◇2007年12月号◇

【HOOPイルミネーション】

[見出し]
今月号の特集

「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

性教育

二上山(ふたがみやま)挽歌

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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今年もあとわずかになりました。この一年、「うずのしゅげ通信」にご来訪いただき、 ありがとうございました。
来年の三月に定年退職を迎えます。否応なく生活がかわらざるをえず、 興味の対象も考え方もかわると思います。 必然的にこの「うずのしゅげ通信」の内容も変化するはず。 どんなふうになるかは予測できませんが、心機一転、 新しい境遇に向かって一歩を踏み出していく心づもりでいます。 今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いします。

2007.12.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

2006年11月、「賢治先生がやってきた」新風舎文庫から 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生』と『ざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 まだ舞台にかけられたことがありません。 (どなたか舞台にかけていただけないでしょうか。)
もっとも三本ともに、 読むだけでも楽しんでいただけると思うのですが。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。 本屋さんで注文するという方法もありますが、 YahooとかAmazonとかのインターネット書店なら確実にはやく手に入ります。
追伸
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。


2007.12.1
性教育

賢治が童話を書いたのは、どうしてなのでしょうか。
池澤夏樹さんは、つぎのように分析しておられます。 (「言葉の流星群」(角川書店)
「一つは子供のほうが自然に近い」ということ、だから自然人としての賢治には親しい存在であるというのです。 さらにもう一つの理由は、「彼が若かったということ」、だから「ひらめきの中に深さが」あって、 それを書きとめるには童話が向いている。
もう一つの理由として、「宮澤賢治という人には、大人になることを拒否する一面があった」ということをあげておられます。
「成熟の一番大事な指標は、男女関係です。彼はこの問題を、 たぶんいったん封印してしまったんだと思います。」
だから、賢治の書いたものには性を連想させる表現というのはあまり見かけません。
賢治における性的なにおいのする数少ない例として、池澤夏樹さんはつぎの詩をあげておられます。
己の死をテーマにした「その恐ろしい黒雲が」という詩です。

 その恐ろしい黒雲が

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたしくは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の大地を恋ふと
なかばは戯れに負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
(後略)

池澤夏樹さんは、この詩に、賢治の官能性を嗅ぎとっておられるのです。

「雨雲と婚するという言葉遣いは、「雨雲の交わり」を連想させる。 漢文に言う男女の契り(宋玉、 高唐賦「旦為朝雲、暮為行雨」)。お行儀のいい中国文学にはめずらしく性行為を直接に、 しかし いかにも迂遠に、表現する言葉である。同じようにお行儀のよかったケンジさんが それとなく使うのに ふさわしいとも言える、ただし、この詩人は性を直接は書かなかったが、 官能は彼の詩的感受性の中心にあった。 自然との交流は官能なくしては成立しない。」(「言葉の流星群」(角川書店))

自然詩人賢治の自然とのまじわりを下支えする官能性といったものについてあらためて 目を開かせられる指摘でした。

私は、高等養護学校の性教育のために、人形劇「イーハトーブへようこそ」という脚本を書いています。
性の生々しさを軽減するために人形劇の想定なのですが、実はその劇の中で雲に性行為をさせているのです。
その場面を引用してみます。ほんとうは、脚本を読んでいただきたいのですが。

卒業生 賢治先生みたいに結婚してなくてもセックスはできるんでしょう
トシ でも、セックスは結婚してから、それがルール
賢治先生 いや、ほんとうはできる。でも無免許だから、 猫バスよりすこしあぶなっかしいかな、二人乗りだしね
ピエロ 注文の多い料理店ばかりですね
賢治先生 そうだな。でも、結婚しない生き方もあるんだよ、ぼくのように。 このトトロの木もそうだ。千年もひとりで立ってる
卒業生 独身で千年。そうか
賢治先生 その雲をつかむような話を、トトロの木さんに聞いてみようか
卒業生 えっ、木と話をするんですか
賢治先生 そうだよ、トトロさん。ほら、こうして幹に耳をあててごらん、 トトロの木と話ができるよ(みんなが幹に体を寄せる)
卒業生 ほんとうだ、なにか聞こえる
トトロの木 トットロ、トットロ、トットトロ
卒業生 トットロ、トットロ、トットトロってつぶやいてる
トトロの木 (突然大きい声で叫ぶ)雲をつかむような話は雲に聞け
卒業生たち うわー、びっくりした(舞台に散る)
トシ ほんとうね、兄さん、ほら雲がきれいだわ
(舞台の上に雲がゆっくり流れてくる)
賢治先生 では、みんなで雲見をするか
卒業生 雲見ってなんですか
賢治先生 お花見のようなもんだな。雲を見る
卒業生 そうか
卒業生 あれ、おかしな形の雲が二つ出て来ました
トシ 見たくなかったら、女の子は目をつむっていてもいいわよ
賢治先生 雲にだって男性や女性はいるよ。ちょっと想像してみればね
卒業生 (ソフトクリームを食べながら)ふーん、そうか……。 そういえば、どうも、じつにりっぱだね、あの雲は
卒業生 うん、うすい金色だね。男雲だな
卒業生 あれ、したからすこしちいさい雲がちかづいてきた
卒業生 女雲だね
卒業生 あっ、かさなったよ。いやらしい
賢治先生 いやらしくなんかないよ
卒業生 エッチしてるのかな、雲のくせに
卒業生 そうかもしれん、もっとみせてくれよ
賢治先生 シー、 耳をすませてごらん、雲が話しているのがきこえるよ
女雲 ユリアがわたしの上にいる
大きな紺いろの瞳をりんと張って
ユリアがわたしの上にいる
男雲 ペムペルがわたしの下にいる
おれははっきり眼をあいているのだ
ペムペルがわたしの下にいる
(「小岩井農場」パート八、パロディ)
男雲・女雲 ふたりのあいだの雲探検
(ということで、段ボールで作った男雲と女雲の性行為が、 「やまなし」のパロディの朗読がなされる中、生徒の年令を考慮した抽象的な形で、決していやらしくなく演じられます)
(二人の雲は照明をあびて紅く夕焼け、やがて消えてゆく)
卒業生たち あーあ(と溜息をつく)
賢治先生 雲さんに教えてもらったことを忘れるんじゃないよ
トシ 雲からも風からも、透明な力があなたたちにうつれ
(夕暮れて舞台が暗くなってゆく)

