2009年5月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

塔和子詩選集「希望よ あなたに」

ショートショート「再放送」

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2009.5.1
塔和子詩選集「希望よ あなたに」

塔和子という詩人をご存じでしょうか。
塔和子詩選集「希望よ あなたに」(編集工房ノア)の後書で、 塔さんはこんなふうに自己紹介をしておられます。
「私は、1929年(昭和4年)8月31日に愛媛県明浜町田之浜に生まれましたが、 十三歳の時にハンセン病を発病し、ここ国立療養所大島青松園に入園して 今日まで過ごさせて頂いております。」
「文学に志したのは二十四歳の時」で、最初は短歌を、やがて「詩の道へ入りました。」
現在80歳で、これまでに18冊の詩集を出版されています。
十四歳で入園されてから現在までの六十六年を、大島青松園を世間として 過ごしてこられた塔さんの心に刻まれた起伏がどのようなものであるか、想像だにできません。
神谷美恵子「生きがいについて」(みすず書房)などで、その一端をうかがい知るのみですが、 塔さんにとっては、まことに厳しくまたさびしい歳月であったにちがいありません。
そんな中で、塔さんは、自分の生活を見つめることから詩を書き始められ、書き続けてこられました。 その精神力はただものではないと推察できます。
この詩選集に掲載されている詩を通してうかがい知ることができる塔さんの療養所での日常、 それは、たとえば、つぎのような孤独の影を背負ったものでした。

孤独なる

今日は出会わなかったか
そんなことはない
書物の中の人と出会い
物語の中の人と出会った

今日はなにもなかったか
そんなことはない
顔を洗ってお化粧をした
それから鏡の中ですこし微笑み
何ももたない自分を
あわれんでやった
閉じこもった今日さえも
やっぱりなにかと出会い
なにかを考える
ぼんやりしているときにも
ぼんやりとなにかを思っているように

生きることはやっかいなことだ
少しの休息もなく
心が体をひきずっている
でも
そこは
出会うよろこびによってささえられている
小さな私の城だ

塔和子さんが青松園でどのような日々を過ごしておられるか、その日常の一断面が浮かんできます。 そんな中で半世紀、彼女は詩作を続けてきたのです。
大島青松園という環境でおそらく生きるために、 出会いを求めて詩作にのめり込んできたのです。
14歳から80歳の現在まで、療養所という一つの場で、どのようにして 自分を支えてきたのかと、問いかけることは、とりもなおさず彼女の詩について 思いを致すことでもあるのでしょう。
そんなことを漫然と考えながら、詩選集のページを繰っていると、 つぎのような詩を見つけました。

一匹の猫

私の中には
一匹の猫がいる
怠惰で高貴で冷ややかで
自分の思うようにしか動かない
その気品にみちた華奢な手足を伸ばして
悠然とねそべっている
猫はいつも
しみったれて実生活的な私を
じっと見下ろしているのだ
歩くときも
話をするときも
猫は決して低くなろうとしない
そのしなやかな体で
ちょっと上品なしなを作ると
首を高く上げたまま立ち去るのだ

私は
もっと汚なく
もっと低く
もっと気楽に生きようとするが
私の中の猫は
汚れることをきらい
へつらうことをきらい
馴れ合うことを拒絶し
いつも
気位い高く
美しい毛並みをすんなりと光らせて
世にも高貴にねそべっている

この詩に反映している塔さんの思いは複雑です。
ここに言う「気位高く」といった生き方を守ってきたればこそ、青松園でしゃんと生きてこられたのだろうし、 また詩作を続けることもできたのではないでしょうか。
塔和子さんにとっては、おそらく「気位高く」生きることと詩を書くことがほとんどおなじであったと、 共感をもって理解することができるのです。
自分のこれからの晩年を考えるとき、塔和子という生き方からたいへんな励ましを与えられたように 思います。


