2009年7月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
グッドマン・ディグリィ
黄いろのトマト
文庫本「賢治先生がやってきた」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2009.7.1
グッドマン・ディグリィ
前月号の「うずのしゅげ通信」でも触れましたが、星野道夫の「長い旅の途上」を読んでいます。
外に出かけたときなど、ちょっと待ち合わせに時間があったりすると、
文庫本を取り出して、一章だけ読む。そして写真を眺めている。これは至福の時です。
こんなふうにして読める本はそんなにあるものではありません。
星野道夫の本を読み眺めていると、遠い世界への憧れがふつふつと湧いてきます。
自分が生活している世界とは時間も眺めもことなる世界が、この地球のどこかにはたしかにあって、
彼の写真は、その世界の消息をかいま見させてくれます。
憧れを誘い出すこの感覚は、彼の文章が喚起するものですが、そもそもは彼の生き方に発しているにちがいないのです。
彼は、いろんなところで、自分をこのような世界に踏み込ませた動機について、つぎのように語っています。
「大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人込みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが
頭の中をかすめるのである。私が東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが生き、呼吸している……。確実に
この今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる……。そのことがどうにも不思議でならなかった。
………自然への憧れ……今、ふと振り返ってみると、そんなシーンが思い浮かんでくる。それはゆっくりと膨らみながら、
どこかでアラスカへとつながってしまったような気がする。」
(「長い旅の途上」(文春文庫)中の「憧れ」より)
そのようにして星野道夫はアラスカを拠点にして写真を撮り続けることになり、私たちはせめて彼の文章によって、彼の憧れを
なぞることによって己を癒している、そんな気がします。その人の文章の醸し出すものは、つねにその人の生き方を踏まえてのみ
訴える力を持ちうるということをつくづく感じさせられます。
しかし、私がここで言いたかったことは、そのことではありません。そんなことは星野の読者であれば、
おそらくだれでも分かっていることだからです。
「長い旅の途上」の中に「カリブーフェンス」という文章があって、
その一節が私を捉えました。私の思いを飛躍させて、懐かしい思い出に誘いこんだのです。
まずは、その一節を引用してみます。
「ウォルター・ニューマン、五五歳、は、天衣無縫な、無類の好人物だった。実際、
それ意外にこの男を説明する術を知らない。僕とウォルターには、二人にしか通じない訳のわからぬ
冗談があった。いつだったか、僕がこんなことを言ったのがきっかけである。
『ウォルター、学校を卒業すると学位とかいうものをもらえるだろう。ウォルターは本当に
いい奴だから、グッドマン・ディグリィ(良い人間の学位)をいつか僕があげるよ』ウォルターは
本当に笑い転げ、それ以来僕たちの会話に欠かせぬ一言になった。
『ミチオ、いつグッドマン・ディグリィをもらえるんだ?』『ウォルター、もうちょっとだよ……』
まったく他人には意味不明の冗談だった。しかし、人間に生まれもった資質というものがあるならば、ウォルターが本当に
上質の人間であることを僕は知っていた。」
これを読んで私は考え込んでしまいました。
−−なるほど、「グッドマン・ディグリィ(良い人間の学位)」か、……私は、養護学校で長い間
勤めてきたが、そこで出会った生徒たちには、星野のいうグッドマン・ディグリィを
あげたいような人物が何人もいた。これは考えてみればふしぎなことだし、
そんな人物と縁あって身近に接することが
できたということは、これほど幸運なことはないのではないか……。
私が勤めていたのは高等養護学校でしたが、
そこから大学に進学して学位をとるものなどいませんでした。しかし、学位の代わりに、
それぞれがグッドマン・ディグリィを授与すればいいのです。証書はありませんが、
まわりの人にそんなふうに認証されることには、
それ以上の価値があるはずです。
また、彼らはたんに自身が「グッドマン」であるだけではなく、
まわりの人たちの善性を誘い出すようなところもあって、
私としては「グッドマン・ディグリィ」を自乗したいくらいの思いもあります。
しかし、
ここが肝心なところなのですが、
そういった「グッドマン」を一般の人にリアルにイメージしてもらうことはなかなかにむずかしいのです。
面と向かえば感じ取ることができるのですから、
