◇2007年6月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘の風景】

[見出し]
今月号の特集

「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

中沢新一氏の「ダウンズタウン計画」

挽歌

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2007.6.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

2006年11月、「賢治先生がやってきた」新風舎文庫から 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生』と『ざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 まだ舞台にかけられたことがありません。 (どなたか舞台にかけていただけないでしょうか。)
もっとも三本ともに、 読むだけでも楽しんでいただけると思うのですが。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。 文庫の書棚に並んでいる書店もあるかもしれませんが、 YahooとかAmazonとかのインターネット書店なら確実にはやく手に入ります。
追伸
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。


2007.6.1
中沢新一氏の「ダウンズタウン計画」

4月27日のNHK総合TV「爆笑問題のニッポンの教養」中沢新一さんが登場。
そこで、ダウン症自閉症の人たちについて言及されていました。 ダウン症の人たちといると、心が和むといったようなことで、太田光さんも共感しておられました。
中沢新一さんには、いつも著書で啓発されているのですが、 この番組でダウン症児や自閉症児に言及されるなど思いもよらないことだったので 録画予約していなかったのです。だから、正確な引用ができません。
そこで、しかたなくインターネットで 調べてみました。すると、つぎのような情報を見つけました。 中沢新一氏が、最近そういった取り組みをされていることが分かったのです。
「CAN PAN」(日本財団公益コミュニティサイト)の ホームページから引用させていただきます。

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「なつかしい未来の森」プロジェクト始動!
(「ソトコト」(2007年1月号))

「なつかしい未来の森」宣言

森とともに生きる、日本人が昔から持っていた知恵。
いつしか、それを忘れてしまい、里山も鎮守の森も多くが失われ、人々も疲れ果てた。
そして今、あちこちで始まろうとしている、なつかしい森を、未来に蘇らせるプロジェクト。
(中略)
縄文の森にまで立ち返る。そこでは日本人の祖先でもある人たちが、 自分たちの心の奥底を見つめて土器を作り、なにかしらの儀式を行い、 自然と対照的な関係を保っていた。そして鎮守の森や里山を大切にしていた時代に行ってみると、 やはり自然との関係は上下関係ではなく、共生していた。里山を守ることだけではなく、 たとえば猿や馬との共生関係もあった。そうした事実を芸術人類学の立場から探究し、 そうした生活の復活を計画していきたい。
(中略)
中沢さんは言う。
「日本の中に、自然との間の、動物との間の、遮断された回路を復活させたいんです。 風景としては里山、森の復活。芸術としては、ヌーボー・シルク、サーカスをつくりたい。 動物たちとの日本の伝統的な芸能の復活と、新しいサーカスの融合ですね。 そして生き方の問題としてダウン症の人たちを中心とした小さな町をつくろうという 計画を立てています」
(中略)
中沢さんが所長を務める多摩美術大学・芸術人類学研究所は「ダウンズタウン計画」 というプロジェクトを立ち上げようとしている。これは、「アトリエ・エレマン・プレザン」 というダウン症の人たちを中心としたプライベート・アトリエを長年運営してきた人たちとの、 共同プロジェクトである。
(中略)
「とにかく一緒にいると心地がいい。風をつかまえたり、花や雲と話せる彼らといると、 人間も自然の一部だったということを強烈に思い出す」とは、 アトリエ・エレマン・プレザンの佐藤よし子さんの言葉だ。
ダウンズタウンは、ダウン症の人たちが中心となっている場所として構想されている。 アトリエがあり、彼ら自身がデザインした住居が点在し、中心にはミュージアムがあって 彼らの作品が常設されている。カフェやレストランではダウン症のウェイター、 ウェイトレスが働く。お年寄りもいて、畑仕事、料理、いろいろと教えてくれる。 ダウン症の人たちの芸術、暮らしぶり、文化から、明日へ開ける新しい調和の文化が生まれる場所。 そしてそれは、まさに自然とともに生きる場所となる。森や林の中に、 この街ができたらどんなに素敵だろう。新しい里山が、なつかしい未来の森が、 ダウンズタウンとともに生まれていく。遮断されたさまざまな回路がつながり、 人と人、人と自然がつながる。それは私たちが人であることを取り戻すこと、ではないだろうか。
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すばらしい考え方だと思います。中沢新一さんがこんなふうなことを考えておられると 知って嬉しくなってしまいました。これから、どんなすばらしい思想が生まれてくるか 注目していきたいと思います。

