2009年4月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
文庫本「賢治先生がやってきた」
蜘蛛の運命
SS「部活・元気印」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2009.4.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
2009.4.1
蜘蛛の運命
「あの蜘蛛さんは、あれからどうなったのだろう」とふと考えることがあります。
「あの蜘蛛さん」というのは、つい1月に書き上げた朗読劇「竃猫にも被爆手帳を」の
後半に登場する蜘蛛さんのことです。
舞台は、昭和20年8月の広島。この蜘蛛さんは、竃猫が勤める事務所の裏庭に住んでいます。
いつもは裏庭の楢の樹に張り渡した大きな巣の真ん中に潜んでいるのですが、
たまたまピカ・ドンの瞬間は、庭に置かれた狸の置物の中にいたために命拾いをしたのです。
信楽焼の狸は、身代わりに粉々に割れてしまいました。
蜘蛛さんは、すぐに楢の樹に戻りますが、もちろん自分の巣は吹き飛ばされています。そこで、さっそく
あらたな巣を張りめぐらします。事務所のクモの巣アンテナにも負けないくらいの大きなやつです。
そこに竃猫がやってきて、ピカ・ドンのことを話していると、雨が降ってきます。
よく見ると黒い雨です。大きな蜘蛛の巣に黒い雨の滴が並んで、巣の中心にいる蜘蛛さんの方に流れてきます。
竃猫は黒い雨を避けて事務所に逃げ込むのですが、蜘蛛さんはあれからどうなったのでしょうか。
黒い雨に含まれていた放射性物質の影響で、原爆症になって死んでしまったのでしょうか。それとも、すぐに
避難したので、生きのびているのでしょうか。原爆の後遺症はでなかったのでしょうか。
ヒロシマやナガサキに関して、昆虫の被害といったことに触れた実証的な研究は見たことがないように思います。
体が小さい分、影響は大きいような気もするのですが、どうなのか。
蜘蛛さんの運命についてあれこれと想像をめぐらしているとき、偶然
Yahooのニュースにつぎのような記事を見つけたのです。
「チェルノブイリの汚染地域、昆虫の生息は依然少なく」という見出しで、2009.3.18 ロイター配信となっています。
「フランス国立科学研究センターの研究者らは18日、1986年のチェルノブイリ原発事故で
放射能汚染された地域に生息する昆虫などの数が、事故から20年以上経った現在も、
他の地域よりも少ないという研究結果を発表した。それによると、汚染地域ではハチ、チョウ、クモ、
バッタなどの無脊椎(せきつい)動物の生息数が他の地域より少なく、
1平方メートル当たり100個体が確認できた地域もあれば、平均1個体以下という地域もあったという。
また、原発付近に生息する昆虫には、変色や成長不良を含む奇形も、通常より多く確認されたという。
旧ソ連のウクライナにある同原発の汚染地域については、生息する動物の数が回復していると指摘する調査もある。」
やはりそうだったのです。チェルノブイリの放射能の影響は当然、昆虫にも及んでいたのです。
文献が残っているかどうか知りませんが、ヒロシマ、ナガサキでも同じようであったことが想像されます。
ピカドンによって、鳥や獣は熱線によって身ぐるみ焼かれ、
昆虫は燃えて灰燼に帰し、生きのびても奇形をさらすものあり、
また魚は腹をさらして浮き上がりました。
草や木は焼かれ、あるいはなぎ払われ、山は熱線に汚され、川は遺体に埋めつくされました。
まさに山川草木鳥獣蟲魚悉皆(しっかい)被爆、悉皆成仏といった惨状だったにちがいないのです。
この記事にあるチェルノブイリの被害報告は、
六十四年まえのヒロシマ、ナガサキの「山川草木鳥獣蟲魚悉皆被爆」がどのようなものであったかの一端を、
あらためてわれわれに突きつけてくるかのようです。
チェルノブイリの被害をよそ事とするのではなく、そこからヒロシマ、ナガサキに思いを致すこと、
あるいは、ヒロシマ、ナガサキからチェルノブイリに思いを致すこと、
それができるかどうか、われわれの想像力が試されているのだと思います。
2009.4.1
SS「部活・元気印」
ショートショート「部活・元気印」
「みなさん」と近藤先生が呼びかけました。
「いよいよ、あさっては結婚式本番です」
