して拾い読みをしていて、あらためてなつかしさとともに、
この本のよさを再認識させられました。たしか平凡社の「平凡ライブラリー」で
復刊されていたと思います(上中下の三巻)。興味のある方は一度お読みください。
この本を手に万葉散歩に出かけてみませんか。
2006.8.1
ハグロトンボ
梅雨が明けたのか、まだなのかはっきししないが猛暑が続いていた先日の日曜日、
縁側に座って前栽を見ているとハグロトンボが飛んできてつっと石の上にとまりました。
そして、羽根をつーと開いて、最後にキュッと開ききって、スッと閉じます。
そんな動きを何度か繰り返しています。そのうちに、羽根を閉じたまま動きがとまって
しまいました。風が吹いてくると、飛ばされそうになりますが、踏ん張っています。
そして、気まぐれに飛び立って、今度は大きなやつでの葉の上にとまって、またツーと開いて、
キュッと開ききって、スッと閉じます。
まだ小学生だった頃にもどったような感じがよみがえります。なつかしさととともにふしぎな
時間感覚にとらわれてしまいそうです。あの頃と何が変わって、何が変わっていないのか。
その家の主であった父が亡くなって、いまは自分が主のような顔をしている。
しかし、自分の内実はあのころとどれだけ変わったのか。何もかわっていないのではないか。
そんな感慨にさえ捉えられます。ハグロトンボがそんななつかしさをはこんできて
くれたようなのです。
そんな思いにふけっていて、そういえば、あの羽根をツーと開いて、キュッと開ききって、
また閉じるというあのリズムは、あくびのリズムだなと気がついたのです。それにしても、
どうしてあんな動作をするのでしょうか。蝶々でもあんなふうに羽根を開く動きを
見たことがあります。あの動きにはどんな意味があるのでしょうか。どうしてあんな
動作を繰り返すのでしょうか。キュッと筋肉を緊張させて、電気信号でも起こして
脳細胞を覚醒させているのでしょうか。人のあくびから連想してそんなことも
考えてしまったのです。それともときどきは筋肉を動かして体温を上げているのでしょうか。
どうしてあんなきみょうな動きをするのでしょうかね。
たしか、「とんぼのめがね」という歌がありました。
たしか「とんぼのめがねは七色めがね」といった歌詞でした。
「とんぼのあくび」という詩もいいなと、たわいもない思いがあふれてきます。
つぎの日は朝から雨でした。きょうはどうしているかなと見ると、いました、いました、
きのうのハグロトンボが同じようなポーズで葉っぱにとまっています。
そして、ふと気がつくときょうは二匹にふえています。交互にときどき飛び立ったりしますが、
二匹ともにとまるとまたあのあくびのような羽根の動きをしています。
またまたしばらく見とれてしまいました。
2006.8.1
手話コーラスを聞きながら
終業式の後、体育館で他校の文化祭に参加して歌う歌を、生徒たちが練習していました。
「この星に生まれて」という歌で手話を付けて歌っています。
それを聞きながら、同僚と交わした会話。
私(A)は、6年間ろう学校に勤めていました。私が勤めていたとき彼(B)が赴任してきて、
私が転勤してからも彼はもっとずっと永くろう学校に勤務し続けて、
つい2、3年前に私の勤務する学校にかわってきました。ろう学校での勤務が永かったため、
いまだに話していると自然に手が動いて同時手話が付いているようなところが見られます。
B「この手話コーラス、けっこう歌詞の逐語訳で手話をつけているけれど、
もっとだいたんにデフォルメしてもおもしろいのに……」
A「たしかに……、歌詞だから、詩的な表現にするという方法もありますね。」
B「自然に体が動いてくるようなリズムを取り入れて……、できそうな気がするけどな。」
A「最近手話のコーラスとかさかんですが、詩的な表現はこうしたらといった理論というか、
詩論というか、そんなものはあるのですか?」
B「聞いたことないけれど、Yさんなんかは、だいたんに内容まで変えているようなところが
あるけれど……。」
A「以前、NHK教育で男女のデュオで、女性の方が聞こえなくて、手話付で歌っているグループが
紹介されていたけれど、あの手話はほんとうにきれいだった。」
B「体の自然な動きに連動したリズミカルな手話みたいな、そんな感じのものかな。リズムは、
一番大切なような気がしますね。」
A「手話でもそろそろそんな手話詩の理論みたいなものが出てきてもいいんじゃないですか?」
B「たしかに……、たしかに……。」(と、手話つきで)
彼は、しばらく考えていて、
B「もともと手話というのは、美しさがあるでしょう。体の動きに合わせた自然な……、
チャップリンのパントマイムみたいな。」
A「チャップリンね。たしかにチャップリンのは洗練されているけれど……、
それは、芸だから……。映画を撮るときに何度も撮り直しているっていうし……。」
しばらく、お互いにもの思いがあって、
A「そう言えば、サイレント映画っていうのは、音が聞こえないのと同じ状況だからね。」
B「そういうことですね。あの動き、手話の表現と似ているでしょう。踊りもあるし……
音楽に合わせたパントマイムもあるけれど、踊りと音楽、どちらが先にできたのか……、
パントマイムに伴奏をつけたのか、曲にパントマイムをあてたのかわからないようなところが
あるでしょう。」
A「以前、これもNHKに、チャップリン的なパントマイムをするろう者が出ていましたね。」
B「芳本さんですね。チャップリンが好きで、コレクションもすごいらしい。」
A「あの番組でもチャップリンの映画のポスターを高い金をだして買っているところがありました。」
B「彼は奈良県でももっとも国際的なろう者ですよ。あちこちの国にでかけて世界中のろう者と
交流があるそうですよ。だから、彼の手話は分かりやすい。チャップリンも、映画でろう者と
共演しています。彼のパントマイムにはろう者から得た表現力が生かされているらしいです。」
A「イギリスのろう者ですか?」
B「映画を作ったのは、アメリカに渡ってからだから、アメリカかな?」
A「これは、一度インターネットで調べてみましょう。どれだけわかるかな?」
というわけで、インターネットで検索してみました。「チャップリン 聴覚障害者」と打ち込むと、
検索結果が表示されます。
そのなかにNHK「きらっといきる」のホームページがあって、「いつも心にチャップリン
〜聴覚障害のパントマイム名人・芳本光司さん〜」の記事が載っていました。
実は、検索結果には、この「うずのしゅげ通信」で、芳本さんを話題にしたページもあって、
チャップリンとろう者のことは、以前取り上げていたことを思い出しました。忘れていました。
最近こんなことが多くなったな。なさけないかぎり……。
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