(注:ペンペルとユリアは、賢治の詩に登場する人物です。)

雲にセックスをさせるという発想は独創的だとひそかに自負していたのですが、 その発想はやはりどこかで賢治に通じていたのでしょうか。「雨雲と婚する」 という表現に見られるように、すでに賢治の詩にその発想の萌芽はあったということですね。
私の場合は、段ボールの雲にセックスをさせることで、いやらしさをまぬかれるだろうという考えもあってのことです。
ずばりセックスの表現だけではなく、それらしい言葉もいくつか使われているためでしょうか、当初このホームページは、 県のコンピューターからは アクセスできなかったのです。有害サイトと見なされて遮断されたのかも知れません。
おかしいと注文をつけてくださる方があって、繋がるようにはなったのですが、また、今回のこの引用のせいで、 シャットアウトされる 怖れもあります。
また、内容が性教育にふさわしくないというクレームだって受けるかもしれませんね。 東京都の例もありますから。
事程左様に性教育はむずかしいということでしょうか。


2007.12.1
二上山(ふたがみやま)挽歌

  二上山挽歌

教師を演じる勤めがはねて
逃れるように校門を出たところで
限界まで切羽つまっていたことに気づく
一年たって、なおこのざま
夕闇迫る宮ノ森の村中をせかせかと歩き
笠縫駅のホームに立つと
奈良盆地はなごりの夕焼け
低いほどに濃くなる茜色をたたえた西の空
その茜色の降りつむ下に
歴史の遠吠えが聞こえる山
二上山のシルエットがくっきりと浮かびあがる
私の家は、あの二上山の向こうだ

ああ、胸ふるわせる名をとなえてみようか
大津皇子(おおつのみこ)を悼んで
姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が
二上山に呼びかけたように

うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
        (万葉集巻第二 一六五 大伯皇女)

節をつけて低く朗唱してみる
遠い万葉の皇女の声が
千数百年の隔たりを越えて
今、悲しみに私を誘う

二上山は、「山越しの阿弥陀」の山でもあるが
今の私はまだ祈ることができない
ただ、いにしえ人におのれを重ねて
奈良盆地の真ん中から
西方の二上山に向かって
胸ふるわせる名を心の中でとなえてみよう
そこにあふれくる暖かい気配を浴びていよう
それをたましいと呼ぼうと
思い出と呼ぼうと
なんの違いがあろうか


 ボディブロー

妻よ
そんなふうに
悲しみのボディブローに
たえるだけでは
いくらなんでもまいってしまう
時に夢にうなされるのは
そのダメージが今になって
夢に侵入しているからではないのか

妻よ
そんなふうに
悲しみのボディブローを
浴びつづけてはいけない
二十八年をかけて培われた
息子の思い出を
夢の袋を広げて
育んでいかなければならないのだから

追記
石原吉郎は、詩の言葉を、「沈黙するための」言葉だと 定義しています。(「詩の定義」)
「もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。 いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。」と。
私は、この一年、その「もっとも耐えがたいものを語ろう」と試みてきました。 昨年は、ほとんど失語症のような状態だったのですが、 ともかくそこからここまでこれたということは、やはり少しは回復しているということなのでしょうか。
しかし、その「もっとも耐えがたいもの」は、どうしても充分に語ることができないのです。 いつも「こんなものじゃない」という思いに苛まれています。本来、決して十全には語れないことなのかもしれません。
今年の「うずのしゅげ通信」は、 そんな後悔を残す文章の連続でした。
それにもかかわらずここまでお付き合いいただき、本当に感謝あるのみです。
実生活では、遅々とではありますが、元気を取り戻しつつあります。 新しい年の「うずのしゅげ通信」は、 心機一転、団塊世代の定年前後のドタバタといった特集記事も載せていければと計画しています。
来年もご愛顧くださいますようお願いいたします。

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