◇2006年12月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

本が支え

賢治の父と母

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2006.12.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

「賢治先生がやってきた」新風舎文庫から自費出版しました。 置いている書店もあるかもしれませんが、 YahooとかAmazonとかのインターネット書店でも注文できるようです。 脚本の他に短編小説も載せています。興味のある方はご購入ください。

2006.12.1
本が支え

先月号にもすこし触れましたが、長男が亡くなって何も手に着かない日々が続いています。 日常生活が夢のようでふわふわと現実感が希薄になっています。 何をするにも意欲がわいてきません。人と話をするのもつらいのです。 離人症のようだと自分でも思っています。
そんな私をかろうじて支えているのは家族ですが、さらに言えば本を読むことです。
本を読んで気を紛らしているようなところもあります。 どんな本でもいいというわけではありません。 読める本は限定されています。
たとえば、高史明「深きいのちに目覚めて」。これは高史明さんが、 息子岡真史さんを亡くして歎異抄に目覚めていく話。 岡真史さんの書き残された詩は『ぼくは12歳』にまとめられています。
また、柳田邦男『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日」』や 『犠牲』への手紙」。 これらは柳田さんの経験を赤裸々につづったドキュメントです。
秦恒平「死なれて・死なせて」。 これは、「死なれる」ことは「死なせる」ことでもあるという考えを、 自らの生い立ちや文学作品を踏まえて論じた評論です。
種田山頭火の俳句。 山頭火の俳句を根底から支えているのは、幼い頃の母の死であることをあらためて 認識させられました。
そういった本しか読めません。
しかし、読んでいるときはこころをそちらに向けてまぎらしているだけで、 読んだからといって、つらさがやわらぐとか、何か慰めの光が見えるというわけではありません。 時がたつのを待つしかないということでしょうか。

2006.12.1
賢治の父と母

宮沢賢治は、昭和8年(1933)、37歳で亡くなっている。
臨終のようすについては、弟の宮澤清六氏が「兄のトランク」で次のように証言しておられる。

「二十一日の昼ちかく、二階で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」という 高い兄の声がするので、家中の人たちが驚いて二階に集まると、 喀血して顔は青ざめていたが合掌して御題目をとなえていた。
父は「遺言することはないか。」と言い、賢治は方言で「国訳妙法蓮華経を 一千部おつくり下さい。表紙は朱色、校正は北向氏、 お経のうしろには『私の生涯の仕事はこの経をあなたのお手もとに届け、そして其の中にある 仏意に触れて、あなたが無上道に入られますことを。』ということを書いて知己の方々に あげて下さい。」と言った。
父はその通りに神に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も 言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きてから書きます。」といってkら、私どもの 方を向いて「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。
それからすこし水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿を ぽろっと落としたときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった。」

賢治の父は宮沢政次郎、母はイチ。父の政次郎は、 たいへん熱心な浄土真宗門徒で、法華経を信仰する賢治とよく衝突していた という証言は読んだ覚えがあるのですが、 賢治が亡くなったときどのような様子であったかに触れた文章はかつて読んだことがありません。 清六さんの証言に登場する政次郎さんは賢治の臨終に際しても気丈なふうに描写されていますが、 三十七歳で、長男を亡くした嘆きはいかばかりであったか、 いまにして思えばそのことに思い至るのです。
ご両親のつらさについて何か書かれたものがあるのなら教えてほしいのです。

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