2009.5.1
ショートショート「再放送」

  ショートショート「再放送」

定年になってテレビを見る時間が増えたかというと、そうでもない。 そもそも見るほどの番組がほとんどないのだ。年配の友人と話していてもNHKしか見ていない。 いや、NHKか、民放のニュースだけ、といってもいいほどだ。
他のチャンネルは確かめる気もしなくて、NHKと教育テレビでこれといった番組をやっていなければ スイッチを切るということも多い。
先日、寝る支度をしてテレビの前に座ると、NHKの教育で、むかしのNHK特集の再放送をやっていた。
山谷の労働者を収容して看取っている「やすらぎの家」というホスピスケア施設に密着取材した内容だった。 最初に放映されたのは数年前のようだが、見た覚えがない。NHK特集はよく見る方だが、 うっかり見逃したか、興味をひかなかったのだろう。
ホスピスケア施設というからには、ガン等の重病に罹って、余命半年とか宣告された労働者が収容されて世話されているらしい。 いわゆる最後の看取りというやつだ。そもそもこの「やすらぎの家」というのは、 現在施設長をやっている夫と、看護主任の妻、このクリスチャン夫妻が個人的に立ち上げた私設のホスピスで、 彼らと女性スタッフ十数人によって運営されていた。 もともとは病院ではなく、宿泊施設で、入居費は生活保護費で賄われているのだ。 テレビカメラは施設に入り入居者を写していくが、顔がぼかされているのは少数で、 7割方ははっきりと顔が見分けられる。 それだけで、この番組のしっかりした姿勢が分かる。骨惜しみせずに番組の意図を入所者の多くに説明して了解をえたのだ。
臨終に近い入所者の枕辺にスタッフが集まって見守っている様子までもクローズアップで写されている。こんな映像が おいそれと撮れるものではない。
画面を通して、番組制作者の敬虔なカメラワークと、それを受けて立つ施設長夫婦の真摯な姿勢が充分に伝わってきて、 命に近接した危うさをやわらげ心地よかった。こんな施設があるのか、このような人たちもいるのか、という思いが 繰り返し湧いてきた。
「すごい人もいるもんやな」
私は、傍らの妻にそんな感想をもらしさえした。
そのとき画面は、ちょうど、真夏に施設の屋上から隅田川の花火を見る というイベントを映していた。屋上に陣取った患者さんの並びから、ふと一人の老人が大写しになった。
「どこかで見た顔やな」と、その瞬間、そんな想いが脳裏をかすめた。
老人は、嬉しそうに笑いながら、右手にタバコを挟んで、左手で寿司をもって頬張っていた。
「柏木さんは、大腸ガンが転移して余命半年と宣告されているのですが今でもタバコをやめられません。 それに最近は糖尿病も悪化しているのですが、食養生もむずかしそうです」
女性アナウンサーのナレーションが流れた。
「柏木だ」
私は、思わずテレビに向かって叫んだ。
「だれ? 知ってる人なの……」
妻が怪訝そうに尋ねた。
「僕が、K養護学校にかわった最初の年に担任した柏木や、柏木浩三……、どうも見た顔やと思うとったんや」
「えー?、あのおじいさんが? 六十過ぎてるわよ。あなたがK養護学校に行ったのは、幾つの時?」
「たしか、三十六歳かな」
「その年に入学してきたのなら、十五か六でしょう。二十も違う。……あの人、どう見ても六十過ぎだから、 おかしいわよ」
「でも、いま、アナウンサーが柏木さんって言ったよ。それに字幕で柏木浩三って名前も出てた。 だから間違いない。ほら、この顔、 たしかにしわくちゃやけど、昔と変わらないところもある」
私は、テレビ画面に近寄って、大写しになった柏木老人の顔をまじまじと見つめました。
花火大会は過ぎて、柏木老人が、自分の小遣いを握りしめて、買い物に出かけていくよたよたした 様子が映されています。
「糖尿病の気があって、医師からは止められているのですが、 カップラーメンや缶コーヒー、赤まむしが好きで、小遣いを手にすると、必ずコンビニに出かけます」 と、ナレーションが彼の後ろ姿を説明します。
場面が変わると、柏木老人が、買い物袋を持って「やすらぎの家」の扉を押して入ってきます。
彼はその足で台所にいって、カップラーメンにお湯を注ぎ、できあがるのを待ちながら缶コーヒーを開けます。
「あいつも、在学中から缶コーヒーが大好きやった。どう考えても柏木や。…… あいつ、お父さんに向かって包丁を振り回して捕まってから、行方知らずやったけど、 山谷にいとったんや。……そういえば、あいつの口癖、思い出したわ。『先生、オレ、東京に行って かしゅうになるねん』、そんなこと言うとったわ。歌手のこと『かしゅう』言うてな」
自分でもおどろいたことに、二十数年を経た私の記憶の中から彼の口ぶりまではっきりと浮かんできたのです。

