2008年11月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

文庫本「賢治先生がやってきた」

「地球でクラムボンが二度ひかったよ」が上演

有国智光著「遊雲さん 父さん」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2008.11.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。


2008.11.1
「地球でクラムボンが二度ひかったよ」が上演

二人芝居「地球でクラムボンが二度ひかったよ」が、札幌新川高校演劇部によって、 高文連石狩支部演劇発表大会で上演されました。
結果は残念ながら全道大会への出場には到らなかったようですが、大きなテーマに意欲的に取り組んだことや、 二人が醸しだした雰囲気などが好意的に評価されたということでした。
文庫本「賢治先生がやってきた」に掲載した脚本三本の内、「クラムボン」は舞台化される機会に恵まれなくて、 はがゆい思いでいたところ、札幌新川高校演劇部から話があって、 高文連の演劇大会で初めて舞台にかけていただきました。札幌新川高校演劇部のみなさんや、 顧問の先生には感謝あるのみです。
この秋は、もう一つうれしい話が舞い込んできました。
「ぼくたちはざしきぼっこ」の劇に、山形県立鶴岡高等養護学校の1年生が取り組んでくれる、というのです。 もともと高等養護学校の生徒のために書いた脚本なので、願ってもない話です。 「「ぼくたちはざしきぼっこ」の脚本を参考に使わせていただきたい」という申し入れなのでどんな形になるのかは わかりませんが、これも楽しみなことです。
吉本風新狂言「ぼくたちはざしきぼっこ」は、これまでに二度上演されました。 初演は、私が勤めていた奈良県の高等養護学校で、99年に3年生が演じた舞台、2度目は、 05年に福岡高等学園の1年生 によって上演されました。だから、今回は3回目の舞台化ということになります。
このホームページで公開している脚本の中では、とりわけ幸運な脚本だと思います。
目次画面に表示してありますが、これまでに上演された脚本は8本、 まだ一度も日の目を見ていない脚本も多くあります。もはや自分で演出するわけにはいかないので、 どなたかによって舞台化されることを期待するしかありません。
そもそも私の脚本は、高等養護の文化祭で生徒が演じるために書かれたものです。 そのあたりの心構えは「前口上」に書きました。 だから、高等養護の生徒たちの特性に配慮したものになっています。 座付作者のような立場で書いたのが、「賢治先生がやってきた」、 「ぼくたちはざしきぼっこ」、「モモ」、「ぼくたちに赤紙がきた」などの脚本です。
そこからくる制約は、高等養護の生徒を想定しているわけではない他の脚本にもいくらか影を落としているようです。 高等養護の生徒が抱えている実年齢と精神年齢のアンバランスといった特性が、 脚本の内容とセリフ回しにも微妙に影響していて、それが他の作品にも尾を引いているかもしれません。 セリフ回しが小学生向きなのに内容がそれにしては少々むずかしすぎたりというおそれもあり、 舞台にかけるには、何らかの手直し、あるいは総合学習で内容の補強をするといった取り組みが 必要になってくることもあると思います。
そういった労を厭わなければ、小学校や中学校で使える脚本はいくつかあると思うのですが、どうでしょうか。

追伸
「クラムボンが地球で二度ひかったよ」は、原爆をテーマにしています。 それが舞台化されたということもあり、さらなるお願いになりますが、 原爆三部作の他の作品、一人芝居「水仙の咲かない水仙月の四日」「パンプキンが降ってきた」 の二作、 舞台化してやろうという奇特な方、どこかにおられないでしょうか。


2008.11.1
有国智光著「遊雲さん 父さん」

有国智光著「遊雲さん 父さん」(本願寺出版社)を読みました。
有国智光さんのことは、朝日新聞の記事(03.10.3「亡き息子とずっと対話」)で知りました。 有国さんは、山口県周南市にある長久寺の住職で、 2年前に息子(遊雲)さん(15歳)を小児がんで亡くされています。
私が息子を亡くしたのとほとんど同じ頃です。

朝日新聞のインタビューの中で、有国さんは、これまでの経過と現在の心境をつぎのように語っておられます。
親としての苦しみは、当然のことだと思います。
「「この子が死んでしまうとはどういうことだろう」との思いで、はらわたがねじきれてしまいそうだったこともあります。」
そこから、有国さんは、「孤独」(宇宙の中の孤独)という言葉を手がかりに、現実を受け容れていかれます。
「彼のつらさは彼にしか分からない。だから「遊雲のつらさ」に寄り添うのではないのです。私の中に投げ込まれている私自身の つらさに寄り添うしかない。/つらささえも楽しむ遊雲。じゃあ、父さんも同じことをしよう。 子を失う父であることを楽しもう。子に先立たれる父として、 のうのうと生きていこう。そう覚悟しました。」
そして、現在の心境。
「あの子は「大きないのち」へ還っていった。「全宇宙」と呼んでもいい。私を包んである一切のものです。」
「小さな悲しみはやがて消えていく。深い悲しみは私を育てる。大きな悲しみは慈しみにつながる−−。(中略) いま、まったく悲しくないと言えば、うそになります。でも私はもう、「小さな悲しみ」を越えた「大きな悲しみ」 に触れている。そのように納得しています。」

