◇2007年4月号◇

【近つ飛鳥風景】

[見出し]
今月号の特集

「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

吉本のお笑い

賢治が叡福寺に

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2007.4.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

2006年11月、「賢治先生がやってきた」新風舎文庫から 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生』と『ざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 まだ舞台にかけられたことがありません。 (どなたか舞台にかけていただけないでしょうか。)
もっとも三本ともに、 読むだけでも楽しんでいただけると思うのですが。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。 文庫の書棚に並んでいる書店もあるかもしれませんが、 YahooとかAmazonとかのインターネット書店なら確実にはやく手に入ります。
追伸
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。


2007.4.1
吉本のお笑い

「おじゃまします」と、生徒が教室に入ってくる。
「じゃまするんなら帰って……」と、その教室の生徒が返す。
すると、入ってきた生徒が、Uターンして帰ろうとする。
そんなやりとりをよく目にしました。
吉本新喜劇のパターンが、生徒たちには共通のものとして入っているようです。
また、自閉的な生徒と私とのやりとりにこんなのがあります。
(ある生徒の側を通るとき)私が、手で新幹線の鼻を型どりながら
「あっ、めちゃ新幹線」と声をかけるのです。
(実は、生徒が声をかけられるのを待っているのです。声をかけないと催促してきます。)
(が、彼は、そんなふうに声をかけられると)「何で、新幹線なんや」と、大きく叫びます。
(そして、私に近づいてきます。)
(すると)私「ポワーン」と、新幹線の警笛を鳴らします。
彼「警笛ならすな」と、また叫びます。
これも、吉本新喜劇。辻本茂雄一派のやっている掛け合いです。
(さらに新幹線ゲームは続きます。)
私(売り子のまねをして) 「えー、ビールに弁当、ピーナッツ」とか言います。
彼「売り子のまね、せんといて」
私(新幹線に乗り遅れた人のまね)「ちぇっ」
彼「乗り遅れた人のまね、せんといて」
こういった掛け合いが延々と続くのです。
ところが、私がこの新幹線ごっこの新パターンの開発にあまり熱心でないと見て取ると、 彼は、ボケとツッコミを入れ替えたのです。
売り子のまねから、乗り遅れた人のまね、さらに車掌さんの車内放送、運転手の信号確認、 トイレやレールの切り替えまで、いろんなパターンを編み出してきて、 「私に、そんなまねせんといて」と突っ込ませるようになったのです。
しかし、立場を入れ替えるということは、ボケとツッコミの関係よりも、 その遣り取りを楽しんでいるということでしょうか。
こういったワンパターンの遣り取りは、自閉的な生徒に多いのですが、 これはいいことなのでしょうか、 どうなんですかね。
ワンパターンなりに、それでコミュニケーションを図っているわけだから、 やはり認めるべきなのでしょうか。
それにしても、吉本新喜劇に見られるワンパターンのお笑いは、生徒たちに受ける理由が 分かります。
以前、この「うずのしゅげ通信」で、生徒たちにも「ボケとツッコミの構造」が 理解されて受けている、という話を書いたことがあります。分かっている生徒もいるし、 単にその遣り取りのワンパターンを楽しんでいる生徒もいる、ということでしょうか。
そこで、あらためて考えたのですが、コミュニケーションが苦手な生徒は、 この「ボケとツッコミの構造」は、自分が安心できる会話に相手を誘い込む方法として 利用しているのではないでしょうか。
学校で、顔を合わせると、いつも「あんしつ」と声をかけてくる生徒がいます。 しかたなく、私も「あんしつ」と返したり、「暗室に入ったらあかんで」とか応じていたのです。 彼も自閉的な傾向を持っています。 最初は、なぜ「あんしつ」なのか、分かりませんでした。 そのうちに暗室にこだわりを持っていることがわかりました。 昼休みなど、 理科室の隣の暗室のあたりをうろうろしているのをよく見かけるのです。 そのうちに声かけが、「あんしつ」から「あんこ」に変わりました。 彼が「あんこ」と声をかけてくる。私が「あんしつ」と返す。そういったパターンができました。 これが、彼が、自分の安心できる会話に、私を誘い込むためのパターンなのだと思います。
彼はまだ「ボケとツッコミの構造」にまでは到らない段階なのです。 単なる「ことばあそび」の段階なのかもしれません。 コミュニケーションが苦手な自閉傾向を持つ生徒との会話に
「ボケとツッコミの構造」やら「ことばあそび」を呼び水として取り入れるというのは 考えられてもいいように思います。 もっとも呼び水でコミュニケーションに誘い込んだはいいとして、 それがパターン化することは目に見えていて、それをどんなふうに克服していくかは なかなかむずかしい問題だと思います。
単なる思いつきでだらだらと書いてしまいましたが、 そんなふうなことはこれまでにも充分試みられていることだと 思います。
それにしても、彼らのワンパターンに安易に応じていてよいものでしょうか。 ワンパターンを繰り返すことの 効用だけではなく、功罪といったことも考えなければならないようにも思うのですが、どうでしょうか。
そういった理由で、ということでもないのですが、最近また吉本新喜劇を楽しむことが多いのです。
追伸
先日(3月17日(土))、誘っていただいて、「田辺寄席」に行ってきました。 場所は、大阪、東住吉区の市立阿倍野青年センター。百数十人の席で、 土曜日の午後を、久しぶりの寄席ということで、楽しませていただきました。 前半は林家卯三郎「牛ほめ」、林家竹丸「天災」、桂文太「『藁人形』から」、中入りでは、 外の広場で茶菓子の振る舞いがあって、後半は林家そめすけ「物真似」、林家染二「お血脈」と、 盛りだくさんの内容でした。 この「田辺寄席」、毎月、土曜日の昼席、夜席、日曜日の昼席と3回公演で、 もう四百回を超えています。世話をする方がおられるのでしょうが、大変なことだと思います。
ちなみに、落語は、生徒にはわかりにくいと思います。
落語も基本的には「ボケとツッコミの構造」に支えられていますが、その上にストーリー展開があって、 なかなかついて行けないと思います。 枝雀さんのいう「緊張と緩和」は、ストーリーがらみの話で、 そうなるとなかなか理解がむずかしいのではないでしょうか。
その点、漫才の「ボケとツッコミの構造」は、会話の一つ一つが切り離されていて、 わかりやすいと思います。同じ笑いでも、漫才と落語、違うものですね。