部活・元気印のメンバーの七人の生徒が、てんでに歓声をあげました。
「桃子先生の結婚式や」
ダウン症の中田くんが、ずってきた眼鏡をあげながら嬉しそうにみんなを見まわしました。
彼はほとんどいつも上機嫌です。喜びがあふれてこぼれ落ちそうで、じっさい彼は何かをすすり上げました。
「そうです。あさっては橋本先生の結婚式です」
自閉的な元村ヒロくんがオーム返しに応じました。
「ハレの舞台やで、みなさんも招待されたんやからがんばらな、な、水田さん、結婚式ははじめてか?」
「はじめて……」と、水田みきさんがうれしそうに答えました。
「でも……」
「でも、何や?」
近藤先生が笑いをふくんだ目で促します。
「いとこののぼる兄ちゃんの結婚式に出させてくれはらんかった」
と、水田さんは、きゅうに悔しそうな表情を浮かべました。
「そうか、それは残念やったな、まあ、出席者の人数もあるから、しゃあないなぁ」
「私は寮母先生の結婚式に出たことある」
杉山久美子さんが話を横取りしました。
「はい、わかっています。この前も聞きました。……部活・元気印のみなさんは呼んでもらって、
披露宴に出て何すんのや? え、畑さん?」
ほとんど緘黙にちかいほど無口で声も小さい畑さんが、びっくりした顔で近藤先生を見返しています。
「結婚式で何をするのかな?」
「おめでとうございますやんか……」
野村くんが助け船を出しました。
「大丈夫かな……、畑さん、大きな声で言えますか?」
畑さんは、かろうじてうなずきました。
「これまで練習してきたお祝いパフォーマンス、できますか?」
「おめでとうございますと、バンザイとガンバやろ」
中田くんが、みんなを見まわしながらちょっとピントはずれのことを言いました。
「だいじょうぶか? 中田くん。回し蹴りでバンザイ、大丈夫か? よろよろしたらあかんねんで」
「そんなんせえへんわ。なっ……」と、中田くんが、今度は後ろの席の杉山先輩に助け船を求めました。
「よろよろも多いけども、中田は本番にはつよいからな」
杉山久美子さんが、後輩の中田くんをフォローしました。
「じゃあ、練習しよか。イスと机を後ろに移動して場所をつくってくださーい」
近藤先生は、右足にマヒがある水田みきさんを手伝いながら、みんなに指示しました。
「廊下にでようか、……最初から披露宴にいるわけやないからね。出番が来たら司会者の人が呼んでくれるから、
そうしたら、出ていくよ、水田さんが先頭やからね、入口のところに並んで……」
「大きい声出すねんで」
また、中田くんが、先生の言い癖をまねてアドバイスします。
近藤先生が、教卓に座りました。
「いつものように先生が、花嫁さんやで。忘れんといてや、尻むけたりしたらあかんで……」
「婿さんやっちゅうの、なっ」
野村くんが廊下からいつものようにつっこみをいれてくれます。
「はいはい、いつもごくろうさん、……じゃあ、『おめでとうの波』からはじめるよ。……『では、
部活・元気印のみなさんに登場してもらいましょう。どうぞ……』」
近藤先生の呼びかけで六人の生徒たちは入口から連なって入ってきます。
す、す、すとすり足での登場です。そして、近藤先生の前にジグザグに二列に並びました。
リーダーの杉山さんが「『おめでとうの波』からはじめます」と宣言します。
すると一同声を揃えて「道子先生、ご結婚おめでとうございます」と叫び、さらに両手を前にひらひらさせながら、
「おめでとうございます。おめでとうございます」と波が寄せ返すように繰り返します。
「じょうず、じょうず、今日は気合いが入ってますよ。畑さんの声だけ、ちょっと聞き取りにくかったな。
もうちょっと大きな声でたのみますよ」
近藤先生は笑いながら注文をつけていきます。
そこに宮沢賢治先生も来られて、「ぼくは花嫁ということにしましょうか」と、イスを持ってきて、
近藤先生の隣に座られました。
「せっかくやから、近藤先生も賢治先生も、みんないっしょにお祝いしたらええねん」
中田くんが、俯くようにしてつぶやきました。
「きみらだけの方がいいねんていつも言うてるやろ。……はい、つぎ」
近藤先生は、ちょっとおこったような口ぶりでした。
近藤先生がなぜこんな部活・元気印といったものを立ち上げたかというと、
学生時代に「バンザイ同盟」と称する活動をやっていたからです。
近藤先生は、W大学の教育学部を出ておられるのですが、