私の経験からいっても、ダウン症の人たちの明るさは、すばらしいものがあります。天性のものだと思います。 以前、この「うずのしゅげ通信」でも触れたことがありますが、「八日目」というダウン症の青年を主人公にした 映画があって、そこでも天性の明るさが表現されていました。しかし、また独特のこだわりもあります。 映画「八日目」では、そういった点も充分描かれていました。
もう一つの感想として、上の引用からも窺えるように、中沢新一さんの言われる「なつかしい未来の森」の思想は、 宮沢賢治を連想させるものがあると思います。だからゆえに、期待して見守っていきたいと思います。
追伸1
私は小説「綾の鼓」(『賢治先生がやってきた』(新風舎))で、ダウン症の生徒のことを書いたことがあります。 これは、養護学校生徒にとって大切な恋愛の問題を扱ったものです。

追伸2

8月に「爆笑問題とニッポンの学問」の中沢新一編の再放送がありました。
それを録画して、内容を確認しましたので、付け加えておきます。

田中「ここで先生は何を研究されてたりするんですか?」
中沢「いろいろやってんですけど、これはいまダウン症の子たちを集めてダウン症の 子たちの芸術村を作ろうという運動をいっしょにやっているんですね。 ダウン症の子たち、それから自閉症の子たちというのはものすごく芸術能力があるんですよ。 もともと芸術人類学研究所そのものが人間の思考能力とか、感情や情緒を全部巻き込んでもっとも人間らしい人間の状態とは 何かということを探っているわけだけど、それが芸術表現ということに結びついてきて、ダウン症の子たちや自閉症の子たちの絵画を 研究していくと人間のこころっていうものの秘密みたいなところへ近づいていくわけ……」
太田「絵を見ていると何となくそこに現れてくる。ちょっと調べたことがあるんですよ。 自分なりに、この子たちは温厚というか、……」
中沢「ものすごくピースフル」
太田「そうでしょう。で、障害の子どもたちがいっぱいいて、そりゃあガーとなっちゃう子や何かいろいろいるんだけど、そこに ダウン症の子を入れとくとその子が全部その間にはいるっていうことらしいんだけど……」
中沢「菩薩さまみたい」
太田「染色体ですよね。21番目の染色体、普通二つずつあるのにそこだけ3つあるっていうんですよ。ダウン症の子は 二つあるところ三つあるというのは一つ多いんじゃないかと思ったんですよ。 もしかしたら、進化じゃないかという気がしたんですよ。」
中沢「ある部分ではたしかに人間の未来形、先取りしているところもあるんですね。今僕らの世界はすごくまずしくなっちゃってるていう 印象も 受けるし、生きづらい、そういう世界の中で人間の可能性というのをいったいどこへ探っていくかというとまだ 僕らの中に生きているはずの人類の心 の状態というのは消えてはいないし、まったくかわらないで残っているわけだから、そこへもう一回立ち返ってみるということしか ないんじゃないか、蘇るためにはね。このダウンズタウンの研究なんかも、研究というか、プロジェクトね、一つの大きい柱ですね。」
太田「原点……」

なかなか興味深い試みですね。今後を期待していきたいと思います。


2007.6.1
挽歌

挽歌 その一

息子が28歳で逝ってしまった
思いがけず遠つ国ブラジルで
その日を境に、私はこれまでとはまったく違う世界に迷い込んでしまった
息子のいないその世界にはどうしてもなじめない
そこでは、ものごとの距離感が不安定で
現実が遠く、足を踏まえることができない
また、何か不穏な気配があり
これまでの世界ではありえないことが、起こる
北朝鮮が核実験をしたというニュースを
私は、職場にもどってまもない朝
駅まで送ってもらう車のなかで聞いた
アナウンサーの声は古いニュースのように色あせていたが
その口調は、あらたな戦前のはじまりを思わせる
「こんな世界はいやだ」
と、私は、突然車の中で涙を流した
いまだに息子のいないこの不安な世界にはなじめないでいる

息子は科学者だったから
死というものを、意識活動の停止だと観念していただろうし
私も、そんなふうに思うのだが
それでもたましいの片鱗なりと、どうにかしてみつけたいと
あがきにあがいている
中有を過ぎたころから
季節はずれの冬のハエが
日に一回くらい、台所に姿をみせるようになった
そんなことが一月ばかり続いたある日
目の前にめずらしくじっとしているハエに
妻は、息子に語るように話しかけてみた
話し終わると、ハエは妻と真正面に向かい合い羽根をふるわせ続けた
妻は、季節がら、蝉にもコオロギにもなれなかった息子が
考えた末、ハエになってあらわれたのだと言った
「あの子のことだから考えたのよ」
と、いまでも半ば信じている

