◇2008年4月号◇

【近つ飛鳥、風土記の丘風景】

[見出し]
今月号の特集

文庫本「賢治先生がやってきた」

定年退職

KY

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2008.4.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。


2008.4.1
定年退職

教師を辞めました。
定年退職とはいえ、実感は失職。
第二の人生をどう出発するか? とりあえずは、こころをリセットして、あらたな一歩を踏み出すしかないと、 この一年を充電の期間と思い定めました。 何をリセットし、何を充電するか、それが問題なのですが。

 定年退職

「見えないものを見るのが/詩人の仕事なら」(田村隆一)
見えないものを
見えるようにして教えるのが
養護学校の理科教師である僕の仕事と考えてきた

養護学校にだって
理科好きな生徒が、たまにはいるのだ
定年退職が迫って片づけをしている僕に
春休みの宿題をせがまれたと
担任からの依頼
夏休みに、はじめてねだられ
彼用の宿題を渡したら
「スペッシャル バージョンやな」と
あんなに喜んでいたから
宿題を出すのはいいけれど
だれがその宿題を回収するの?
だれがその宿題を採点するの?
と、つっこんでみたくなる
でも、嬉しかった
僕の定年後を明るくしようとして
そんな宿題をせがんできたのか

賢治の妹トシが
いまわの際、
一椀の雪をねだったように

僕はうきうきと
宿題を作る作業に取りかかったさ
何だか先にのぞみが見えてきたような気分でね


2008.4.1
KY


KYという略語、生徒たちがよく使っているようなので、 遅ればせながら、インターネットで検索してみました。
Hatena Diary Keywordに、
「1989年に沖縄で発見された文字列。「K・Y」とも。
捏造の暗喩として使われる。詳しくは朝日珊瑚事件を参照。」
何のことか、しばらくあちこちと探ってみてやっと分かりました。
「朝日新聞社の記者が珊瑚礁にKYと落書きした事件」、そうそうそんなことがありました。
でも、私が探しているのはそのKYではない。で、続きを見ると、ありました。
「KY=空気(Kuuki)・読めない(Yomenai) の略。
空気を読めない人を差して使われる。
また、転じて「空気読め!」の意で、耳元で「KY」と囁くなどの用法もある。
反対語:KYR=空気(Kuuki)・読める(YomeRu)」
これこれ、しかし、KYRまでは知りませんでした。
日本語俗語辞書にはこうあります。
「その場の雰囲気や状況などを察する(感じる・掴む)ことを「空気を読む」とも表現する。
KYはこの「空気」と「読む」の頭文字で、主に空気が読めない人を意味する。
また、逆にそういった人に「空気を読め」と提言する際にも「KY」と耳元で囁くなどして使われる。
女子高生がメールのやりとりで使い、普及した。
若者の間では以前から使われているが、2007年、こういった頭文字略語の存在が話題となり、広く知られる。」
なるほど、なるほどよく分かります。

私が勤務していた高等養護学校でもKYは流行っていました。
生徒たちも、「あいつはKYだ」といった言い方で、よく使っていました。
どんな意味なのか聞いてみると、「まわりの雰囲気が読めないことやろ」 と的確な返事が返ってきます。 「空気を読む」というのは、むずかしい表現だと思うのですが、 流行は理解のハードルをやすやすと越えさせるのかもしれません。 それだけの勢いをもっていると言えばいいのか。 彼らは的確に理解して、正しく使用しているのです。
しかし、見えないものを理解することが苦手な自閉傾向を持つ生徒たちは、 空気を読むことが出来にくいだろうということは想像できます。空気は 見えないし、その上、見えない空気を読むとなると彼らの手には負えないはず。 そして、たしかにその傾向はあって、 自閉的な生徒が、そのことばを使うことはあまりなかったように思います。 むしろKYだと決めつけられることの方が多かった。
また、私は以前にろう学校に勤めていたのですが、 聴覚障害の人も空気を読むといったことは苦手なのではないでしょうか。 雰囲気は音として感じ取られることが多いからです。 たとえば、会議が長引いて、うんざりした感じでもうそろそろ切り上げようといった 雰囲気が、資料を揃えるちょっとした音によって 醸し出されるといった経験はだれしもあるはず。

しかし、KYだからといって疎外されては、たまったものではありません。 とはいえ、同一歩調を要求する村社会・日本では、それは起こりがちなことではないでしょうか。
そして、疎外はそれだけではすまないように思います。 もしも、疎外された人が、見境なく復讐をはじめたとき、どんなことが起こるか。 「誰でもよかった」殺人事件に発展することだってあるかもしれない。 何しろ疎外したのが空気だとすると、憎しみの対象が限定されないからです。
KY共同体をひっくり返して、KYだってかまわない、そんな人がいたっていいじゃないか、 といった寛容な社会、いいかげんな結びつきが求められるのではないでしょうか。
考えてみると、たかがKYではあるのですが、されどKY、 それを端緒にしてKYのもつ意味を探ってみるのもなかなか面白いと思いませんか?
ただ、これだけは心しておきたいと思います。 自閉症の生徒たちにKYのきらいがあるからといって、 彼らが周りから何も読み取っていないということではありません。 彼らはたしかに何かを読み取っているのです。 それも、おそらくは時代の深みから、われわれには読めない何かを。 彼らがいったい何を読み取っているのかを、私はとても知りたいと考えているのですが……。

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