2009年2月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

文庫本「賢治先生がやってきた」

原爆の劇

『賢治先生がやってきた』の短縮バージョン

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2009.2.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。


2009.2.1
原爆の劇

原爆をテーマにした劇『竃猫にも被爆手帳を』をあらたに載せました。
いま、現在、原爆をどのような観点から劇化するかは、なかなかむずかしいところがあります。
これまでに、原爆を扱った脚本を三本書いています。
二人芝居『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、地球から六十四光年離れた銀河鉄道の駅で、 宮沢賢治が望遠鏡を覗いていて地球から発せられたかすかな光を目にした、 という状況からはじまります。 原爆の光が、ようやく、今この駅に届いたのです。 そういった想定によって、過去に遠のいた原爆をいま現在に引き寄せようというのです。 賢治が目にした光が巻き起こすドタバタを、二人で演じます。シテは賢治、 ワキは扮装をとっかえひっかえしていろんな人物を演じわけます。 賢治によって話題にかかわる人物が呼び出されることで、原爆が製造されヒロシマに落とされるまでの 経緯が検証されていきます。歴史認識に関係した問題などもあり、 内容的にはかなりむずかしいものになっています。
一人芝居『水仙の咲かない水仙月の四日』は、核戦争が勃発した後の世界を描いています。 たまたま賢治先生の引率で銀河鉄道の修学旅行に赴いていた三年寝太郎は、 人類のほとんどが滅びた地球に帰還します。 核の冬を跋扈する雪女(雪婆んご)、寝太郎は生きのびることができるのか、 といった状況をめぐる一人芝居に なっています。
『パンプキンが降ってきた』は、太平洋戦争末期、原爆完成を目前にしたアメリカが、原爆投下の予行演習に 「パンプキン爆弾」を各地に投下した、という事実を戯画化して劇にしたてたものです。 当時、多くの小学校の校庭は耕されて畑にされていました。藁を敷き詰めた畑に、 ある朝、空から巨大な「どでカボチャ」が降ってきたから、大変です。 そのカボチャをめぐって、ドタバタ劇がはじまります。世間は食糧難、そのどでカボチャが食べられるかどうか、 とりあえずは、削って 煮てみることに……。この劇は、唯一小学校でも上演可能なものではないかと考えています。 1クラス、30〜40人でも演じることができます。 パンプキン爆弾は、あちこちに落とされたようですから、どの地方でも上演できます。 六年生くらいの生徒たちといっしょに原爆について考えながら取り組むことも 可能なのではないでしょうか。
ただ、劇中歌に曲がついていません。 どなたか、作曲していただけませんでしょうか。
今回の朗読劇『竃猫にも被爆手帳を』−原爆をあびた猫−は、副題にもあるように原爆の被害にあった猫の物語です。 語り手は、竃猫(かまねこ)。彼は、宮沢賢治の童話『猫の事務所』に登場するあの竃猫(かまねこ)なのです。 8月6日、ピカドンが炸裂したとき、彼は竈(かまど)の中で 寝ていて、九死に一生を得ます。この竃猫、実は原民喜が居候している家の居候猫だったのです。原民喜といっても、 知らない人が多いかもしれません。 あの『夏の花』を書いた小説家、詩人の原民喜です。竃猫は、疎開しているご主人一家の子どもたちの無事を確かめるために、街を さまよいます。そして、事務所に来てみると、そこはもぬけのカラ。他の猫はどうしたのでしょうか。一人事務所の留守番を していると、そこに電信が入ってきます。鉱石ラジオのイヤホンからカリカリとモールス信号が聞こえてきたのです。 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』にあったように、遠く離れた銀河鉄道の駅から宮沢賢治が、 何が起こったのかと問い合わせてきたのです。 竃猫は、原民喜がノートにしたためた詩を電信で送ります。……
この劇は、最初一人芝居で、 と考えていたのですが、一人で演じきるにはあまりに負担が大きすぎるということで、 朗読劇ということにしました。
発想の端緒は、賢治なら原爆をどのように受け止めただろうか、というところにあります。 できれば賢治の視線で書きたい、というのが狙いでした。
賢治の視線というのは、賢治の世界観に則ってということです。賢治の世界観ということについては、 先月号の「うずのしゅげ通信」にも書きましたが、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう) といった世界観です。 生きとし生けるものすべてに仏のこころがあるということでしょうか。生きものはもちろん山や川も例外ではないのです。 賢治はそういった世界観によって童話を書いています。
原爆の犠牲になったのは、人だけではありません。賢治はそう考えるだろうと推察します。 動物も植物も山も河も原爆の犠牲になったのです。 その視点から原爆のことを書こうと思いました。
しかし、当日の原爆の描写はむずかしい。「嘘」を書いては被災者に申し訳ないという思いが 先走るからです。もちろん、書けば「嘘」になることは分かっています。実際に経験してはいないのですから。 しかし、その「嘘」が リアルな、許される「嘘」であるかどうか、が問題です。
こわさに挑むような気持で書きました。これまで何度かいろんな状況を想定して劇化を試みて、 その度にこわくて書くのを断念してきたのです。 自分のように原爆を体験したこともない、身内、親戚、知人に被爆者もいない、たんに本で読んだだけで、 原爆をあつかった脚本を書いていいものかどうか。逡巡がないわけがありません。
それが、今回、竃猫を主役に据えることで、どうにか筆を執ることができました。
動物や植物の犠牲という視点は『地球でクラムボンが二度ひかったよ』にも欠けているものです。今回の脚本では その視点から、賢治の世界観を反映したものになるよう努力しました。
できばえについては、読んでもらうしかありません。ねらいは高くても、作劇の技巧が追いつかないということだって あります。
一度読んでいただけたらと思います。
こんな大きなテーマになると自分なりの原案を公開して、おかしいところを指摘してもらって、改良していく。 そういった方法しか思いつきません。
不合理な内容がありましたら、ご指摘をいただきたいのです。 少しでも納得できるものにしていきたいと思っています。