ふだんは気づかないが
なんでもない日常の底の底に隠されていた不可能の岩盤
そこに額をごつんごつん打ちつけて自傷しているかのような日々が続いた
ついそこに息子の気配はある、それでいて決して会うことができない
そのことが私を引き裂く
これまでも、子どもを亡くした何千、何万、何億という親たちがどれほど嘆いたことか
しかし、誰ひとりとして再会をはたした親はいない、とみずからに言い聞かせてみる
それでも、つらさはおさまりはしない
今生ではもはや会う方法はないという
深い淵の上に佇んでいるような不安な現実が
時と場所を選ばず惻々と私を襲ってくる
不安は拭っても拭っても拭い去ることができない
そんなときは、トイレにでも避難するしかない
閉じこもって、自傷の誘惑に耐えることが
自分をかろうじて支える唯一の方法であったと、今は思う
教室で
卒業を間近にひかえた生徒が持ってきたサイン帳にこんな問いを見つけた
「魔法使いに、ひとつだけのぞみをかなえてやるといわれたら、何をお願いする?」
その瞬間はっと胸を突かれ、顔色が変わるのがわかった
時間を、息子が亡くなる前の夏にもどしてくれ
そんな思いがなにげなくヒヤッと通り過ぎる

息子は、宮沢賢治の命日とおなじ9月21日に、ブラジルの海岸で遭難した
遺品の中に文庫版の『銀河鉄道の夜』があった
『銀河鉄道の夜』は
祭りの夜、川に落ちた友を助け、自らは溺れてしまったカンパネルラが
天上の旅に出立する物語だ
遺体の確認、火葬という一泊五日のブラジル行で
唯一浅い眠りをねむったマセイオのホテルでは
夜空を見上げる余裕はなかったが
頭上にサウザンクロスが輝いていたはず
サウザンクロスは、銀河鉄道の天上の駅だ
賢治にかかわるこんな偶然を星座のように配置して
私は、いったいどんな物語を紡ごうとしているのか

幼少のころの息子の思い出はたくさんあるが
私は
いまだに息子のアルバムを見ることができない
妻は
自分の中の楽しかった思い出が
まるでカードが裏返されるように
すべてがつらいものに変わってしまったと嘆く
どうしても会いたくてたまらなくなったときには、写真を見る
その時は涙があふれるが
息子に会えたようで少し心が静まるとつぶやく

息子のことを書き残しておこうと思っても
十本ばかりの論文のほか
彼がどんなことを考えて生きて来たのか
内面をうかがうに足るものはほとんど残されてはいない
小学校時代の作文と、中学、高校の卒業文集のみ
神はその人にたえられない試練は与えないと
力づけてくれる人もいるが
私はそんなに強くはない
これまでかろうじて精神のバランスをとりながら
普段の生活を演じてきた
どうしてこれまでの日々をしのいでこられたのかふしぎなくらい
わたしは嘆き疲れました(注)
わたしは悲しみ疲れました
そして最近ようやくその嘆きの断片を
悲しみのありのままを、書きはじめようとしている
嘆きを馴らし、やわらげ
悲しみを悲しみのままに生きる力となすために

                   (注:詩編より)
反歌
遠つ国に逝きし息子のみたま還り近つ飛鳥の丘にやすらえ
草枕旅にしあればとむらいを五人が集いわが経でなす


 挽歌 その二

柳田邦男氏は、次男を亡くした
脳死から死への11日が過ぎ、遺体が家に帰ってきた深夜
テレビのスイッチを入れると
偶然、衛星放送でタルコフスキーの『サクリファイス』が放映されていた
生前、彼に深い感動をもたらしたその映画は、いままさに終わろうとしていた
「バッハの『マタイ受難曲』のアリア」が
「「憐れみ給え、わが神よ」のむせび泣くような旋律が
部屋いっぱいに流れた」
柳田邦男氏は脳死をテーマにノンフィクションを書き始めた

高史明氏は、十二歳の一人息子に死なれたあとをとぶらい
写経、そして念仏に救いを求めた
結句、彼は親鸞の徒となった
悲しみは、死者から生者に差し向けられた回向(還相回向)だと言われる
それゆえに、悲しみから逃れるのではなく
その悲しみをむしろ大切なものとしていただき
悲しみは悲しみのままに、おのれの慈悲へと昇華しなければならぬと

西田幾太郎は、当時三高のラグビー部員であった長男謙を亡くしたとき
つぎのような短歌を詠んだ
《垢つきて仮名附多き教科書も貴きものと筺(はこ)にをさめぬ》
《死にし子の夢よりさめし東雲(しののめ)の窓ほの暗くみぞれするらし》
また、それより先、次女を亡くしたとき、つぎのようにしたためられた
「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、
遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、此処(ここ)には深き意味がなくてはならぬ、
人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。」