柏木は、私がK養護学校に赴任して最初に担任した生徒でした。
入学式の日に提出する書類が仕上げてなくて、彼と母親を残して書いてもらったのが、はじめての出会いです。
書類の一つに個人調査票があり、そこに家庭訪問のために自宅までの地図を書く欄があるのですが、 空白のままだったのです。私が示しても、 母親は自分で書こうとはせず、まるでことばが聞こえなかったかのように 「ここに地図を書くねんて」と息子に命じたのです。
「どこか、近くのバス停とか、最寄り駅から家までの道筋を書いてほしいんやけど、書けるかな……」
見ていると、彼は、バス停らしいマークを書いて、そこからくねくねとミミズが這ったような一本線を書いて、最後に 家らしい絵を描いたのです。
「たしかに歩けば、そういう感じやな」
私は、みょうに納得して、笑ってしまいました。結局、私の負け。それ以上は強制せずに空欄のまま受け取りました。 家庭訪問の時は、彼と一緒に学校を出て家まで案内してもらい、個人調査票の地図は後で自分で書き加えました。
そのとき家では、両親が待ってくれていました。父親は、足が不自由とかで仕事はしていないようでした。 鈴虫の飼育が趣味ということで、籠の幼虫を見せてもらった記憶がわずかに残っています。
母親は、不健康な肥えかたで、糖尿病の気があり、薬をたくさんため込んでいるようでした。 それらの中から黄色い錠剤を取りだしてきて、「先生、栄養剤あげまひょか」といわれたことをいまだに覚えています。

入学してから分かったのですが、彼は、地図を一本線で書いてこちらを驚かせはしたものの、 社会性はかなり高い生徒でした。要領がよくて、ちょっと 小ずるいところもありましたが、教師の意向を汲んでうごくことができるというので、 先生方には可愛がられていた と思います。
しかし、担任として見ると、彼は、自分の中に規範を持っていないようなところがあって、つねに危うさを感じさせました。
1年生の終わり頃、登校途中で、風邪薬を持ってきた生徒からカプセルを取り上げて、 彼の言うことなら何でも聞くといった子分のような生徒にムリヤリ飲ませるという 事件を起こしました。
最初は白を切っていたのですが、逃れられないとわかると、「おもしろ半分でやった」と言い訳しだしました。 しかし、さらに突っ込んで話をすると、自分のしたことが悪いことだとは分かっていないようなところがありました。 薬をあめ玉と同じように考えているところがあり、また、それを人に強要することが悪いとも思っていないようでした。 それにしても、自分のいうことなら聞きそうな生徒を選んで飲ましているということは、 やはりたいへんな問題を孕んでいるように思えました。
そのとき、私はこっぴどく彼を叱りました。彼と話していて、 自分の中に善い悪いの規範を持っていないということがわかったからです。 何とか、そのあたりのことをたたき込もうとしたのですが、結果としてみれば、それは失敗したと思います。
その日、特別指導後、いつもより遅く下校させたのですが、彼は家に帰らなかったのです。 夜になっても帰宅しないという親からの連絡が入って、学校に残っていた 職員で緊急に捜索することになりました。しかし、結局その夜は手がかりがなく、 つぎの日の朝、親を説得して捜索願を出したのです。
そして手がかりのないまま、彼は、三日間行方不明でした。四日目の昼頃に、N公園のトイレの蔭で寝ているのを捜索に出ていた 教師が見つけて連れ帰ったのです。私もまじえて学校で事情を聞いたのですが、 食べものは「知らないおっちゃんにおごってもらった」というだけで、詳しい真相は 結局わかりませんでした。
彼を三年間担任したのですが、事件らしい事件といえば、それだけでした。
普段は、要領よく立ち回って、先生方の受けもいい、まあ言葉は悪いですが「重宝な」生徒でとおしたということです。
ダンスが好きで、休日などには、ストリートダンスのチームの追っかけのようなことをしていた時期もあります。 東京に行って歌手になるというのが、口癖でした。
だから、いつも文化祭の劇やダンスでは目立った存在でした。
3年生の文化祭で、私がはじめて脚本を書いた「賢治先生がやってきた」という劇を学年で取り組むことになり、 彼は、主役の賢治先生役に抜擢されました。舞台度胸はたいへんよくて、アドリブまで入れて演じきって、 一時はスター気取りでした。
文化祭が終わった頃から家に近い金属加工の工場に実習に行って、はやばやと内定は取り付けていました。 実習は短い期間のことなので、要領のよさだけが目立って、内面の危うさがばれなかったのために、 受けがよかったのかもしれません。
「これ以上、実習に行ったらメッキがはげるからな」
とりあえず就職が決まった喜び半分、心配半分で、そんなふうな感想をもらす教師もいたほどでした。
卒業間近のころ、就職がすでに決まっているのに、「将来の夢は?」と聞かれて、 「東京に行って、歌手になる」と答えていたのには驚かされました。
働くということの意味が分かっていなかったのだと思います。これは教師としての反省で、それを 教えることができなかったということでもあるからです。

