◇2008年6月号◇

【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
[見出し]
今月号の特集

文庫本「賢治先生がやってきた」

松林で

退屈力

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2008.6.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。


2008.6.1
松林で

  松林で

まだ幼いころ
冬、父について里山にのぼった
松の落ち葉を集めて
風呂の焚きつけにするのだ
笹を刈る父から離れて
私はひとり
身の丈もある笹生(ささふ)の中に踏みこんだ
森閑とした山の空気が私を取りまき不安がおそってきた
私は弱気をふりはらうようについと後ろ向きに笹生の上に倒れこんだ
不意に父の視線から消えた私は
笹の撓りが下支えしてくれたのか
ふわっと松葉の上に横たわっていた
笹生に身体の形そのままの穴ぼこがあいていた
見あげると
遙かかなたの松の梢で
木枯らしが恐ろしい叫びをあげていた
そのときの、別世界を見あげているようなふしぎな感覚は
私の中で、いまだに色あせてはいない

還暦を過ぎて
最近しきりに松林が恋しくて
冬のある日
近つ飛鳥風土記の丘の
以前の持ち山のあたりに入りこんだ
笹は腰の丈
風はなかった
そこに仰向けに寝ころんでみる
身体がふわりと笹生に沈み込んだひょうしに
ぽっかりと中原中也の詩句が浮かんできた
「死の時は私が仰向かんことを!」
落ち葉の朽ちた臭いが鼻をつく
この笹生の穴ぼこの中で
消えてしまうのが
死ぬということだとすれば……
しばらくすると笹はおのずと身を起こし
やがて穴ぼこは、あとかたもなくなるだろう
そこで消え去った私は
いったいこの穴ぼこの底から
どこに抜け出るのだろうか
私は立ちあがり
足許にまといつく笹を蹴とばしてみた
そしてだれにともなく負け惜しみをつぶやいた
「私には会いたい人がいる。
だから、死ぬのはこわくない。
……多分!」


2008.6.1
退屈力

散歩しながら俳句を考えたりしています。
先日も退職のお知らせのハガキに添える俳句を、一時間の散歩でどうにか仕上げました。 歩きながらあれこれ推敲するのは楽しいものです。

結局、退職の挨拶に添える俳句はこうなりました。
「これまでの生活の余分な部分を削いだ上で、スローライフへのあらたな一歩を 踏み出してゆきたいと考えています。」という文章に続けて……

 この春はひと花ごとの移りゆき

退職すると暇なことはもちろん、心の余裕がてきて、散策も花を愛でつつということになります。 花の咲き始めから盛りの時期、 しぼんで散るまでの移りゆきを毎日つぶさに見ることができるのです。 そうしてひとつの花が過ぎゆき、また次の花が咲く。そのように花に伴われるようにして 私の春も移っていったというような意味です。
退屈を楽しんでいると言われればそうかもしれないと思います。そんな気持をこの俳句から感じ取ってもらえるでしょうか。
他にも、散歩ついでに、いくつかの俳句をひねり出しました。

 薫風にひとつ悼みの昼の月
 春はまず榊の姫のにおいたつ
 逝きしものと語らい来ればうつ(空木)の花
 芍薬に天国渡来の灯り花
 山藤の哀しみ垂らすすべをなみ

退職して二ヶ月、まだそんなに無聊に苦しんでいるわけではないのですが、 たまたま本屋で、齋藤孝さんの「退屈力」(文春新書)という本が平積みされていたので、 思わず手にとってしまいました。 この題名、いかにも私のような団塊世代の定年退職者をターゲットにしているようで、 ならばお手並み拝見という気持にさせられたのです。
本をパラパラと拾い読みしてみると、予想どおり。

「『退屈力』という言葉をつくった理由のひとつに、それが、セカンドライフを豊かにするキーワードに なるという思いがあった。」

はっきりとわれわれがねらい目だと宣言をしておられます。
セカンドライフを充実したものにできるかどうかは、個人差が大きい。その差をもたらすものを 「退屈力」と名づけて取りだすことで、分析をしやすくするとともに、 さらには積極的に生きる力を身につけられるようにしようというもくろみです。 いかにも、これまで、教育力とか、段取り力、コメント力とか、 いろんな力を名付けて分析してこられた齋藤先生らしいやり方が ここでも発揮されています。
だいたい方向は見えてきたのですが、では、そもそも「退屈力」とは、何か?
齋藤先生はこんなふうに定義しておられます。

「傍から見れば退屈に見えるようなことの中に、当人が退屈を感じずに喜びを見出していく力、 それが『退屈力』である。」

なるほど、これが退屈力なのか……。でも、それなら退屈力というのは、「退屈を感じない性格」と言い換えてもいいかもしれませんね。 私は、これまで自分自身をあまり退屈しない性格だと思ってきたのです。
とすると、「退屈を感じない」私は、かなり「退屈力」の持ち主ということになるのかもしれない、 と興味津々で、さらに、読み進んでいくと、「退屈力」を持って生きていく際、「大きなテーマになってくるのが、 『美』だと私は考えている。」という一節に行き当たります。これは、不意を突かれました。「美」ですか。 なるほど、「退屈しない性格」というだけでは、現れてこない視点です。この一節に出会ったために、 ついこの本を買うはめになってしまいました。

「それまでの生産性を追求する人生から、違う方向の人生へと切りかえるとき、『美』が、大切な 水先案内人になってくれる。
じつは人間にとって、『美』を楽しめる時間というのは限られているのかもしれない。」


セカンドライフのキーワードは「美」だというのです。 これまでの職業生活における「利」の原理、それが、セカンドライフにおいては、「利」から離れて 「美」が原理になるというのです。
その美的喜びをもたらすものとして、たとえばフェルメールの絵画、クラシック音楽、落語、散歩、古典、 俳句などが列挙されています。それらこそが「退屈力」をもたらすスキルなのです。
結論は案外に平凡なものになっています。しかし、そこでは「美」がキーワードになっていると言われると 腑に落ちるところがあります。
私は、この本から励ましを受け取りました。何故なら、俳句、落語、散歩等、これらはすべて私が興味を持っているもの だからです。 そういう意味では、私はかなり退屈力がある方かもしれません。
近つ飛鳥風土記の丘を散策したり、散策しながら俳句を推敲したり、パソコンに向かってはこの「うずのしゅげ通信」について悩んだり、 そういったことをけっこう楽しんでいるのだから、それこそ退屈力と自信を持ってもいいんでしょうね。
この本の五章は「退屈は芳醇の源泉」と題されていて、その最後のあたりに、いかにも齋藤先生らしいつぎのような 一節を見つけました。

「ほんとうの豊かさというのは、ゆるやかな刺激の中にこそ、そして、 退屈なものの中にこそあるのだということを強調したい。」

「ほんとうの豊かさ」というのは、「退屈なものの中にこそある」ということばは大切です。この言葉を信条にして、 さらに俳句に精進したり、「うずのしゅげ通信」に打ち込んでいきたいと考えています。
よろしくお願いします。

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