五島美代子は、長女を亡くして、つぎの歌を詠んだ
《亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ》

中原中也が、幼い息子を病気で亡くしたときの詩
《また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない》
そんなふうに歌ったが、それでも耐えきれず、神経衰弱を患い、療養所に入院した

中田武仁さんは、長男の厚仁さんが国連ボランティアとしてカンボジアで殉職したとき
ただちに、支援基金を設立し
また、自身が国連ボランティア大使になって
いま、世界を駆け回っておられる

宮沢賢治は、九月二十一日に亡くなった
(奇しくも、私の息子Yoichiと同じ日だ)
父宮澤政次郎は、賢治の遺言にしたがい
『国訳妙法蓮華教』千部を翻刻、友人知人に配付した


追伸
上記『還相回向』について
先月号の「うずのしゅげ通信」で書いた『死者をおくる』というシンポジウムで京都に赴いたときに購入した 高史明氏の著書『世のなか安穏なれ』の中にあった一節、 そこにも何かヒントが隠されてあるように思われます。
ある僧侶が母を亡くされます。
「その悲しみは、どんなに深いものだったことか。それこそ計り知れないものだったと 思われます。しかし、その底知れない悲しみこそが、還相回向であります。無明を生きるほかない 人間は、その計り知れない悲しみをいただいたとき、 はじめて真の生を仏さまから頂戴するのであります。 生き返るのであります。」
この考え方は、私にはとても大切なものに思われます。なぜなら、そこに亡くなったものを 自分の中で生き返らせて、いっしょに生きていく道がひらけるからです。
そのことについて、もう少し考えを進めてみたいと思います。
岩波仏教辞典に『往相・還相(おうそう・げんそう)』という項目があって、 そこにはこんなふうな記述があります。
「中国浄土宗の核心をなす教義。仏教者が自己の功徳を自分以外の方向に向けて、 生きとし生けるすべての存在にあまねく施し与えてゆき、ともどもに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんとする 願を立てるのが〈往相〉。それとは逆に、浄土からこの罪に汚れた現実世界(穢土)に帰ってきて、生きとし生ける すべての存在を導き救って仏教の真理に向かわせるのが〈還相〉である。」
還相回向というのは、往生した死者が、現実世界に働きかけてくる回路なのです。
だから、高史明さんは、死者を悼む悲しみそのものが、還相回向だというのです。
そして、もしそんなふうに考えられるなら、死者は、生者を回向してくれるものとして 生者とともに生きているともいえるのではないでしょうか。あるいは、生者は、死者の回向の中で生かされていると 考えることもできるのではないか、というのが私のひそかな思いでした。
息子を亡くしてからずっとそういったことを考えてきました。
そんな折、たまたま、 先月号の「うずのしゅげ通信」で取り上げた門脇健氏のインタビューに出くわしたわけです。 そこにもまた、還相回向にかかわりのある、 おなじ方向性をもった考え方がありました。
「たとえば、突然子どもを亡くした親は、『なぜ我が子が死ななければならないのか』 という問いを何とか解こうと、裁判や出版などの活動を一生懸命にする。 そのこと自体、もちろん尊いが、なかなか答えが出ない。」
苦悶の末にたどり着くのがこんな心境だという。
「『いかに今を生きるのか』 と子どもから問われている。この問いに向き合うのが生きることである」。 自分は問いを解決する主体ではなく、問いに生かされている存在だと発想がひっくり返る。」

ここには、死者に向けられた問いから、反対に死者から生者である己に向けられた問いという、問いの向きの転換があります。 その問いはわれわれを回向する問いであると考えることもできるわけです。まさに還相回向に近いものである といってもいいように思われます。
高史明氏は、死者を悼む深い「悲しみ」は死者からいただいた回向だと言われます。
これは、門脇健氏のインタビューにある「『いかに今を生きるか』と子どもから問われている。 この問いに向き合うのが生きることである。」ということと、死者から生者に向かう働きかけという意味で似通っています。
まだまだつらいばかりの毎日なのですが、そんな中で一縷の望みとして、いま自分が悲しい思いをしているその悲しみは じつは息子から私に向けられた回向であり、その悲しみを慈悲にかえることができれば、それはまた息子からの問い、 「いかに生きるか」という問いの答えにもなりうるものです。 悲しさは悲しさのままで保ちつつ、慈悲の思いが萌すこともある、そんな心穏やかな日常が訪れることがあるのでしょうか。
ただ祈るのみです。

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