2009年3月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
文庫本「賢治先生がやってきた」
俳句
宮沢賢治と叡福寺
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2009.3.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
2009.3.1
俳句
心機一転、近くの俳句結社「古墳群」に入りました。この結社、近つ飛鳥風土記の丘にちなんだ名前で、
以前は俳誌も出しておられたのですが、いまは休刊中のようです。
七年まえになくなった父もそこの同人だった関係でお誘いを受けたのです。
新年会に顔合わせをさせてもらい、2月から本式に仲間にいれていただきました。
2月の兼題は、「黄梅、春時雨、二月尽、諸子、多喜二忌」
席題は「蕗のたう、二月」
私の俳句は以下のとおりです。
春時雨わたりし道の余光かな
土打つも春の時雨のはんなりと
二月尽鳥掘りかえす埋み柿
初諸子と聞きて臭みもさっ引かれ
多喜二忌や多喜二の母の嘆きはや
悲しみも成仏しおわんぬ二月尽
蕗のたう食(た)うべるまでの句会かな
三句目、自分でも危惧があり、句会でも聞かれたのですが、「埋み柿」は、そういった効用とか風習とかが
あるわけではなく、たんに柿を埋めておいたら鳥が掘り返したということ。
五句、六句は対句のようなものです。悲しみというのは、多喜二の母の悲しみ。
その母の悲しみも八十年もたてば成仏しただろう、
といった意味です。
この対の俳句には、思い入れがかなりあります。
こういった方向に進んでいこうと考えています。
七句、句会の食事に蕗のとうが出て、箸をつけるまでに蕗のたうにちなんだいろんな
俳句の話が出たりしたと、
それだけの意味です。
これまでに年賀状に添えることはあっても、それ以外に俳句をつくったことがないので、
これらが俳句の体をなしているのかどうかも心もとないのですが、
とにかく一歩を踏み出したというところです。
以前にもこの「うずのしゅげ通信」で書いたことがありますが、一時期、同人誌「火食鳥」で短歌を
作っていたことがあります。
脚本を書き始めてからは、そちらの方がおもしろくて、短歌からは遠ざかってしまいました。
そして、考えてみるともっともつらいとき、短歌は、短すぎて私のささえにならなかったのです。
いや、それは、私に支えになるほどの技量、あるいは熱意がなかったというべきかもしれません。
正岡子規や、吉野秀雄、竹山広の短歌は、十分困難を切り開いているのですから、
短歌や俳句のせいではなく、私の短歌には、私の俳句にはその力がなかったというべきでしょう。
だから、とりあえず詩で自分の気持ちの一部なりともあらわして、それでなんとか己を支えてきたのです。
自分の短歌には、つらい気持を表現する技量も己を支える力もなかった。そのとき
短歌も俳句も、うち沈んでいた自分には遠い存在でしかなかったのです。
しかし、これから老年を迎えて年々能力が衰えていくだろう私としては、
だんだん長いものを書けなくなっていくに
ちがいありません。短歌や俳句こそが老年を伴走するにふさわしい形式であるはずです。
だとすれば、父のように俳句を詠んで晩年をしのいでいくのもいいかと考えたのです。
そして、俳句を、老年を支えるものに育て上げていく。技量を磨いていく。それしかないのではないかと。
俳句を、同行二人に育てるということです。これから年を取っていく自分を支えてくれる俳句を
詠めるようになりたい。苦しいことがあっても、詠むことで癒してくれる、楽しみを与えてくれる、
そんな俳句であってほしい。そんなふうに俳句を磨き上げたい。
だから、自分なりの方針として、スキルだけで詠んだような俳句は詠まない。
できたとき、それでどうしたのか?と自問自答してふるいにかける。
社交辞令としての俳句は遠ざける。
それが、私の、俳句へ向かうひそかな志なのです。
追記
最近小林多喜二の「蟹工船」が読まれているというが、何を求めてのことなのでしょうか。
プロレタリア文学など過去の遺物かと
思っていたら、ちゃんと命脈をたもっていたのだと、あらためて文学の力を思い知らされました。
小林多喜二といえば、伊藤整の小説「若い詩人の肖像」の中に、
若き日の小林多喜二を描いた印象的な
場面があったことが思い出されます。
そういった風潮に便乗したわけではないのでしょうが、ノーマ・フィールド
「小林多喜二 21世紀にどう読むか」(岩波新書)が出版されました。これも読んでみたい本です。
ノーマ・フィールドといえば、以前「天皇の逝く国で」(みすず書房)を読んで、
戦後の天皇制というものについて考えさせられた記憶が残っています。
2009.3.1
宮沢賢治と叡福寺
大阪の南河内、太子町にある叡福寺(正式には大阪府南河内郡太子町)という寺を、ご存じでしょうか。
聖徳太子の御廟を守ってきた古刹。聖徳太子はあんなに有名なのに、叡福寺はあまり知られていないようです。
しかし、昔から知る人ぞ知る日本仏教のメッカ的な寺院なのです。聖徳太子が仏教の最初の受容者としてそれだけ
尊敬されていたということでしょうか。
親鸞もお参りしています。