その金属加工の工場、あまりに簡単に決まったからありがたみがなかったのでしょうか、 彼はバスの三ヶ月定期を使い切らないうちに会社を辞めてしまったのです。 進路の教師がアフターケアに就職先を回る以前に辞めてしまった例はそうはないはずです。
父親が給料の前借りを申し出て、会社とトラブルをおこしたらしい、という話を後で聞きましたが、どうしようも ありませんでした。
次の職場をどうするか、職安と調整しているうちに、彼は自分で警備の仕事を見つけてきて、そこで働き始めました。
雨の日など「今日は仕事がないので……」と、警備員の制服で学校に遊びに来ることもありました。 養護学校の卒業生ということは、会社には隠しているふうでした。

数年たった頃、母親が糖尿病が悪化して亡くなったということを人づてに聞きました。

卒業して、十年くらいしたころ、彼は父親を包丁で刺すという事件を起こして、新聞に載りました。 一人暮らしをしたいと父親にごねて、ケンカになり、いわゆる切れて刃傷沙汰になったということでした。 父親は軽傷でしたが、それまでにも彼は、私の知らないいくつかの暴力事件を起こしていたらしく、 起訴され、結局刑務所行きになりました。
それ以来、ぱったり彼の噂は聞かなくなりました。彼が、いつ刑務所を出たのか、出所してからどうしたのか、 まったく何の噂も入ってこなくなりました。