共感できるところも多いのですが、仏教者でない私としては、不可解なところも多々あります。
まず「子を失う父であることを楽しもう」が分からない。あえて挑発的な言い方をされている、というのは分かる。 教理から言えばそうなるかもしれない、それも分かる。 しかし、私の心がその「楽しむ」を拒否してしまうのです。その言葉は、私の腑に落ちない。心には響かないのです。 食べたものを吐き出すように、心が拒む。 「子を失う父」である私が感じた喪失感とはかけ離れている。私にはそんな余裕はなかった。
「大きな悲しみ」というのも、腑に落ちないことの一つです。分からなくはないが、しかし、実際のところ、 私はいまだに「小さな悲しみ」をもてあましている。
有国さんの「大きな悲しみ」は、以前この欄でも触れた高史明さんの「真の悲しみ」と 同じようなものなのでしょうか。高史明さんは、 著書「深きいのちに目覚めて」のあとがきに、つぎのように書いておられます。
「真の悲しみとは、『わたし』を包み、悲しみは悲しみのまま、 生きとし生けるものへの、慈しみへと昇華し、溢れるのである。」
では、どうすれば、このような「大きな悲しみ」「真の悲しみ」の境地に達することができるのでしょうか。
私は、縋るような思いで、さっそく有国さんの著書「遊雲さん 父さん」を注文したのです。
本が届いて、三日ほどで読了しました。しかし、新聞記事に感じた違和感が氷解したわけではありません。 やはり有国さんは、仏教の徒であり、私は在家のもの、それは決定的な隔たりをもたらしているようなのです。 仏教者だから……、そんなふうに割り切ってしまうこともできそうですが、それでは、得るところがない。 何が違うのかを考えてみたいのです。これからの自分のために。
そんな思いで、再度、読み返してみて、二人を分かつ一点に思い至ったのです。
本の中につぎのようなエピソードが紹介されています。
有国さんが、まだ学生だった頃、インドから来られた高僧の話をきかれたことがあるそうです。
そのとき有国さんは、高僧に質問をされました。
「自己紹介の中で、『私は仏教を信じて』とおっしゃっていましたが、仏教の何を、 信じていらっしゃるのでしょうか」
言語の違いからか質疑がかみ合わないで、なかなか納得できず、何度か遣り取りが繰り返された末に、 最後に高僧がおっしゃった言葉。
「私は、釈尊がご出世になったこのすばらしい世界を信じて、今日まで努力を続けてまいりました」
この答えに有国さんは、深く感銘を受けられます。
「父さんは、仏教の教えにも深い浅いがあると考え、その中で真に受けられるものを探そうとしていた。 言い換えると、邪悪なものを選び捨てようとしていた。ところがその高僧にとっての仏教とは、 この世界の全体が「善きもの」であるという全面的な信頼だったのだ!」
この考えが、おそらく遊雲さんの育て方、さらには死というものを考えるに際しても貫かれています。
「息子が、死んだ。世間一般の言葉で言えば、不幸であり、不条理だ。しかしそのことも込みで、 この世界は、全宇宙は、善い。それを忘れてはならない。」

世界への全幅の信頼、肯定、この一点がちがっています。私の場合は息子がなくなったとき、 世界がパタンとめくれて、−−そうです、大きな飛び出し絵本のようにパタンとめくれて、 見知らない世界が現出したと感じました。風景が一瞬にして色あせたのです。そして、いまにいたるもそのまま……。 その新しい世界は今でもなおよそよそしい、 私にはなじめないもの、受け容れがたいものなのです。
その感覚を、私は、詩(のようなもの)につぎのように書きとめました。

 挽歌 その一(部分)
               2007.6
息子が28歳で逝ってしまった
思いがけず遠つ国ブラジルで
その日を境に、私はこれまでとはまったく違う世界に迷い込んでしまった
息子のいないその世界にはどうしてもなじめない
そこでは、ものごとの距離感が不安定で
現実が遠く、足を踏まえることができない
また、何か不穏な気配があり
これまでの世界ではありえないことが、起こる
北朝鮮が核実験をしたというニュースを
私は、職場にもどってまもない朝
駅まで送ってもらう車のなかで聞いた
アナウンサーの声は古いニュースのように色あせていたが
その口調は、あらたな戦前のはじまりを思わせる
「こんな世界はいやだ」
と、私は、突然車の中で涙を流した
いまだに息子のいないこの不安な世界にはなじめないでいる
(後略)

世界が一瞬にして色あせるような、その感覚はおそろしいものです。
おそらくおなじような事態を、妻はこんなふうに表現したことがあります。 息子の楽しい思い出が心の中にいっぱい並べられてある。そこに風が吹いてきて、 それらの思い出が一斉に裏返されていく。すると、楽しかったはずの思い出が、何とも言えず悲しい思い出に変わっている。
世界がすべてそのように意味を変えることの怖さ、ふしぎさに悩まされてきました。 そのふしぎな感覚は、いくぶん和らいだとはいえ いまだにこの世界への違和感として残っていて、 ふとした瞬間に立ち現れてくるのです。
この感覚は、普遍的なものなのかどうか。有国さんにもあったのか、どうなのでしょうか。
ただ、このどうしようもなく悲しい事態を、私は不幸とも、絶望とも思わなかった。そんなふうに考えたくなかった。 それは、有国さんと同じであるように思います。ただ私の方には、 いくぶんムリがあるようにも思われます。
長くなりますが、そのあたりの心境を分かってもらうために、昨年、この「うずのしゅげ通信」に 掲載した詩をもう一編引用します。

