◇2008年2月号◇

【近つ飛鳥、風土記の丘風景】

[見出し]
今月号の特集

「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

賢治の演出

桂雀三郎

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2008.2.1
「賢治先生がやってきた」(新風舎文庫)

2006年11月、「賢治先生がやってきた」新風舎文庫から 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生』と『ざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 まだ舞台にかけられたことがありません。 (どなたか舞台にかけていただけないでしょうか。)
もっとも三本ともに、 読むだけでも楽しんでいただけると思うのですが。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。このホームページを見られて、 購入を希望される方は、メールでご連絡ください。
そんな事情で、本の宣伝はこのホームページでしかできませんので、いましばらくこの欄は残しておきます。 目障りかもしれませんがご容赦ください。


2008.2.1
賢治の演出

大正十三年八月五日の「岩手日報」朝刊に、宮沢賢治作の劇「飢餓陣営」、「植物医師」、「ポランの広場」、そして 「種山ヶ原の夜」が、花巻農学校の講堂で上演される、という記事が載りました。
見出しは「花巻の素人/「田園劇」/十日夜同地で」とあります。「田園劇」というのは、よく分かりませんが、 演じたのは花巻農学校の生徒。演出は賢治でした。
配役、練習の様子などが比較的詳しく「証言 宮澤賢治先生−イーハトーブ農学校の1580日−」(農文協)に 書かれています。この本は、賢治が農学校の教師をしていた4年間を、いろんな本からの引用や生徒の証言を集めて再現したもので、 賢治がどのように教師生活を送ったのかがよく分かります。私には教師賢治が身近に感じられるバイブルのような本です。
「田園劇」として上演された劇の中では、私としては「飢餓陣営」がもっとも好きなのですが、人それぞれ、 賢治の友人で当時英国に留学して劇を学んできた阿部孝さんは、その夜の劇を見た感想を次のように証言しておられます。

「四作のレパートリーのなかで一番私の気に入ったのは夢幻劇と銘打った「種山ヶ原の夜」であった。」

ちなみに、彼の証言によると、その劇のなかで歌われる「dah−dah−dah−dah−dah−sko−dah」 という歌は、舞台袖に陣取っていた演出の賢治が歌っていたということです。

練習の様子などを読んでいると高等養護学校での劇の練習風景が目に浮かんで、もうそんな機会もないとなると、 いっそう懐かしい思いがしました。

「脚本は賢治の手もとにあるだけ。それを賢治が教室で何度も読み上げ、生徒たちが暗記するというやり方だった。」

もちろん高等養護学校では、あらかじめみんなに脚本を配ってから、教師が生徒の前で読み合わせをします。 配役も決まって、自分に割りあてられた一つか二つのセリフを必死で覚えていた生徒たちの顔が浮かびます。 主人公に抜擢された生徒のセリフがあまりに多いとなれば、もう一人選んで場面で区切って交代する ダブルキャストという手を使ったりもしましたが、観客が分かりにくいということもあって、私としては できるだけ通してやってほしいという希望がありました。 その思いが強くて、ムリを承知で押しつけることもあったかもしれません。 そうなると、主役の生徒は40や50のセリフを振られることもあります。 自閉傾向の生徒で、それくらいのセリフはへっちゃらというものもいますが、ほとんどの生徒には負担だったはずです。 それでも、文化祭が近づくとどうにか覚えてくれたのはふしぎな気がします。やればできるということでしょうか。 「ぼくたちはざしきぼっこ」の劇をやったときなど、主役の生徒は、 ざしきぼっこがトレードマークのように持っている箒にセリフを抜き書きした紙を貼り付けて、 どうにか乗り切ったのでした。もっとも客席からそれが丸見えだったのにはおどろきましたが。

