◇2007年1月号◇
【近つ飛鳥風景】
[見出し]
今月号の特集
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)
石井筆子
日常の力
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2007.1.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)
「賢治先生がやってきた」を新風舎文庫から自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生』と『ざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、
まだ舞台にかけられたことがありません。
(どなたか舞台にかけていただけないでしょうか。)
もっとも三本ともに、
読むだけでも楽しんでいただけると思うのですが。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
文庫の書棚に並んでいる書店もあるかもしれませんが、
YahooとかAmazonとかのインターネット書店なら確実にはやく手に入ります。
2007.1.1
石井筆子
12月19日(火)のNHK「その時 歴史が動いた」「母の灯火(ともしび)
小さき者を照らして
〜石井筆子・知的障害児教育への道」を見ました。
明治時代、鹿鳴館の華と絶賛された石井筆子が、
自分の子どもに知的障害があったことから、
知的障害児施設に身を投じ、
やがては施設を背負うにいたる経緯が簡潔に紹介されていました。
彼女の生き方そのものが身を挺した激しいもので圧倒されるばかりですが、
その感動とは別に、番組の中で紹介されていたことばが胸を打ちました。
筆子が再婚した石井亮一氏のことばです。石井氏は日本初の知的障害児教育
の学校「滝乃川学園」の創始者です。
学園を維持運営していくことは楽ではありませんでした。
学園の存続の危機に際して夫婦間のつぎのようなやりとりが紹介されています。
筆子は、当時脳梗塞のために車椅子での生活を余儀なくされていました。
そんな彼女に学園の経営が重くのしかかっていました。
亮一にそのことを愚痴ります。
「(動けないために)病床からヒヨドリを眺めるだけの毎日、
学園を続けていくことの何と辛いことでしょうか」
そんな筆子を亮一がつぎのように励まします。
「人は、誰かを支えている時には、自分のことばかり考えるけれど、
実は相手からどれだけ恵みをもらっているかは、気づかないものだよ」
筆子はたしかに亮一を助けて学園を支えてきたのですが、同時に
学園生からどれだけの恵みを与えてもらっていたか、そのことを考えてみよう
と亮一はいうのです。
このことば、私の身にしみたのです。養護学校での教員生活の中で
これまでも感じていたことなのですが、今回あらためて
そのありがたみを痛感させられたのでした。
昨年9月、長男を亡くしました。しばらくして職場に復帰したのですが、気持ちの持ちようが
わからなくて不安に苛まれていました。復帰がうまくできないようなら辞めるしかないとも
考えていました。そのころは知った人と会いたくないといった思いが強くありました。
人中を歩いていても現実感が希薄で、風景にも精彩がなく、
以前に読んだ離人症を病んだ人の心象風景そのままでした。
電車の中や職場で所かまわず不意にこみ上げてくるつらさ、
涙を見せることなく、そのつらさをうまく紛らすことができるだろうか、
といった心配もありました。
生徒たちは、もちろん今回のことは知りません。
私の落ち込みなどまったく気にかけてはいません。
いつもどおりの生徒たちです。いつもどおりの明るさです。
いつもどおりの遣り取り。……
しかし、私にとってはそれが救いでした。普段は心のすみに押し込めた
つらさが、意識にまとわりついてどうしても払拭できないときがあるのです。
そんな時は生徒に話しかけたり
して、気を紛らしていたのです。生徒の優しさ、寛容、明るさ……うまく言い表すことが
できませんが、それらが私を包んでくれているように感じました。
そんな中で、これまでも薄々は気づいていたことですが、
今回つくづく分かったことがあります。
自分は生徒を教える立場にいて、場合によっては支えてきたかの
ように錯覚しているけれども、それはものごとの半面であって、実は支えられて
いたのは自分の方だったということ。
校内で出会うといつも「浅田先生……」と声をかけてくれる生徒がいます。
別に用事があるわけではないのですが、笑みを浮かべて、
優しい抑揚を付けて。
出勤した最初の日、彼は、掃除場所にやって来たとき、そこで待っていた私に、
いつもどおり
「浅田先生……」と声をかけてくれたのです。
私は、返事を返しながら、ふと心に浮かんだことを口にしました。
「浅田先生なぁ、いまめっちゃ落ち込んでて、元気ないねん。
…くん、『浅田先生、元気出してください』
って言ってくれないかな、そうしたらきっと元気でるから……」
彼はにっこり笑って、じつに素直に「浅田先生、元気出してください」と
言葉をかけてくれたのです。
私はあやうく涙が出そうになりました。涙ぐんでいたかもしれません。
その呼びかけによって私は最初の日を乗り切ることができたのです。
彼の声かけはそのときだけではなく、
頼まなくてもその後しばらくは続きました。ほんとうにありがたかった。
そのことだけではありません、
私は生徒たちに感謝しなければならないことをいっぱい抱え込むことになってしまったのです。
まだ充分立ち直れたとはとても言えませんが、そんな生徒たちがいればこそ、
これまでやってこれたということ、それは
認めなければならないと思っています。
他の学校だったらもう辞めていたかもしれませんね。
追伸
生徒が持ってきてくれた映画のパンフレットで知ったのですが、石井筆子を主人公にした
「筆子・その愛」(山田火砂子監督、常盤貴子主演)という映画が
奈良県の各地を巡って上映されています。
また機会がありましたら、
ご鑑賞いただけたらと思います。
2007.1.1
日常の力
年末の朝日新聞(12/27)紙上に「鶴見俊輔さんと語る 生き死に学びほぐす」
と題して、鶴見俊輔さんと徳永進さんとの対談が掲載されていました。
徳永さんといえば、ホスピスケアのある「野の花診療所」を開設しておられる医師で、
私と同年齢です。
その対談の中につぎのようなことばがありました。
徳永 野の花診療所では死を前にした患者さんに何かしたいことを尋ねて、実現するよう
お手伝いしています。
「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空をみたい」
「道を歩いてみたい」……。
生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、
死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。
私は、今回の事故から3ヶ月、当初の何も手につかない状態から
どうにかここまで来られたのは、3つのことに助けられたと
考えています。
まず、一つは本、これはおなじような経験をされた方の著書を読むことで
どれだけ支えられたかしれません。つらい体験をどのように受けとめ、
どのように考えてこられたかを教わりました。それらの本を読むことで
いくぶんかは慰められ、また意識をそらせることができたのです。
もっとも、似たような体験といっても
それぞれが少しずつ異なっているところもあり、つらさもまた違っているのですが、
違いは違いとして、そういったつらさに対する共感は以前より
深まっているように感じています。
つぎに人のやさしさ。このことについては、またいつか、この「うずのしゅげ通信」で
触れることもあると思いますが、
いまはまだ具体的に語ることができません。
たとえば、それは上に書いた生徒のやさしさも
含めてのことです。
そして、もう一つが、日常の力というもの。せめて生活を普段の形にもどそうと努めることで、
どうにか崩れずに来れたように思います。
職場に復帰したときも、その話に触れることなく日常のパターンでくるんでいただいたおかげで、
どうにか耐えることができました。
あらためて何でもない日常がどれほどすばらしくかけがえのないものであるかを
痛感させられました。
徳永さんの言われるように、死というような非日常に会うと、「ありふれた日常の暮らしが
生命の根本だとわかる」ということなのでしょうか。
まだまだ、心が波立つことも多い、平穏とは言えない生活ですが、徐々に
内実ともに日常の生活に戻していきたいと考えています。
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