2008年12月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

文庫本「賢治先生がやってきた」

落語は引き算

八百年の時を越えて

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2008.12.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。


2008.12.1
落語は引き算

2008.11.10朝日新聞夕刊に桂文珍さんのインタビューが掲載されていました。
表題は「落語は「引き算」や」とあり、副題として「客に育まれた笑い/客の想像力育む芸」といった言葉が 添えられています。
文珍さんの話の要点は、落語というものは、「足し算やなく、引き算の芸」というところにあります。

「詰め込もうとするのではなく、足りないところはお客さんが補っていく、 その広がりこそが落語の武器と気づいた。そのために観客といかに心を通わすか。」
「引き算の芸ができるようになったのは50歳を過ぎてからでしたなあ」とも語っておられます。

「落語は「引き算」」という言葉は衝撃的でした。そうだったのか、そう考えればいいのかと、虚をつかれた思いでした。
私も落語を二つ作っていますが、どうも落語というものを誤解していたのではないか、という思いが 脳裏をよぎりました。文珍さんの言葉を借りれば、 落語を足し算と考えてどんどん描き加えていく、そんな作り方をしていたようなのです。 そんなふうに噺を展開していくことも必要なのでしょうが、ある時点で、きびすを返して、引き算の 計算をしていかなければならない、描き加えた内容を、もう一度引き算の方向で削ぎ落としていかない といけないのでしょう。

将棋の駒を積み上げるようにして落語を積み上げていく。高く積むためにいろんなものに手を出して裾野を広げる。 そして、ある時期、ある年令に達すると、落語という枠組みを残した形で、一つ一つ駒をはずしていく。 うっかりして落語の枠組みを崩してはもともこもないので、慎重に噺を整理し、枝葉を削いでいく。 そういった方向性をもつこと、そのことが大切なように思います。
そして、最後には枝雀さんの言われていたように、舞台に登場してニコニコと座っているだけ、 それだけでお客さんが満足される。時間が来たら、礼をして、「お時間でございます」と 席を立つ。それが落語という芸の極致だと。
ということは、枝雀さんは、落語という芸において、噺は絶対の要件だとは考えていなかったのかもしれません。
そして、その論をナンセンスだと思わなかったということは、私もまたそれを肯定していたということになる。
もっとも、噺がまったくなければ、話にならないとは思いますが。枝雀さんは、その点をどのように考えておられたのか。
これまで、あまり意識しないできたのですが、落語における噺というのは、どういったものなのでしょうか。 文珍さんの談話に端を発して考えさせられてしまいました。

では、演劇はどうなのでしょうか。足し算、引き算という観点でどういった分析が可能なのでしょうか。
演劇はやはり「足し算」の芸術であるように思います。 性格を、物語を、葛藤を描き足していくことでなりたっているからです。
では、引き算の演劇というのはどのようなものなのでしょうか。そう問いかけて、咄嗟に浮かぶのは 能、狂言。これらは、引き算の演劇であるように思えます。
西洋の演劇は足し算、日本の演劇は引き算ということなのでしょうか。
能、狂言が引き算の演劇というのは、そこに芸の要素が濃厚だから、のような気もします。 芸はやはり「引き算」の要素を持っていると思います。 西洋演劇でも、一人芝居とかパントマイムは、「引き算」の要素にあふれているのではないでしょうか。 芸は、引き算が主流で、いわゆる演劇といわれるものは足し算ということになるのでしょうか。
文珍さんの落語論に触発されて、足し算、引き算という観点から、演劇というものを考えてみました。
思いつきの域をでていないので、異論もあると思いますが。


2008.12.1
八百年の時を越えて

「歎異抄」の第五章がずっと気になっています。

親鸞は父母(ぶも)の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらわず。

「そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。」というのです。
これは、おそろしい覚悟だと思います。その覚悟のもとに、父母の供養のために念仏をしない、 という決断もまたすごいことです。親鸞さんの厳しい気迫がそくそくと伝わってきます。
では、わが子の供養ということについてはどう考えればいいのでしょうか。
「わが子の供養のためとて、一返にても念仏もふしたることさふらわず」ということばも、親鸞さんならありえるのでしょうか。 そんな疑問を直接ぶつけてみたいと思うのです。どんなふうな言葉が返ってくるか。 ぜひ膝詰めしたいところです。
そのために、無謀にも八百年の時空を越えて親鸞さんを訪いたい。もちろん想像上の話です。
もし直接お話しができるなら、もう一つ、お聞きしたいことがあります。慈悲について、です。 子どもをなくするという過酷な経験をしたにもかかわらず、 慈悲の心がわいてこないのはどうしてなのか。 私の性(さが)がそれまでのものと諦めるしかないのでしょうか。慈悲というむずかしいことばを使わなくても、 「ひとの幸福をともによろこび、ひとの不幸をともにかなしむ」(※1) これだけのことがどれほどむずかしいことか。
もはや親鸞さんにお訊ねするしかないのです。
親鸞さんは、どのようにお諭しくださるのでしょうか。突き放されるのでしょうか。
私は自分なりにつぎのような場面を想像してみました。 宗祖親鸞上人のことばをかってに想像するなど恐れおおいことですが、 謦咳に接したいがための一念が嵩じてのこととご寛容を願うのみです。
歎異抄になぞらえた体裁ですが、あのの太い思索の前ではとてもとても児戯でさえなく、 また所詮力不足、言葉遣いなどおかしいところが多々あると思います。 お気づきの箇所をご教示いただければと願っております。

  八百年の時を越えて

八百年の時を越えて、身命をかえりみず訪ねきたらしめたまうそなたの御こころざし、 ひとえに、わが子を亡くすという 過酷なる経験を経て、なお慈悲の心が起こらぬわけを知りたいがためなりと。
しかるに、他力の教えよりほかに慈悲のみちをも存知し、法文等をもしりたるらんと、 こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかふりて信ずる ほかに、別の子細なきなり。

察するに、そなたが心の底ひには「わが心は決してわかってもらえず」との断念あり。これ心の要(かなめ)なり。
「決して」というは、「わかってもらえず」とあらかじめみずから「決する」ことなり。 「決する」のはおのれであり、その前提に存するは、おのが意志である。つまり「決する」は自力のことばなり。

また、件のことがあってこのかた「決してこのような世界を認めることはできぬ」という底だめの思いもあり。 「決して」はここにも現出す。「世界」の容認に先だって「決して」があり、 頭から世界を認めぬとおのがでに断じる。 これあらかじめ自ら世界を拒否するなり。

慈悲の「慈」は「人間同士の感情の通い合い」と仏教では説くがならわし、 「悲」は嘆きの声なり。(※2)
ゆえに慈悲というは、 嘆きの声に心を共感させることなり。

さすれば「決してわかってもらえず」と断じることと、慈悲とは互いに反対を向いた思念なり。 「わかってもらえず」とおのがでに「決して」、心を閉ざしていては、所詮慈悲にはいたらず。

いまこそ、自力の言葉を捨て、おのれを退け、すべてを放下すべき時なり。 おのれを他力にゆだねることによって、心を開くよう心がけるべきなり。 それが延いてはわが子への供養ともなろうものを云々。

   ※1 吉野秀雄「やわらかな心」(講談社文芸文庫)
   ※2 増谷文雄、遠藤周作「親鸞[親鸞講義]」(朝日出版社)

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