一遍も訪問しています。一遍の伝記、
一遍聖絵に当時の叡福寺のたたずまいが描かれています。
はじめて聖絵に叡福寺を見出したときは、幼い頃から親しんできた寺であるだけに、なぜともなく
嬉しかったのです。
正面に石段があって、登ると山門があって境内が開けている。境内に踏み込むと正面にさらに石段があって、
正面の一段高いところに聖徳太子御廟、その後ろは円墳の森が鬱そう盛り上がっている。そんなたたずまいは、
現存のものとあまりかわらないことも驚きでした。
そんな叡福寺を詠んだ拙作です。
一遍がのぼりし 石の
親鸞ものぼりし 段(きだ)か
今をのぼるは
この「うずのしゅげ通信」2007年4月号に、「宮沢賢治が叡福寺に参詣」という記事を書いています。
最近、その間違いに気づきました。
すでに、その記事は、訂正しましたが、あらためて賢治と叡福寺のかかわりについて知り得たことを
報告したいと思います。
言い訳するつもりはありませんが、インターネットの怖さを改めて知りました。
情報源としての便利さについつい信じてしまって、あるいはそこには思いこみもあるかもしれませんが、
まちがった情報を流してしまったのです。ほんとうに申し訳ないことです。
まして、「宮沢賢治 叡福寺」で検索すると(Yahoo)トップにでてくるとあっては
面目ない思いが募ります。もういちど訂正の記事を書かせていただきます。
「宮沢賢治語彙辞典」年譜によると、1921(大正10)年1月23日、賢治は、
無断で上京、国柱会の奉仕活動をはじめます。
4月初旬、父政次郎が上京してきて、関西旅行に誘います。(伊勢、比叡山等へ)
そのころ叡福寺は、聖徳太子千三百年忌が営まれていました。
京都で泊まって、つぎの日、賢治父子は、叡福寺に向かいますが、
なぜか途中で予定を変更して、関西線でそのまま法隆寺に行ったようです。
小倉豊文氏の以下の著作からの孫引きになりますが、事情はつぎのようであったようです。
@旅に於ける賢治. 四次元 第三巻第二号, 1951
A傳教大師 比叡山 宮澤賢治. 比叡山 復刊第三十一號(通刊 256 號), 天台宗務庁, 1957
B『雨ニモマケズ手帳』新考. 東京創元社, 東京, 1978
(これもインターネットの情報ですが、元のホームページが不明。
引用なので、文章は信用できると思います。)
「A(関西旅行の)第四日目(4月5日)、朝、三条の宿を出た二人は、七条大橋東詰下つたところの中外日報
社を訪ねた。父がこの新聞の愛読者であつたことは前に記したが、訪問の目的
は大阪府磯長叡福寺即ち聖徳太子の墓所への道を尋ねる為であつた。だか
ら、社の玄関で社員にそれを教えられると、そのまゝ京都駅に向つたのである。……
@大阪市も全く素通りで、梅田の大阪駅から関西線始発駅の湊町へいそいだ。とこ
ろが当時磯長に行くのには関西線柏原駅に下車して大阪鉄道に乗り換え、更
にもう一度道明寺で乗り換えて太子口喜志に下車、それから約一里を徒歩しなけ
ればならない。慣れぬ旅人には相当面倒である。そこで二人は柏原途中下車
を中止してそのまま法隆寺駅まで乗つてしまつた。そしてそこで下車して法隆
寺に参詣することにしたのである。「同じ太子の遺蹟であれば…」との下心であ
つたらしい。 」
また、小倉氏によると、B柏原駅を乗り過ごしてしまったという説もあるらしいのです。
乗り過ごしてしまったので、
「同じ太子の遺跡であれば……」いっそ法隆寺まで、と考えてもおかしくないようにも思われます。
また、他の説では、叡福寺への生き方がややこしくて、結局奈良線に乗って法隆寺に行ったという
説もあるようです。
どちらにしろ、賢治父子は、叡福寺には立ち寄らなかったのは事実のようです。
近つ飛鳥博物館は、わたしの散策のコースで、2月はじめにそこで近隣地域のボランティアガイドさんたちの
活動報告のような展示がなされていました。
そこで、羽曳野史遊会のYさんにお会いしたとき、叡福寺の話から宮沢賢治と叡福寺のニアミスのことに
話が及びました。
Yさんの話によると、近鉄ができたのが明治31年だそうです。富田林の寺内町の衆が要望して
発足したのです。いまでもその経緯を記録した文書とかが残っているそうです。
最初は、関西線の柏原から古市まで開通、さらにその年の内に富田林まで延長されます。
当時は河陽鉄道という名前でした。
この話に触発されて、もし賢治が、叡福寺にお参りしていたら、どのような道筋できたのかが、わかりました。
京都から、大阪に来て、大阪から関西線で柏原、柏原で河南鉄道に乗り換えて、(太子口)喜志駅。
そこから1里ばかり歩いて、叡福寺というのが考えられるコースです。
追記
この近辺の近鉄の歴史をインターネットで調べてみました。
1898(明治31年) 河陽鉄道が関西本線の柏原駅から古市駅間で開業。蒸気機関車での運行。
さらに古市−富田林間に延長
1899(明治32年) 河陽鉄道の事業を河南鉄道が継承
1902(明治35年) 富田林−滝谷不動、さらに長野駅間が開通
1923(大正12年) 道明寺−大阪天王寺まで電化新線で乗り入れ
だから、もし賢治父子が叡福寺に参詣しておれば、柏原−喜志間は、蒸気機関車に乗って、ということで
あったようです。
「うずのしゅげ通信」にもどる
メニューにもどる