賢治の演出はどうだったのでしょうか。

「生徒たちはセリフを全部覚えたり、シグサをつけられてそれは何べんとなく、 繰り返して練習したり、まったくへとへとに疲れた。 小さなつもりでしたあくびなど聞こえたりすると、先生は君たちは誠意が足りない。 今やっていることは、やがて農民のために、 社会のためになることなんだと激励された。」(大正十五年卒業の菊井清人さんの証言)

「賢治劇の演出は「厳しかった」「決して堅苦しくなかった」と教え子によってその印象が違う。練習のときも 「気が触れたかと思うほど熱心だった」という人もあれば、逆に「先生自身も楽しんでいた」という人もいる。

高等養護学校の練習を髣髴とさせるような証言ですね。どこともあまりかわらないということでしょうか。
では、肝心の上演の日はどんなだったか。

「その晩は、初めてやる芝居に、よろこんで白い手袋を買ってきて、それをはめて、その小屋の舞台裏にひととき、めい目 静座したそうです。花巻近在の娘っこや、あんちゃんや、百姓の爺さん達がそれをみにきて、判らないながら、 分かったらしく、どよめきながら帰っていったあと、その小屋の前に火の手があがり、みんな腕を組んで万歳を叫んだそうです。 それまで彼のひっこみと、ケンソンから顔を出さなかった宮沢が、もうたまりかねてみんなと一緒に舞台道具をブチコワして、 それに火をつけたのでしょう。(舟木光「人間宮沢賢治」)

賢治の興奮している様子が目に見えるようです。
賢治先生が劇を演出するワークショップでもやってくれないかな、とそんな感慨が浮かんできます。 そうすればどんなに遠くても参加するのに。
また、賢治演出の「飢餓陣営」や「種山ヶ原の夜」などみんな見てみたいという思いがどうしてもしてくるのです。 どうでしょうか。
しかし、ついにこんなイベントもできなくなります。「大正十三年九月、文部大臣岡田良平の学校劇禁止令」 が出されたからです。大正時代も終わり頃になると、きな臭い匂いがしはじめて、文化の締め付けがはじまっていたのですね。
いま「ゆとり教育」がやり玉にあがっていますが、そこにはあの時代と似た要素はないのでしょうか。


