◇2007年5月号◇
【近つ飛鳥風景】
[見出し]
今月号の特集
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)
八木重吉
シンポジウム『死者を送る』
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2007.5.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を新風舎文庫から
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生』と『ざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、
まだ舞台にかけられたことがありません。
(どなたか舞台にかけていただけないでしょうか。)
もっとも三本ともに、
読むだけでも楽しんでいただけると思うのですが。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
文庫の書棚に並んでいる書店もあるかもしれませんが、
YahooとかAmazonとかのインターネット書店なら確実にはやく手に入ります。
追伸
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
2007.5.1
八木重吉
最近、八木重吉を読んでいます。
八木重吉といっても、あまり知られていないのではないでしょうか。
宮沢賢治と同じ時代を生きた詩人です。キリスト教徒として、信仰に根ざした詩を読み、
三十歳で身まかりました。結核でした。そういったところも賢治と似ています。
生前に詩集『秋の瞳』が、死後に第二詩集『貧しき信徒』が出版されました。
遺稿の中にもたくさんの詩稿があって、『八木重吉詩集』が編纂、発行されています。
彼はこんな詩を残しています。
処女詩集『秋の瞳』の『序』
私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。
この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、
私を、あなたの友にしてください。
哀しみの 火矢
はつあきの よるを つらぬく
かなしみの 火矢こそするどく
わずかに 銀色にひらめいてつんざいてゆく
それにいくらのせようと あせつたとて
この わたしのおもたいこころだもの
ああ どうして
そんな うれしいことが できるだらうか
かなしみ
このかなしみを
ひとつに 統(す)ぶる 力はないか
ひびく たましい
ことさら
かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ
たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて
西へ 西へと うちひびいてゆく
おもひ
かへるべきである ともおもわれる
霜
地はうつくしい気持をはりきって耐(こ)らえていた
その気持を草にも花にも吐けなかった
とうとう肉をみせるようにはげしい霜をだした
ひかる人
私をぬぐうてしまい
そこのとこへひかるような人をたたせたい
桜
綺麗な桜の花をみてゐると
そのひとすぢの気持ちにうたれる
森
日がひかりはじめたとき
森のなかをみてゐたらば
森の中に祭のやうに人をすひよせるものをかんじた
神の道
自分が
この着物さへも脱いで
乞食のようになつて
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがへの末は必ずここへくる
引用しだすとキリがありません。いい詩がいっぱいあります。
読んでいるとふしぎにこころがやすらぐのです。信仰の下支えがあるからでしょうか。
同じ時代を生きた詩人とはいえ、賢治と重吉、表現はまったく違っています。
ただ、信仰があって、そこから詩が発想されているといったところに共通点があります。
そして、二人の詩は、ふしぎに私を慰めてくれるのです。
2007.5.1
シンポジウム『死者を送る』
3月のはじめごろ(いつかは不明)朝日新聞の夕刊につぎのような記事を見つけました。
「テーブルトーク」という欄で大谷大学の門脇健氏のインタビュー記事です。
その中につぎのような一節がありました。
「たとえば、突然子どもを亡くした親は、『なぜ我が子が死ななければならないのか』
という問いを何とか解こうと、裁判や出版などの活動を一生懸命にする。
そのこと自体、もちろん尊いが、なかなか答えが出ない。
苦悶の末にたどり着くのがこんな心境だという。「『いかに今を生きるのか』
と子どもから問われている。この問いに向き合うのが生きることである」。
自分は問いを解決する主体ではなく、問いに生かされている存在だと発想がひっくり返る。
大谷大(京都市北区小山上総町)で24日午後1時からのシンポジウム「死者を送る」
ではそんなことも話し合いたいという。」
私自身の現在の心境は、おそらくまだ、「なぜ我が子が死ななければならないのか」
を必死で考えている状態にあるように思います。まだ、つぎの段階、
「『いかに今を生きるのか』と子どもから問われている。
この問いに向き合うのが生きることである」といったところにまでは達していない。
それは分かっているのですが、それでもシンポジウムに参加してみようと考えたのです。
参加しても期待しているような話が聞けるかどうか、それはわかりません。
シンポジウムの内容は私が求めるものとは違っているかもしれません。
しかし、そこには子どもを亡くした親御さんの参加もあるかもしれない。
悲しみを抱えた遺族の方もおられるにちがいない。
そのような方々と同席すること、そのことに意味がある。またあえていえば、
そういった集会に出かけていくこと、
その遠出そのものにもすくなからず意味があるようにも思えたのです。
そして、3月24日、あいにく朝から雨模様の日でしたが、京都に向かいました。
大谷大学は、地下鉄北大路駅を降りると、すぐの所にありました。
校門のところに立て看があり、
