2008年10月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
文庫本「賢治先生がやってきた」
天満天神繁盛亭
人さりて長月の
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2008.10.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
2008.10.1
天満天神繁盛亭
八月の初め、若い友人のお誘いがあって、はじめて天満天神繁盛亭に行ってきました。
何しろ上方落語のメッカ、前々から一度は行ってみたいと思っていたのです。
地下鉄の天満駅で待ち合わせて、日本一長いという天神橋筋商店街を歩きました。さすがにいろんな商店があって、
それなりに活気も人通りもあります。最近は、ショッピングモールといったところでの買い物が主で、こういった
商店街のぶらぶら歩きそのものがまれということもあり、周りの風景が何となく新鮮でした。
まだ午にはかなり間があり少し早かったのですが、開場が12時30分となっているので、
とりあえず腹ごしらえと、蕎麦屋に入って蕎麦を食べることに。そこで、ゆっくり時間をつぶしたつもりが、
繁盛亭に着いてみると、まだ正午少し過ぎ。商店街はアーケードがあって陽射しを防いでいるのですが、
繁盛亭の前は日陰がなく頭がくらくらするほどの暑さです。
お客さんへのサービスなのか、繁盛亭の軒先には、ミストが煙のように吹き出すしつらえがなされています。
見ていると少しは涼しい感じもしますが、実際の効果のほどはいまいちといったところ。
開場までにはまだ少し時間があり、待合所が天神さんの境内にあるというので、
そちらの方に行ってみることにしました。以前に天満宮に参詣したのはいつのことやら、
記憶をまさぐりながら、本殿にお参りをし、待合所でお茶を買ったりしているうちに、
いつの間にか開場時間が迫ってきました。
もどってみると、繁盛亭の前にはすでに三・四十人のお客さんが集まっています。番号を書いたカードを掲げたおじさんが、
開場時間になると、
前売り券の番号順に招じ入れてくれます。
おみやげ売り場を通り抜けて中に入るとホールは椅子席になっていて、少し狭いとはいえ、
腰痛をかかえる私としてはほっと一安心。
しばらくすると、支配人の口上があって、いよいよ出しものがはじまりました。
出演者の顔ぶれは、
笑福亭松五、桂吉坊、笑福亭由瓶、マジックのタグリィー・マロン、桂三歩と続き、中とりが笑福亭三喬、仲入ののち
笑福亭達瓶、立花屋千橘、立体紙芝居の桂米平、大とりが林家染二、といったラインナップ。
なかでも、聞き応えがあったのが、笑福亭三喬さんの「おごろもち盗人」。
以前にも一・二度聞いたことがあるのですが、三喬さんの気っ風のよさ、というか、江戸前のようなしゃべくりが
噺の内容になじんでいて、無理なく笑わせられました。
門の閂をはずそうと扉の下に穴を掘って腕を突っ込んだ泥棒が、主に気づかれて、腕を柱に縛りつけられてしまう。
そこで、泥棒と主との丁々発止の遣り取りが繰り返されるのですが、
その変奏されるやりとりから何ともいえないおかしみが自然に醸し出されています。
以前にも書いたことがありますが、繰り返しと変奏のおかしさそのもので、そこらあたりの呼吸が充分に
こなれていて楽しく聞けました。まさに三喬さんの持ちネタといってもいいくらいのできだと思います。
(考えてみると、落語というのは、繰り返しのおかしさ、変奏のおかしさを際だたせる仕掛けといってもいいくらいのものだと
思いますが、そのことについてはこれまでにも触れてきたので、ここは割愛します。)
また、大とりは林家染二さんの「夢の革財布」という人情噺でした。
東京では「芝浜」として知られている噺です。
学生時代に青蛙書房の「桂三木助全集」で読んだ覚えがあり、また
金原亭馬生や立川談志が演じるのをテレビで観た記憶もあります。調べてみると三遊亭圓朝の作だそうです。
で染二さんの「夢の革財布」ですが、馬生や談志にくらべると、
人情噺としての練り上げ方がまだしもの感じでした。決しておもしろくないというのではなくて、
くすぐりを入れたりして少々強引に笑わそうとしているために、情趣が削がれていると言ってもいいかもしれません。
旦那が海岸で拾ってきた財布を、ためにならないとおかみさんが隠してしまって、しらっぱくれるところから噺が
はじまります。
酔っぱらって目が覚めた旦那は、
財布をひろったのは夢だと
決めつけられて、幾分かは疑いをもちながらもその気になっていくところのおかしさ、
そうまでして旦那を立ち直らそうとするおかみさんの気持のゆれ、
またまじめに商売をはじめた旦那を
これなら大丈夫だと見極めて、隠していた財布をとり出してくる場面で、夫婦のやりとりにあらわれる情愛のこまやかさなど、