2007.4.1
賢治が叡福寺に

【陳謝】
以下の文章において、宮沢賢治が父と同行して聖徳太子御廟のある叡福寺に参詣した とありますが、こらはまちがいだということが判明しました。
「宮沢賢治の詩の世界」というホームページによりますと、賢治父子は当日、叡福寺に寄るつもりで 京都を出発したのですが、何らかの事情で、叡福寺への参詣を中止して、法隆寺に向かったようです。
「宮沢賢治の詩の世界」の管理人は、関西線で柏原駅を乗り過ごしたのではないかと考えておられるようです。 そのことの詳しい考証がなされています。
私としては、インターネットで調べたつもりが、かってに思いこんでいたのだということを 思い知らされました。ここで、あらためて訂正し、お詫び申し上げます。
このことにつきましては、また後日「うずのしゅげ通信」で訂正するつもりですので、 お読みいただいた方々のご了承をお願いいたします。
                   2009.1.8


私の年上の仲間、私が属している同人誌「火食鳥」の同人である木本寿亀さんから お借りしている賢治関係の資料の中に内田朝雄著「私の宮沢賢治」があり、 その中につぎのような記述を発見しました。

「(賢治は大正十年)一月二十三日から八月中旬の「トシビョウキスグカエレ」の電報で 帰花(花巻に帰る)するまでのあいだに、四月、心配して慰撫説得に上京した父と一週間ほど、 関西へ旅行に連れ出されたのだが恐らく父子二人きりの旅行をしたのは賢治の生涯で これだけではなかったかと思われる。
伊勢、比叡山、磯長、奈良へと日本仏教の出発点といわれる聖徳太子一三○○年忌へ詣でる ための諸社寺参拝への旅への同道であった。」

聖徳太子の一三○○年忌で磯長とくれば、我が家の近くの太子町磯長にある 叡福寺ではないかと推察されます。叡福寺には、聖徳太子の御廟があります。 それで、調べてみました。
まずは、河出書房新社の「文芸読本 宮沢賢治」の年譜。しかし、大正十年の四月には、 「父上京し、共に伊勢神宮、延暦寺、法隆寺など参拝旅行を試みたが 賢治に帰花の意思はなかった。」とあるのみ。
ちくま文庫「宮沢賢治全集9 書簡」を見るが、それらしい話題に触れた書簡もない。 インターネットで「宮沢賢治 叡福寺」で検索してみると、ありました。蓮華院地蔵堂の ホームページ「新仏教講座」に、つぎのような記述を見つけました。

「心配した父が4月に訪ねて来ます。そして、伊勢参りや比叡山の伝教大師千百年遠忌や 叡福寺の聖徳太子千三百年忌への同行を誘います。賢治も父の意を察し、喜んで同行します。」

やはり賢治は、太子町叡福寺にお詣りに来ていたのです。
叡福寺といえば、一遍や親鸞も来たことがある名だたるお寺です。
その寺のことを年賀状に詠んだこともありました。
そのときの文面。

叡福寺には聖徳太子の御廟があり、一遍や親鸞が詣でたという記録も残されています。 勤めからの帰り、余裕があれば歩いて、叡福寺を通り抜けることを楽しみにしています。

一遍がのぼりし 石の
親鸞ものぼりし 段(きだ)か
今をのぼるは

年賀状の文面は以上ですが、さらに一首付け加えたらどうでしょうか。 往還二首ということになります。

一遍がくだりし 石の
親鸞もくだりし 段か
今をくだるは

その叡福寺に賢治も来ていたとは、嬉しい発見でした。
一遍、親鸞、賢治、こんなふうに列挙すると、あらためて 聖徳太子の偉大さを認識させられました。
叡福寺の桜も、もう咲き始めているはず、さっそく行ってみようと考えています。

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