2009.2.1
『賢治先生がやってきた』の短縮バージョン

「生きるとは 表現すること」というかめおかゆみこさんのメールマガジンを申し込んでいます。
先月の257号を読んでいると、学校教育の中で劇に割かれる時間が削られて、最近では、劇の脚本も15分くらいにものが 求められているというのです。小学校の上級学年の劇でさえ、そうらしいのです。
かめおかさんは、 「学校現場は、そこまで「演劇のできない状況」に、追い込まれているのか」と嘆いておられます。
私のところに脚本を使いたいと申し入れされてくる先生方の話からも、それはうかがえます。 学校現場に、もう少し長い劇に取り組むだけの余裕が与えられていないということなのでしょうか。
私が勤めていた高等養護学校では、文化祭の劇の時間として、各学年に40〜50分位の時間が割り当てられていました。 それくらいの時間があると、かなりみっちりと取り組むことができます。 劇らしい劇を上演するためにはせめて30分くらいの時間が 必要なのではないでしょうか。それが、小学校で求められているのが、15〜20分くらいの劇ということになると、 上っ面だけの深みのない劇になってしまいます。 見る方も、演じる方も、とても本物の感動が得られるとは思えません。 感動が熟成されるには、一定の時間がいるのです。それだけの時間が確保されない現実を どう考えればいいのでしょうか。本物の感動を味わえない劇など、どんな意味があるのでしょうか。
こういった事態、 嘆かわしいことにはちがいありませんが、現場を離れた身としては、 どうこうできる問題ではありません。そして、どうせ脚本が削られるのならば、 自ら削って15分なり20分なりのバージョンにしようと 先手(?)を打つことにしました。その方がまだしも諦めがつくというものです。
それで、とりあえず『賢治先生がやってきた』の20分バージョンを作ってみました。 20〜30分バージョンと考えた方がいいかもしれません。 どうしてもはずせない大筋だけを通して、枝葉を刈りつめたつもりですが、それでもまだ少し長いようです。 演出の仕方で、25分くらいには収まるでしょうか。 原本の『賢治先生がやってきた』とは、少々味わいがちがうかもしれませんが、 どうにか納得できるものになったと自負しています。 短い脚本が必要な場合は、こちらをお勧めします。

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