そして、昨年、私は教師を定年退職で辞めました。
彼のことをたまに思い出すことはありましたが、すでに過去の人物でしかなかったのです。
しかし、いまはじめて、出所してからの彼の消息を知りました。 彼は、やはり夢をつらぬいて東京に行ったのです。歌手は夢のまた夢だとしても、 東京に行くという決意はつらぬいたのです。そうはいっても、彼の東京には山谷しかなく、 また彼にまわってくる仕事は単純な警備くらいしかなかったのでしょう。 彼はそれでも山谷で何年かは生きしのいできたのです。褒めてやりたいくらいです。
それにしても彼の不自然な老いさらばえようはどうしたことなのでしょうか。
妻に言われるまでもなく、出会ったときは二十歳の歳の差があったはずなのです。それが、いつのまにか縮まったということでしょうか。 そんなことはありえるはずがありません。不可能です。だから、当然のことに、 妻は納得しません。私も半信半疑ではあるのですが、一方で、映像の人物が柏木であることもまた 私にとっては厳然たる事実なのです。
「その『やすらぎの家』というところに、直接聞いてみたら……」
妻も承伏しかねる顔で、私を促しました。
「再放送やからな。もうかなりたってるから、亡くなってるかもしれんしな」
「でも、消息くらいはわかるでしょう。聞いてみたら……」
このまま宙ぶらりんのままでは、忘れ去ることもできそうにありません。担任した生徒だからです。 どうしても拘ってしまいます。 私は、『やすらぎの家』をインターネットで調べて、妻の言うように直接電話してみました。 最初に出てこられたスタッフらしい女性は、柏木という名前を聞いても分からないようでした。施設長に代わってもらいました。
「突然ですが、先日再放送されたNHK特集に出ておられた柏木さんのことをうかがいたいのですが……、 もしかしたら知り合いじゃないかと思って……」
私はそんなふうに切り出しました。
「ああ、あの番組に出ておられた柏木さんね、もう、ずっと以前に亡くなられましたよ。 三年前ですかね。……あの番組は再放送ですから」
予想していたこととはいえ、やはり私は落胆していました。
「そうですか、やっぱり、……で、柏木さんは、どこの県の出身とか言っておられましたか?」
私は、自分がK養護学校で担任した人物かもしれないということを説明しました。
「出身県ね、ちょっと待ってくださいよ。調べてみます。」
受話器からしばらく音楽が響いていました。「故郷(ふるさと)」のメロディーでした。 私は、それを聞きながら、なぜか自分が苛立っているのに気づきました。
−−なぜ、それだけのことを調べるのにこんなに時間がかかるんや
「はやくしろや」と電話口にむかって叫びたい衝動がつきあげてきます。
そして、すぐに気がつきました。私は、柏木に苛立っていたのです。
「なぜ東京くんだりまで行って、山谷で老いさらばえて死んでしまったのか」
「どうして?」という言葉が口をついてでかかったとき、音楽がやんで、電話から声が洩れてきました。
「ああ、わかりました。N県じゃないですかね。身内の住所といった欄に、N県と書いて線で消してありますから……。 でも身寄りはいないと聞いたように思うなあ。だから消したのかもしれないし……」
「そうですか、N県だとすると、やはり私が担任した生徒のようですね。 ……、で、彼は他に高校時代のこととか、何か話をしていましたか?」
「ええ、思い出したんです、彼の話。……あの番組にもあった花火を見る会のときね、 最後のスターマインという花火で空がパーッとあかるくなって、 それで花火大会も終わり、そのままみんながポカンと夜空を見あげているとき、 柏木さん、そばにいた私にね、『ここらでは天の川は見えないから、銀河鉄道の線路もわからんな』というような話を突然はじめて みんなを驚かせましてね。テレビの撮影が終わった後でした……、 『どうして銀河鉄道なんて知ってるの?』って聞いたら、『高校の時、オレ、賢治先生を やったことがあるんやで』とそんな話をしてましたね。『死んだら銀河鉄道に乗って天国に行ける』て、 先公から聞いたことがある、というふうな話もしてましたかね」
施設長は、この前の再放送を見ながら、そのときのことを思い出したというのだ。
「内の家内も宮沢賢治が好きで、……銀河鉄道にはキリストの十字架みたいなものが出てきますからね……」
施設長は、そこでちょっと言いよどんだ。
「失礼な言い方ですが、彼みたいな老人がね、突然銀河鉄道の話をはじめたもんで、みんな面食らってしまって、…… だから、覚えているんですね。私自身は、たくさんの人を看取ってきましたが、人っていうのは こんなふうに記憶を残して逝くものかって思ったので、よけい鮮明に覚えているんですね。……」
「やっぱり私が担任した柏木です。あの子は、……」
私は、大あわてで口を挟んで、さらに急き込んで言い募りました。
「柏木は、私が脚本を書いた劇で賢治先生をやったんです。」
「そうですか。先生があの人に銀河鉄道の話をされたんですね……」
「そうです。彼が高三のときに……、彼の年齢ですが、年齢、何歳になっていますか?」
相手の言葉にかぶせて私は尋ねました。
「年齢ですか? えーと、六十歳になっていますね。もちろん、これは本人が書いた入所申請の用紙ですから、 実際はちがうかも知れません。戸籍とかで確認したわけではないですからね」
これ以上の情報を聞き出すのはムリだとわかった。私は、丁寧にお礼を言って電話を切った。