2008.2.1
桂雀三郎

大阪環状線鶴橋駅のほん近く「雀のおやど」という寄席に行ってきました。
「つるっぱし亭」という名のとおり、ほとんど桂雀三郎さんの独演会。
演目は、桂雀太「天災」からはじまり、桂雀三郎「宿屋仇」桂小春団治「アーバン紙芝居」、 トリにふたたび雀三郎「軒づけ」。 中入りもなく、雀三郎さんは、両演目で一時間以上の熱演でした。
雀三郎さんを聞くのははじめてでしたが、往年の桂枝雀ファンである私としては、はじめてのような気がしませんでした。 雀三郎さんの演技には、師匠である枝雀さんのしぐさを髣髴させるところも多々あったように思います。しかし、 それでも口角泡を飛ばしての熱演は、まぎれもなく雀三郎さんの落語でした。自分の落語にされていると感服しました。
充分堪能させてもらって、かえる道々、まだ目に浮かぶしぐさを反芻しながら、 落語のおもしろさとはどんなところにあるのだろうと考えてしまいました。
漫才は二人でやるものであり、ボケとツッコミのおもしろさがありますが、落語は一人です。 雀三郎さんが演じられた二つの落語を聞いて、やはり落語のおもしろさは繰り返しのおもしろさ、 変奏の妙にあるのではないか、と思いあたったのです。
最初の演目「宿屋仇」は、一人の侍が宿にやってくるところから始まります。侍は、番頭の伊八に銀一朱を握らせて、 静かな部屋を所望します。というのは、この侍、前夜の宿では隣室がやかましくて寝不足。ところが、この宿でも徐々に 宿泊客が混み合って、隣室をあてがわれた三人連れの男達に悩まされることになります。その度に侍は「イハーチー」と番頭を呼び、 前夜眠れなかった理由を繰り返し、静かな部屋に替えるように要求します。この主題が何度か変奏されます。 そして最後に、隣室の三人連れの一人が、寝物語に小間物屋として出入りしていた武家屋敷で、不倫をはたらき、 婦人とその義弟を手にかけた経緯を語ります。 それを漏れ聞いた件の侍、隣室の一人が妻と弟の仇だと判明した。宿屋で仇討ちをするとまわりに迷惑、明朝、日本橋に於いて出会い仇 ということにしようと言い置いて、寝てしまいます。それを聞いた三人組、恐れおののいて寝ることも出来ず、一夜を過ごします。 翌日、侍の言うことには「ありゃ、うそじゃ、ああ申さんと、また夜通し寝かしおらんわい。」と、これがオチになっています。
また、トリに演じられた「軒づけ」は、浄瑠璃を習い始めた男が、みどほどもしらず、軒づけの一団に加わるという話。 件の男、軒づけの経験者からウナギの茶漬けが出されたことがあるという話を 小耳に挟んで、柳の下のドジョウをねらってのこと。この話にも繰り返しのパターンが見られます。 軒づけの三味線を急遽引き受けたのが、二つのメロディーしか弾けない男。この男の三味線と、「うなぎのちゃずけでまへんか?」 という主人公のことばが、一軒の家を訪れるたびにおもしろおかしく繰り返されます。枝雀さんの演出なのでしょうか、 そのパターンが実にうまく変奏されて、おかしさを醸し出しています。
一般的に言うと、落語の大きな型としては、最初に常識的な遣り取りがあって、 それをいわゆる与太郎的人物が変奏して失敗する、そういった パターンがあるように思います。それ以外にも、いま見たように、繰り返しのパターンが頻出しているようです。
繰り返しのパターンは、笑わせる技術の一つとして、芸として意図的に磨かれてきたように思います。
さらに時代を遡ると、昔話にも繰り返しが頻発しています。 善良なおじいさんの行為が、悪いおじいさんによって変奏される、そういったパターンです。
いったいこの繰り返しというのはどういう意味を持つのでしょうか。
私もよく観ている吉本新喜劇では、いつも同じギャグが繰り返されます。 マンネリもなんのその、繰り返されるワンパターンのギャグ。 それでも結構笑いを取っています。ふしぎというか、笑いというものはそういうものと言ってもいいのかもしれません。
繰り返しということで言えば、落語の場合、何度聞いても楽しめるということがあります。 話の筋を知っていても充分に楽しめるのです。これは芸の力というものでしょうか。 新しい意味の発見があるわけではないのに、笑えるというのは、考えてみるとふしぎな気もします。

私の勤務している養護学校の生徒たちが、どの程度の笑いを理解してくれるのか、それは劇の脚本を書いたりするときには おさえておかなければならない重要なポイントです。
以前この「うずのしゅげ通信」でも書いたことがありますが、「ボケとツッコミの構造」は、 見よう見まねであれ、使いこなせる生徒がかなりいるのです。 生徒がボケたときにツッコミを入れないと催促されることもあるくらいです。
では、繰り返しの構造はどうでしょうか。 自閉傾向のある生徒など、繰り返しを好みます。こだわりといってもいいくらい、繰り返しが好きなのです。 それも変奏ではなく、まったくの繰り返し。
「ボケとツッコミ」に類する同じパターンの掛け合いを、顔を見るたびに催促する生徒がいました。これなど、「ボケとツッコミ」と 「繰り返し」という二つのパターンにそのままあてはまりそうです。
だから、この「繰り返し」の構造は、充分使うことが出来るようにおもいます。
生徒の笑いのレベルについての分析はそれくらいでおくとして、 教育的配慮ということからいえば、その催促に応じるのがいいのか、拒否すべきなのか、 これはむずかしい問題です。結論はわかりませんが、精神的な安定ということからいえば、 繰り返しに応じざるをえないという面もあります。そのあたりをどう考えるかは、教育的な配慮の問題という ことになるのでしょうか。

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