「W大学出というより、バンザイ同盟の出身です」というのが自己紹介の口癖です。
創立35周年というその名門クラブで彼は幹事長までしているのです。
そんな彼が郷里にもどってこの高等養護学校(特別支援学校)に赴任してきたのです。
そして、四月の二回目の職員会議の後、教務主任に受け持ち可能な教科を聞かれ、さらに「課外クラブは何を希望しますか?」
と質問を受けたのです。運動も苦手、音楽もできない、とあっては、受け持てる部活動は見あたりません。
そんなふうに渋っていると「自分の得意なもので
部を立ち上げることもできますがね」との一言、
養護学校では、部活動の内容についてはかなりの自由裁量が許されているようなのです。
カラオケ部もあるそうで、そういえば、職員会議が開かれている上の階から歌らしきものが聞こえていたのです。
「最初の一年は、同好会ということで部員を募集して、その活動を見て、つぎの年度は部活動に
格上げするかどうかを決めるということになっていますが……」
教務主任が面倒くさそうに説明してくれます。はやく決めてほしいのかもしれません。
「自由にやってもいいんなら、バンザイ部をやります」
返事に窮して、近藤先生はとっさにおもわぬことばを口にしてしまいました。
「何ですか? そのバンザイ部というのは……」
教務主任はいっそうふきげんな顔で尋ねました。
「大学で『バンザイ同盟』というのをやってました。バンザイをするんです」
「あの入学試験の合格掲示板の前でバンザイをするやつ?」
「ええ、そんなものです。合格発表だけじゃないですが……」
「ほかにお呼びがあるの?……まあ、どうでもいいけれど、じゃあ、バンザイ部ということで……」
教務主任はこれ以上かかわるつもりはないらしく、不満顔で離れていきました。
バンザイパフォーマンスといっても、時と場合に応じて736パターンもあって、
それぞれに名前がついているんですけどね、と
近藤先生は、口から出かかっていたのですが、分かってもらえそうもないので飲み込んだのでした。
生徒会主催の部活動についての説明会まで悩んで悩んで、結局、名称を「部活・元気印」ということにしました。
「バンザイ同盟」でもよかったのですが、バンザイだけに限ると需要はすくないだろうと考えて、
もう少しいろんなパフォーマンスができる名前にしたのです。元気をあたえるパフォーマンス、
それは、お祝いとかバンザイとかいろいろ考えられます。お祝いであれば、需要はあちこちにあるでしょう。
たとえば、誕生日会とか、就職祝い、茶話会、卒業のお別れ会等々、そんなとき、
持って行きようによっては、お呼びがかかるかも知れません。バンザイだって、そうです。運動クラブが優勝したら、
バンザイとおめでとうが必要になります。そんなふうに先々まで考えた名称なのです。
理科主任の宮沢先生に事情を説明して、もし生徒が集まったら、いっしょに顧問をしてもらう了承もえました。
そんな泥縄もいいとこの同好会だったのですが、募集すると何と六人もの生徒の入部希望があったのです。
宮沢先生によると運動部からの転向組が多いということでした。
にわか仕立てとはいえ、授業開始とともに部活動もはじまりです。
近藤先生は、さっそく練習メニューをつくりました。まず、最初は、バンザイ同盟でやっていた一番簡単な
パターンを練習することにしました。「勝利」と呼ばれていたパフォーマンスです。6人が組み立て体操の扇の体型で並び、
両手をピースしてバンザイ三唱をするというものです。生徒たちは、ピースがとても好きだということは、
教室に掲示してある写真をみればわかります。だから、
この「勝利」のパフォーマンスはすぐにやれるだろうと踏んでいました。
実際に練習してみると声は少々小さかったものの見事に期待に応えてくれたのです。
そんなふうにして、部活・元気印の活動は幸先よく出発することができました。
そんなふうに生徒たちと練習していて気づいたことがあります。
何だか彼らは祝福するために生まれてきたようなところがあると思うようになったのです。
ヒトを元気づけるために神が遣わされたような、そんな気がするときがあるのです。
まさに部活・元気印そのもの、うってつけの存在と言えるのではないでしょうか。
近藤先生は、まさに瓢箪から駒、この高等養護学校で思わぬ金脈を掘り当てたような思いです。
創部半年で、おめでとうございますパフォーマンスが八パターン、