  二上山の石
                2008.1
百年近く前、私の父が
二上山から持ち帰ったという石が我が家にある
一抱えもあるほぼ四角な石で
その石を巻いてふしぎな刻みが見られる
線刻されたほぼまっすぐな線が幾本も走っている
その線と線の間には不規則な刻みが文字のように並ぶ
その模様から原始宗教のにおいがたちのぼる
専門家に見てもらったが
自然の風化でできたものか
人為的に刻まれたものかさえわからなかった
私は息子が亡くなってしばらくして
その石を一人で外に放り出してしまった
発作的なその行為にどんな意味があったのか

この一年あまりをふり返ると
つらさに追いつめられることはあっても
絶望したことはなかった
〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉※
時にはそんなことばが脳裏をかすめた
〈絶望〉は、しかし、私にとって〈虚妄〉ではなかった
ある瞬間には、手が届くところに厳然とあった
しかし、結局私は絶望に崩れることはなかった
どこかに息子の視線を感じていて
それが、かろうじて絶望から私を遠ざけた

哀しみと苦しみのせめぎあいにたえきれず
ひそかに呻くことはあっても
それを地獄の苦しみとは思わなかった
息子のことを憶うのは苦しい
なのに何もかもをむりやり彼に関連づけてしまう
世界の意味がすべて彼という一点に収斂していた
無限の苦しみを生みだすこのしくみは地獄そのもの
しかし、私はそれを地獄と貶めたくなかった
いつの日か、このしくみが
苦しみを、ではなく
懐かしさをもたらしてくれるたしかな予感がある

自分の置かれたさだめを
厳しいものだと身をすくめてはいたが
不幸だと思ったことはなかった
不幸と思いなすと
息子の生の証すべてを否定してしまうような気がして

苦しみや
哀しみは
いっぱいあったが
絶望もせず
地獄だとも
不幸だとも
思わなかった
外に向けられた怒りは
ただたまらなくなって
一抱えもある重い石を
発作的に外に放り出した
それだけ

今は、取り戻しつつある日常と
聞こえないほどの通奏低音をひびかせる軽い鬱
そして、出会いがしらの哀しみ
の日々

 (※ハンガリーの詩人ペテーフィ・シャンドル「希望」より魯迅が引用、竹内好訳)

今、読み返してみると、私がどれだけ「不幸」や「絶望」の近くにいたかが感じられて、 みぶるいするような思いです。
いまでもまだ、ふとした瞬間に、「こんな世界に住みたくない」という虚脱感に襲われることがあるのです。
有国さんは仏教者であるがゆえに、このような感覚からはまぬかれておられるのでしょうか。
私の家の宗旨は浄土真宗で、自分でもそれなりに仏教の本を読んだりはしてきたのですが、やはり形だけで、 親鸞の教えをおそらくほんとうには生きてこなかった。 それは、このことがあってから祈ることができなくなったことでも明らかです。 だから、自分を支えることば、論理を、仏教に求めることができませんでした。 素手で立ち向かうしかなかったのです。
私は、世界が変貌したと感じて、その世界を拒否し続けてきた。息子が亡くなった世界を、 それ込みで「善きもの」と、とても肯定することはできませんでした。 一方、生きることが即ち浄土真宗を生きることであった有国さんは、その肯定を踏まえて出発されていた。 二人には、最初の踏み板に、そもそもの違いがあったように思います。 その違いが尾を引いて、いまにいたって互いの心境が大きく隔たってしまっている、そんなふうにも思うのです。
私の悲しみを、しかし、これから「大きな悲しみ」に向けていくことができるのでしょうか。 考え方を変えてゆくことで、この世界を「善きもの」と肯定できるようになるのでしょうか。
しかし、なお私には疑問があります。有国さんは、私と同じようなあがきを通り抜けていかれたのか、それとも、もともとの 立ち位置の違いから、違う過程を通って現在のような心境になられたのか、そこが知りたいのです。
あがいてあがいてどん詰まりにふっとすくい取っていただく、それが宗教の助けといったものだとは思うのです。 有国さんにも当然のことに人の親としてのあがき、苦しみがあって、 その渦中にふっと仏さまのひかりの中にいることに気がつく、そんなことだったのでしょうか。
私の場合は、まだまだあがき足らないと、そんなふうにも観念しています。

三回忌を終えて、もう一度、息子によってあたえられた経験の意味を考えようとしていたやさき、 この著作に出会えたご縁に感謝しつつ……。

注:上に引用した「二上山の石」等、これまで折々に「うずのしゅげ通信」に掲載してきた詩は、 詩のコーナーでご覧いただけます。

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