「京都・宗教系大学院連合 公開シンポジウム『死者を送る』」というのが、今日の集いの
正式な名称のようです。
参加者は、百数十名くらいでした。
まず、最初に山折哲雄さんの基調講演がありました。
(以下、山折哲雄氏の基調講演の概要です。少し長いですし、要約に不十分なところもありますが、
興味のある方は読んでみてください。)
『死者を送る』ことが、後に残ったものにどういう効果をもたらすのか。
高齢化社会で、死者をどのように看取り、どのように送るのか。
『死者を送る』ということとイメージの問題、といった三つの観点からの講演でした。
未亡人についての日米比較(小比木)によれば、日本人の方が、夫の死を平静に受け容れていた、
ということです。死のショックからの立ち直りにも日米の差があるようです。
日本人は仏壇の前で、思い出の時を持つなど、心の交流をする場があって、
それが鎮静効果をもたらしている。米国の場合、そのような宗教的装置がほとんど見られない。
死者をどのように送るかによって心の癒しが違ってくる。現代のように核家族化が進むと、
日本でも仏壇もあまりないような状況で、アメリカに近づいている。
死者を送ることが、世俗化してきた。
キューブラー・ロスの話。ガンなどの死の宣言を受けたときの受容の5段階。
@否認、A怒り、B悲しみ、C無力、脱力、D受容
ロスは、D受容のとき、はじめて生死の断絶が生まれる。
そこを乗り越える、受け容れるかどうかが境目と言っている。
それは米人には、真実かもしれないが、
日本人の場合、生から死へのなだらかな移行があるのではないか。
死にゆくものを看取りながら、連続性の中で死者を送っている。
ロスは『続・死の瞬間』で、ほとんどの子どもがチョウチョになって別の世界に
旅をすると言い残している。子どもには、生死の断絶はなく、移行。
ギリシャ文化では、死者の魂はチョウチョになって飛んでいく。
ギリシャ語のプシケーには、魂とチョウチョの二つの意味がある。これは偶然の一致か。
我が国の神話では、死者の魂は、白鳥になって飛んでいく。
現代人にもそのようなイメージは残存していて、子どもの意識の底にあるのかもしれない。
ロスは、『死の瞬間』では、断絶を言っていたが、『続・死の瞬間』では、移行に考えを
変えたのかも知れない。
死者を送ることと、看取ることが綿密に関連している。
死者を送る、送り方によって送るものの心が変わる。
『死の看取り』、『死者を送る』といったことにはイメージが大切。
現在における遺影の意味。
写真が中央にあることの意味。イメージに向かって語りかけることで、慰めを得る。
死者を送るのではなく、生者の記憶をよみがえらせている。
どういうイメージで死者を送ってきたか?
ギリシャ人、魂をチョウチョのイメージで他界へ。
日本人、たとえば万葉人は、挽歌をたくさん残しているが、人は死ねば、
魂が遺体から高い山へ登っていくと考えていた。だから
遺体には無関心で、魂の行方だけが問題だった。ヤマトタケルの場合のように、
白鳥が飛んでいくイメージで捉えていた。
古代人なら、脳死臓器移植は平気だろう。重要なのは魂だけだから。
10世紀には、源信。いかにして人間は死ぬべきか、
いかにして浄土に送るかを考えた(往生要集)。
臨終の行事、どう看取って送るか(24時間体制で世話、念仏、来迎図、五色のテープ)
亡くなると、葬儀場で呪文、土をかける、霊魂は浄土へ。
霊魂のみが重要といった考えだが、それも近代化で希薄になってきている。
山折哲雄氏は、自分の死に際しては三無主義でゆこうと考えている。
葬式をしない。墓を作らない。遺骨を残さない(散骨)。
宮沢賢治は、26歳で妹を亡くした。北海道から樺太に旅して、挽歌を詠んでいる。
風が吹く、風の中にとし子の姿が立つといった表現もあり、
賢治にすでに『千の風』のイメージがある。
メモを元に書き起こしたので、うまく要約できていませんが、ほぼ以上のような内容のお話でした。
そのあと、禅宗の立場から中尾良信氏(花園大学)が、
イスラームの立場から中田考氏(同志社大学)が、
それぞれショートレクチャーといった話をされて、中休み。
小休憩のあと、シンポジウムの仕掛け人でる門脇健氏(浄土真宗)も加わって、
山折哲雄氏を囲んでの討議がなされました。
話題は霊魂のことに及び、中尾良信氏が、「道元は、霊魂については明確に否定されている。
生の時は生のみ、死の時は死のみ。」と断言されていたのが印象に残っています。
山折氏は、偉い仏教学者でも、追悼のことばを述べるとき、
「何々先生のご霊前に捧げる」といった表現をされるときがある、
といったことにも触れられていましたが、
「本来仏教では霊魂のあるなしは説かない」、
「仏教は、極力魂とか霊という言葉を使わない」というのが原則、とおっしゃっていました。
もともとインドの仏教はそういうものだったようですが、日本に伝来して変わった。
日本の仏教は、インドの仏教とは違うもの。日本人は死者の霊魂を送る。
日本の仏教は霊魂を認める仏教。最澄、空海は、霊魂を問題にしている。空海は両刀使い。
源信は、往生要集で、霊魂はないが、尊霊と言っているところもある。
まっこうから反対は法然、親鸞。
しかし、親鸞は、聖徳太子和讃で、魂という言葉を使っている。
(このあたりメモが乱れて、内容に矛盾があります。)
親鸞は、和讃で漢文(?)の名前を出している。
死者から自分は問われているというところに身を置いている。
日本の仏教は、魂を認めた仏教で、インドの仏教とは違う。
霊魂という言葉は難しい。洋の東西を問わず大きな問題。
そんなふうなことも述べておられたように思います。
メモを元にしているので、頼りない概要(とくに最期のあたり)になってしまいました。
(詳しくお読みになりたい方は、来年度のシンポジウムに参加されれば、
正確にテープから起こした資料をいただけると思います。)
しかし、私としては、最初に門脇氏の予告にあるような内容に到らなくて落胆もしたのですが、
また得るところも多々あったのです。やはり、参加してよかったと思っています。
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