バンザイパフォーマンスが七パターンできるようになりました。
学校に部活・元気印という新しい同好会ができたということで、興味をもたれてはいたようですが、
ただ、何をするのかわからないということで、当初は敬遠されていました。
それではならじと、部活・元気印を宣伝するために、クラスの誕生日会があると聞けば、そこに
おしかけて「おしかけ元気印」をすることにしました。そのうちに校内でもおもしろがられて
お呼びがかかるようになり、
誕生日会はもとより、
対外試合の表象伝達式のときなど、みんなの前でおめでとうパフォーマンスを演じる機会も与えられるようになりました。
「おしかけ元気印」が「お呼び元気印」に成長し、何のかのとあって、結局、月に三・四回くらいは出番が与えられるようになりました。
思いがけない依頼が舞い込むこともありました。家庭科の港先生が、学校の検診でガンが見つかったとかで、入院のために
しばらく休職されることになりました。
「部活・元気印のみなさんのバンザイでおくりだしてほしいわ」
という港先生の希望によって、副担任をしておられる教室に昼食時間に集まりました。おめでとうとはいかないので、
そのときは、バンザイパフォーマンスを
二つばかりやったのです。港先生は涙を流しておられました。
それが、二ヶ月前で、港先生はどうしておられるのでしょうか。
部活・元気印にとっては、それが転機で、お祝いとバンザイだけではなく、ガンバパフォーマンスも幾パターンか
練習メニューに加えることになりました。
そのころからでしょうか、近藤先生は自分がいままでバンザイをやってきたのは不遜なことをしてきたのではないか、と
反省するようになったのです。お祝いパフォーマンス、バンザイパフォーマンス、ガンバパフォーマンス、どれを
とっても生徒たちの方がよほど向いているように思うのです。中田くんや元村くん、畑さんなどの演技を見ていると、
コンプレックスさえ感じるようになっていました。自分のように平凡なサラリーマン家庭に生まれ、平穏無事に
過ごしてきたものが、人様の祝い事でバンザイするなどおこがましいのではないか、そんな気持にもなるのでした。
そんなことを考えているとき、思わぬ提案が舞い込んできたのです。つい最近まで講師で来ておられていた
体育の橋本先生が結婚されるそうなのですが、その披露宴でお祝いパフォーマンスをやってくれないかという
依頼がきたのです。もちろん橋本先生がつよく希望されたのです。願ってもない話でした。
生徒たちに相談すると、予想通り出てみたいということで一決しました。
結婚披露宴の初舞台、こんなハレの舞台ははじめてでおのずと練習にも力が入りました。
そして、結婚披露宴の日、部活・元気印のみんなは、学校の最寄り駅に集まりました。引率は、近藤先生と宮沢賢治先生です。
対外試合のときは、いつも最寄り駅集合ということになっています。もし、待ち合わせ場所を間違えて、行方不明に
なったりしては困るからです。
近藤先生が作ってみんなに配られた『はじめての出張・元気印』というしおりを見ると、
結婚式場は、N市にあるKホテルです。N市まで電車で三十分かかりますが、みんな話に夢中だったのですぐ着きました。
Kホテルは駅前で一番の高層ビルです。
「あそこの一番上の階らしいな」
生徒よりも近藤先生の方が緊張しているふうです。
「学校が見えるか楽しみやな」
中田くんが嬉しそうにビルを見あげました。
結婚式場に着くと、係の人に別室に案内されました。ここで衣装に着替えるのだそうです。
もっとも着替えといっても、制服の上着を持参したパフォーマンス用の衣装にかえて蝶ネクタイをつけるだけです。
この衣装は家庭科の時間に、今入院している港先生を中心に作ってもらったのです。
しばらくすると係の方が来られて、披露宴会場が並ぶロビーに案内されました。生徒たちもようやく緊張の面持ちです。
受付の前でしばらく待っていると呼び出しがかかって、生徒たちは入場していきました。
近藤先生と宮沢先生も後ろからついて入って、入口の側に立ちました。
披露宴はすでにかなり盛り上がっていましたが、生徒たちのお祝いパフォーマンス、バンザイパフォーマンスで
さらにいっそう火に油を注いだような盛り上がりを見せました。
披露宴の参加者も生徒たちの演技に波長を合わせてもらったのだと思います。パフォーマンスは大成功でした。