聞かせる箇所がいくつもあります。
そこにリアリティがあれば、人情噺として充分聞いてもらえます。
笑いに色目を使うことなどないのです。笑いよりも、むしろ人情のこまやかさがリアルに表現できていれば、
そこに自ずからの笑いが洩れることもあるにちがいないのです。なぜなら、人情の機微は往々にして滑稽でユーモラスだからです。
ムリに笑いを求めないで、そんなふうに開き直る方がいいのかもしれません。
染二さんは、たしかに上方の落語家の中では、もっとも人情噺には向いているお方のように思います。
それでも、馬生演じる「芝浜」のしっとりした雰囲気にはまだ及ばないようです。
くらべる方が酷なのかもしれませんが、この噺をやるからにはそれだけの覚悟が必要だと思います。
そもそも関西には、馬生タイプの落語家がおられないように思います。
彼の「子はかすがい」などは、ほんとうにほろりとさせられるようなところがあります。
「芝浜」の、趣向を凝らした短編小説のような味わいを、
馬生のように、笑いなんぞには超然とした噺っぷりで、
それでいてほのぼのとおかしく語ってきかせる噺家がほしいところです。
染二さんには、そんな素質が感じられるゆえに、
つい高望みをしてしまうのでしょうか。
もっとも、見方をかえれば、
上方には上方の「芝浜」があってもいいわけで、おかみさんが「大阪のおばちゃん」的であっても、
それはそれなりにおもしろい。
染二さんも、そこに狙いを定めるのなら、そういう方向でさらに練り込めばもっと面白い噺に仕上がるかもしれません。
もっとも、一般的に言えば、時間に制限があってゆっくりと演じられないし、
また上方の落語はどうしてもくすぐりを入れないではすまないような
ところがあって、東京の人情噺を、そのまま語ることはむずかしいのかもしれませんね。そこらあたりをどう乗りこえていくかが
これからの精進ということでしょうか。
すみません、生意気なことで。ファンであるだけについ注文をつけたくなってしまう気持、お察しください。
出演されたみなさんがこの繁盛亭を大切なものと考えて、精一杯演じておられる意気込みは充分に感じられて、
二千円少々の値段ではたいへんお得な寄席であるということは保証します。
演目が終わって外に出ると、出演された落語家さんが、並んで送り出しておられました。こんなところにも
お客さんを大事にしたいという心意気が感じられました。出口で、三喬さんをつい目の当たりにして何か声をかけたく
なりましたが、控えました。
繁盛亭を出てふり返ると、幾組かの人たちが記念撮影をしておられます。
入った頃とくらべて陽射しはやや傾いていましたが、暑さはかわりません。
私は、そこで友人と別れて、一人天神橋筋商店街に数軒ある古本屋をのぞきながら、
地下鉄の天満駅まで歩いて帰りました。
2008.10.1
人さりて長月の
一編の詩(のようなもの)ができたので、載せさせていただきます。
これだけを読むと、いまだにとんでもなく落ち込んでいるように感じられるかもしれませんが、
私、みかけは日常生活をかなり取り戻しつつあります。
繁盛亭に出かけてみようかとか、どこかの会に参加して俳句をやってみようかとか、興味の幅も以前に戻りつつあります。
また一時狭い範囲に限定されていた感のあるこの「うずのしゅげ通信」の内容もさらに広げていきたいと
考えています。
来月号にでも書こうと思っていますが、このホームページに掲載されている脚本を上演したいという申し込みも、
現在二つばかりあります。何よりの励ましであり、さらに充実させたいと決意を新たにしています。
人さりて長月の
人さりて長月の、なお癒えぬかなしみ
縁側の椅子に午後を呆けていても
座敷の遺影と視線をあわせることはほとんどなく
ただ気まぐれに想念を追うのみ
風吹けば
前栽の庭石にとまれる木漏れ日、
蝶と見まがうばかりにひかりをはばたかす
その蝶と私と、いったいどちらがほんとうに生きているのだろうか?
木々が蔭を濃くするとみるまに
開かれた本の上はすでに暗く
ふと目をあげれば
ほのかに色づいた西空に鳥の群
一斉に舞い上がり、翻って向きを変える
かなしみをおおっていたうすぎぬのベールが
夕風にふわりと吹き上げられ
一瞬の爽快に身をよじるかのよう
前栽の老梅になお鳴き続ける蝉よ
いまは声をおさめよ
おのがさだめを知ってか知らずか
生きいそぐなかれ
もはやたそがれ
昼の喧噪はすでに遠のき
夜のさやぎは未だしのいま
その静謐の中にこそ
みじかいいのちも熟るるを
近くの小川からくぐもった水音
気のせいか、仄かな水の香さえも
そうだ
わがかなしみは
碧(みどり)なす深き淵
静かに静かに流れしめよ
茫々たる闇の底に
水の香だけを流れのあかしとして
人さりて長月の、なお癒えぬかなしみ
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