「やっぱりN県出身で、賢治先生をやったことがあるって言ってたらしいから、間違いないよ」
私は、そんなふうに妻に報告した。話ながらふと気がつくと涙が流れていた。 次から次へと涙があふれて抑えようがなかった。
−−悲しむことはないじゃないか
私は、心の中で煩悶していた。彼は、ヘルパーさんたちに看取られて逝ったのだろう。 山谷でどのような生活をしてきたのかは分からないが、そのような彼が、 どうしてこれ以上の看取りを期待できようか。考えられるかぎりもっとも幸せな亡くなり方だと、 「やすらぎの家」の人たちに感謝しなければならないだろう。
そんなふうに考えてはみるが、やはり涙はとどめようがなかった。
「どうしたの?」
妻が不審そうに私をのぞきこむように見た。
「泣いているの? あの柏木さんが、あんなふうに死んでしまったから? でも、 私はまだなっとくできないわ。あの人は、どうみてもあなたより歳をとっていたわよ。 ……せいぜい若く見て、同じ年齢ってとこ」
妻は、まだ柏木の年齢にこだわっていた。
「ああ、でも柏木であることはたしかだよ。見かけはどうであれ……」
私はティッシュで涙を拭いながら、テレビに写っていた柏木の表情を思い出していた。
私の頬をつたい続ける涙の意味を説明するのはむずかしい。
あえて言えば、たとえばつぎのようなことになるだろうか。
柏木は、本人の思いこみでは六十歳かもしれないが、客観的に言えば四十そこそこで亡くなってしまったことになる。 しかし、それまでの一生を彼なりに全うしたと言うことはできるかもしれない。あの両親の元に生まれて、 どんな縁があってか私が担任、卒業して私の見ている表舞台からは消えてしまったが、罪を犯し、山谷の住人になり、 これまで生きしのいできて、ふたたび、あんな形で老いさらばえた姿を私の前にさらすことに……、それも再放送で……。 それらをつなげると、私の目の前の舞台でも、また私の視界から消えた舞台裏でも、 柏木は、柏木浩三は、充分に生ききって、おまけに最後の最後に、施設長にあざやかな記憶を残して、死んでいった。
私は、番組の中に彼が現れたとき、一瞬ではあるが、二十歳の差を追いつかれたようなみょうな幻想におそわれたが、 考えてみると、それは、柏木が老いの姿によって、私に、 自らの生をまっとうしたということを感じ取らせたということかもしれない。
実は、私は、二年半ばかり前に、長男を事故で亡くしている。二十八歳の若さだった。あまりに短い生涯だったとはいえ、 長男も自分の命をまっとうしたと言えるのだろうか。事故によって人生が断ち切られてしまったといまだに哀惜の思いが強くあるが、 彼は彼なりに人生の四季を生ききったと考えていいのだろうか。
柏木は、私の前に、それも再放送で、あんな姿で登場することによって、そのことを考えるきっかけを与えてくれたのかもしれない。
私の涙には、そのことへの感謝の思いも混じっていたような気もする。
「柏木は、あんな親切な人たちに看取られて幸せだったと思うよ。あれ以上の亡くなり方は考えられんからな……。 自分もあんなふうに死にたいくらいや」
私は、そんなふうなオチをつけて、柏木の話を打ち切りました。
                              【完】

【補注】
1、 これはフィクションであることを、まずお断りしておきます。
2、 先月号にひさしぶりにショートショートを掲載しました。一度書くと、また書けるもののようで、 またしてもショートショート作品ができてしまいました。 今回もショートとはいいながら、少し長くなってしまいました。普通の短編小説と言った方がいいかもしれません。
これまで「うずのしゅげ通信」に掲載したショートショートは、このホームページの小説のコーナーで読むことができます。

またまた、あつかましいお願いですが、 感想なりご意見なりいただけましたら、これほどありがたいことはありません。


2009.5.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、 宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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