畑さんが人数に怯えたのか、最初はいつもより声が小さかったなどのちょっとした失策もありましたが、
そんなことは問題ではなかったのです。
十分ばかりの演技が終わって、生徒たちは上気した顔で退場してきました。
目が潤んでキラキラと輝いています。
まるで自分たちの婚礼のようです。これほどの喜びは初めてでした。
自閉症の元村ヒロくんもかなり興奮していましたが、かろうじて爆発は抑えられているようです。
やはりこういった場所でやらせてもらってよかったと近藤先生と賢治先生はうなずきあいました。
ホテルの人に案内されて、最初に入った部屋にもどると、食事の準備がされていました。
「やったね、お子様ランチや、それも特盛りの……」
中田くんは大喜びです。お子様ランチ、特盛りは彼の希望だったからです。
橋本先生の方から、食事を準備させてもらうという話があって、何がいいか希望を聞かれたとき、
中田くんは、お子様ランチ、特盛りを主張して譲らなかったのです。中田くんには、そんな頑固な面もあるのです。
野村くんは、不満そうでしたが、しぶしぶ従いました。
「ホテルのお子様ランチ、特盛りか……」
と、近藤先生もほかのものに未練がありそうでしたが、仕方なしに同じものに付き合うことにしたのです。
もちろん、賢治先生も。
それを伝えると、橋本先生は、「先生方もほんとうに同じものでいいんですか?」と大喜びでした。
衣装を着替えてから、そろって食卓につきました。
ナイフとフォークが出ていてみんなは少し緊張した面持ちで食べはじめました。
「どうやった、結婚式、橋本先生、きれいやったな」
「きれいやった」
橋本先生にあこがれていた中田くんは、まるで自分が褒められたかのようにとっても嬉しそうです。
「結婚式でもキスするし、夜になったら、またキスするねんで……」
と、得意そうに自分の知識をひけらかしています。
「そんなん知ってるわ。いやらしいこといわんといて……」
杉山さんはあいかわらず容赦がありません。
「あー、楽しかった。結婚式って出るのはじめて……」
水田みきさんは、何度目かの話題を持ち出します。
「おれもや」
中田くんは、すぐに口を挟んできます。
「オレも親戚の結婚式に連れて行ってもらえんかった……いきたかったな」
「でも、今日橋本先生の結婚式に出れたからいいやないか」
と、近藤先生は、からかっているような口調です。
「そうですね」
「また、結婚式でお祝いパフォーマンスをやって、お子様ランチ、特盛りをおごってもらおう」
ヒロくんが嬉しそうにぶつやきました。
「オマエが言うからお子様ランチになってしまってよ。さっき会場で見たら、フランス料理おいしそうやった。
あれの方がええで……」
フォークでトマトライスをすくいにくそうにしていた野村くんが顔をあげて言いました。
「パフォーマンスどうでした?」
杉山さんが、まっすぐに近藤先生を見て聞きました。
「これまででいちばんいい出来だったな。よかったよ。ねえ、賢治先生」
近藤先生が、ハンバーグを頬張りながら、褒めました。
「橋本先生も喜んでおられたし……」
賢治先生もうなずきました。
「先生もいっしょにやったらよかったのに……」
中田くんが、うっしっしといった調子で笑いながら、誘いかけました。
「そうや、先生もいっしょにやったらええねん」
と、元村ヒロくんも話を繰り返します。
「いやあ、中田くんには負けますよ。みなさんには及びません……、そう思いませんか、賢治先生」
近藤先生は、賢治先生に助けを求めましたが、取り合ってはもらえませんでした。
「だからな、いつも言うてるやろ、先生は監督、宮沢賢治先生は部長さんや、監督は
守ったり打ったりせえへんやろ」
中田くんは、それでも諦めずに、「やったらええのに、なあ」と杉山さんに助けをもとめました。
しかし、彼女は食べるのに一生懸命で聞いていないようでした。
近藤先生は、中田くんが、お祝いパフォーマンスについては自分の方がすぐれていることを
知っていて、誘いかけてくるような気がすることがあるのです。邪推だとわかってはいるのですが、どうしても
その思いをふっきることができないのです。
「近藤先生の結婚式のとき、みんなで行ってお祝いしたげたらええねん。そのときはきっと先生も
いっしょにやらはるわ」
思いがけない杉山のことばに、近藤先生はおどろいて、思わず杉山さんをにらんでしまったほどでした。
結婚式からしばらくして、ある朝、中田くんの理科の授業が、本来は近藤先生なのですが、
隣の賢治先生のクラスと合同になりました。
「朝は来てはったのに、どうしたんですか?」
思ったことは何でも口にする中田くんが、さっそく賢治先生に聞きました。
「ちょっと困ったことになってしまって、近藤先生はしばらく休まれるかもしれないな」
賢治先生は、それ以上詳しいことは話されませんでした。
近藤先生は、それから二週間くらい学校を休まれました。生徒たちは知らされていませんでしたが、
近藤先生のお兄さんが、ブラジルで事故にあわれて亡くなられたらしいのです。まだ、二十八歳だと
いうことです。近藤先生は、お父さんと、お兄さんの職場の人二人と、ブラジルまで行って、現地で
葬儀、火葬した上で遺骨を持って帰られました。一泊五日の旅だったそうです。
少しでも早く、お兄さんの妻や母親の待つ日本に遺骨を持ち帰りたいという気持があっての強行軍でした。
心労も重なるし、飛行機の中では眠れないしで、サンパウロの最期の夜、遺骨証明をもらいにいった州警察で、
お父さんがあわや倒れそうになりました。
そんな旅程の間中、近藤先生は気丈にお父さんを支え続けられたそうです。
「もう嘆き疲れてしまった」
遺骨を抱いて家に帰り着いたとき、お父さんがそんなふうな感想をもらされました。
近藤先生も同じ気持ちでした。それほどに苛酷な旅だったのです。
それから本葬とお別れ会があって、結局近藤先生は二週間くらいたったある朝、出勤してこられました。
見るからに元気がなかったのですが、生徒たちは事情をしらされていないし、
もともとあまりそんなことに頓着してはいません。
その日の昼休み、賢治先生は部活・元気印の生徒たちを軽作業室に集められました。
「近藤先生、ここんところ休んでおられたやろう。近藤先生には、三歳上のお兄さんがおられてね。
そのお兄さんが、9月21日に亡くなられたんです。ブラジルで……」
「ふーん、ブラジルで?」
杉山さんが深刻な顔でつぶやきました。
「ブラジルてサッカー強いんやで……」
事態が飲み込めていない中田くんが、笑顔でブラジルの知識をひけらかします。
「関係ないやろ、今は……」
そんな中田くんを杉山さんが一喝しました。
「こんなに悲しいことはない。ぼくも妹を亡くしたことがあるが……」
「先生もあるんですか?」
こんどは元村ヒロくんが口を挟みました。
「オマエもだまっとれ」
事情がわかっている杉山先輩は、トンチンカンな二人にいらだっていて容赦がありません。
「まあまあ。それでね、近藤先生は、いまひどくおちこんでおられる。だから、君たちにも協力してほしいんだ……」
「わかった! ガンバをやろう。そうでしょう、賢治先生……」
勘のいい杉山さんは即座に応じました。日頃からの生活の知恵なのか、賢治先生の言わんとするところを
先回りして察してくれます。
「ガンバをやりますか?」
元村ヒロくんが繰り返しました。
「そう、今日の部活のとき、みんなでガンバパフォーマンスをやろう。みなさん、いいですか?」
みんなは、ようやく事態のあらましを理解して、賛成の声をあげました。
その日の放課後、賢治先生は、近藤先生といっしょに日頃部活に使っている教室に来られました。
「きょうは、部活、近藤先生にかわって私がやるつもりなんですが、ただちょっと見てほしいものがあって……」
教室には、生徒たちが衣装を付けて、並んで待っていました。
近藤先生は、黒板の前に立って、みんなを見まわしました。賢治先生は教室の側壁に寄りかかって黙って立たれました。
「少し休ませてもらったけど、今日からまた復帰するから……」
近藤先生は、すこししわがれた声で、そんなふうに挨拶されました。やはりちょっと元気がないようでした。
「近藤先生にー、わたしたちのー、ガンバパフォーマンスをー、ささげます」
杉山さんが叫びました。
「最初にゲンキ一本締め」
みんなで「ゲンキ出せー」と声を合わせて、掌をポンと打ちました。今日はそれがみごとにそろったのです。
「続いて、ガンバ三三七拍子」
「つぎに、いつもイッショにワッショイ」
「最期にスマイルガンバでしめまーす」
スマイルガンバの笑いを浮かべたまま、生徒たちが近藤先生のまわりに集まってきました。
「先生、一回貸しですよ」
杉山さんが、まじめ顔にもどって、いたずらっぽく言いました。
近藤先生は、生徒の笑顔に誘い出されたのか、はじめてちょっと笑みを含んだ顔をされました。
「今度、実習行くんやろ。就職決まったら近藤先生にバンザイの『鯛』とか『横綱』とかやってもろうたらええやん」
野村くんがこまっしゃくれた顔で口を挟みました。
「そのときは、みんなもいっしょにやってくれるかな」
近藤先生が、中田くんの方を向いて言いました。
そんなふうにふつうにしゃべって、一人一人の顔を見返したりしながらも、やはり近藤先生は悲しげでした。
生徒たちのガンバパフォーマンスを受けても
悲しさはどうにもならなかったのです。
彼らのパフォーマンスは天下一品とあらためて彼らを見直し、
彼らの個性は多くの人を励ますためにあるようだとさえ思うようになっていたのに、
その元気印の神通力がいまは通じなかったのです。
「ゲンキ出せー」の叫びが自分から離れたところを素通りしていき、まったく心に響きませんでした。
何の元気も湧いてきません。今もなお地を踏みしめる感覚さえあやういほどです。ただ悲しかったのです。
しかし、それも考えようかもしれないと、近藤先生は思いました。
自分はいま彼らの前に立つことができているという思いがあったからです。
逃げ出さなかったし、ガンバパフォーマンスを受けとめることさえできたのです。スマイルガンバにちょっとした
微笑みを返すこともできました。
これが他の人の口先だけの励ましだったら、こんな場所にはいたたまれなかったでしょう。
元気印なればこそなのです。そういえば、
ガンが見つかって入院される前にガンバパフォーマンスを受けられた港先生もおなじような
気持だったのかもしれないとふと思い至りました。
近藤先生は、涙を隠すためだったのかもしれません、だまってみんなに向かって深く頭をさげました。
それからかなりたった頃、近藤先生は当時をふり返って、賢治先生に打ち明けられたそうです。
−−いまになってわかりました。あの日をのりきることができたのは、
生徒たちのガンバパフォーマンスのおかげだと、……つくづくわかりました。
あらためてありがたみを感じています、と……。
二年後、近藤先生は結婚されました。結婚式に際して、同好会から部に昇格した部活・元気印の生徒たちに
出張・元気印の依頼がありました。顧問から生徒への依頼ということになります。
もちろん、お子様ランチ、特盛りの食事付きです。
当日の披露宴で、近藤先生は、在校生と卒業生そろってのお祝いパフォーマンスを受けた後、
作業所に通っている中田くんに誘い出されて、
バンザイパフォーマンスの「勝利」をいっしょに演じられました。
後日、扇の形に並んで、嬉しそうに
ピースでバンザイをしている近藤先生の
写真が学校の廊下に張り出されていました。その写真に「勝利」という解説が添えられているのを見て、
賢治先生はふと、自分の経験に照らしてでしょうか、「時間の勝利」ということばを思い浮かべられたそうです。
【完】
【補注】
1、 これはフィクションであることを、まずお断りしておきます。
2、 「早稲田大学バンザイ同盟」について、朝日新聞(2009.3.23)の「大学 究める」欄で取り上げられていました。
活動35周年を迎えた伝統の部だそうです。部員数は約40人。
「舞台の依頼は月に3回ほどある。結婚式や会社の創立記念などが多いという。」
「出張バンザイは、全国どこでも出向く。料金は交通費と若干の謝礼。滝沢幹事長は『基本、言い値です』」と
内情を打ち明けておられます。
その記事に触発されて、この掌編ができました。またバンザイのパフォーマンスについても(「勝利」のやり方など)
参考にさせていただきました。
3、 ひさしぶりにショートショートを書きました。何年か前にもいくつかのショートショート作品を掲載しています。
今回の場合ショートとはいいながら、少し長くなってしまいました。普通の短編小説と言った方がいいかもしれません。
これだけの長さのものになると読んでいただける訪問者は、そんなに多くないと思います。
しかし、たとえ少数であっても
そういった方がいてくださるかぎりは、性根をすえて書かなければならないと思っています。
また、あつかましいお願いですが、
感想なりご意見なりいただけましたら、これほどありがたいことはありません。
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