その困難の大部分は、イメージを表現することのむずかしさに起因しています。
たとえば賢治に「虔十(けんじふ)公園林」という短篇がありますが、その主人公の虔十は、「グッドマン」の
イメージとしてもっとも成功したもののように思います。その他には寡聞にしてあまりくっきりとしたイメージを
喚起してくれる作品を知りません。
最近、このホームページの詩・小説のコーナーに加えた「恩人」は、私が「グッドマン・ディグリィ」を
捧げたいと考える人物を描いたものです。むずかしい課題ですから、うまく表現できているかどうかまったく自信がありませんが、
もし時間がありましたら、読んでみていただけたらと思います。(トップページの最初の方に入口があります)
「グッドマン」がどのような人間を指すのかを一般的に論じるのはたいへんむずかしいことです。
何しろ有史以来、永遠の課題としての倫理学は、約めれば、その問いに答えるための学問なのですから。
また文学においても「グッドマン」の
イメージは少ないように思われます。小説、歌舞伎などを探っても、典型的な悪人には事欠きませんが、
イメージ豊かな「グッドマン」となるとほとんど見あたりません。およそ、芸術というものは悪を描くのには向いていても、
善を描くには不向きなのかもしれません。
あるいは、芸術家には、「グッドマン」は、あまりいなくて、典型的な造形ができないのでしょうか。
宮沢賢治は「グッドマン」の部類に入れてもいいように思うのですが、彼が自分の考えを表現するために選んだのは
小説ではなく、童話という形式でした。それは、おそらく小説というものは「グッドマン」を描くには適しないと
見極めたからではないでしょうか。そういった倫理と芸術との関係、なかなかむずかしいですね。
追補
おまけのショートショート「いけにえ」
地球に比べて格段に科学の発達した星がありました。
それだけ科学が発達しているにもかかわらず、滅びずに存続し続けているというのは希有なことです。
自滅するに足る破壊兵器をもった文明というのは、
遅かれ早かれそれを使わずにはすまないからです。
しかし、その星の住人は何より理性を重んじる賢さをもっていました。自滅するためだけのバカげた戦争を避けるために、
すでに国家といったものをなくして、かつての国の連合体である一つの機関のもとに、その惑星の政治のすべてを委託してきました。
軍事力もまたその連合体で集中管理されていました。地球の核攻撃力など比較にならないくらいの圧倒的な威力のあるものでしたが、
その管理がうまくなされていて、大過なく来られたのです。
その星から地球探査のために、先遣隊が地球に向かったというのです。どうしてその情報がもたらされたのかは不明ですが、
世界中がすでにその宇宙人の話題で持ちきりでした。
「もし彼らの気に入らなければ、われわれ人類は一瞬のうちに彼らに滅ぼされてしまうかもしれない」という
おそろしい噂が、人々をパニックに駆り立てていました。しかし、彼らが到着するまでの短い期間では、どうすることもできません。
混乱のさなかのある午後、先遣隊のUFOらしきものが、突然東京上空に飛来し、しばらく浮遊した後、富士山の裾野に着陸しました。
「マズ誰カ、一匹、地球人ヲ、早急ニ、UFOノ前ニ、連レテキナサイ」
UFOからの光信号を試しに音声電流に変換してみると、
突然、威圧的な命令が流れ出ました。電子音声を鸚鵡(オウム)がまねたような抑揚のないしゃべり方です。
それがまぎれもなく日本語であるということは驚きでした。
すでに万能翻訳機を通して発せられていたのです。
一箇所誤訳はあるものの、今さらながら彼我の科学力の差を痛感させられました。
時間の迫る中、誰をイケニエとして差し出すかを議論した末、ある賢者の提案で虔十(けんじゅう)に
行ってもらうことに決しました。彼を推薦した人の思惑がどうであったのかは判りませんが、
それとは別に、本人は宇宙人に会えるというので喜んで承諾しました。
虔十がUFOの前に立つと、そこからクネクネと触手のようなものが何本も伸びてきて彼にからみつきました。
「くすぐったいぞ。やめてけろ」
虔十は体をよじって『はあはあ息だけで笑ひました』。
「動カナイデ……、スグオワルカラ、辛抱シナサイ」
触手の先から無機質な声が聞こえました。やがて何本もの触手は虔十の頭にたどり着き、髪の毛をまさぐり、
肌に吸い付きました。虔十はちょっと驚きましたが、蛭にすわれるほども、ちっとも痛くなどありませんでした。
しばらくすると触手は、するすると彼から離れていきました。
「ドウモ、アリガトウ」
最後に残った触手の尖端から抑揚のない鸚鵡の声が洩れました。
そのとき、尖端の膨らみがかすかにペコンと下がったような気がしました。
虔十は、思わぬところでお礼を言われて、
さっきの否応なくくすぐられた不快もたちまち吹っ飛んでしまい、もう少しではあはあと笑いそうになりました。
しかし、触手が全部UFOに収容されると、どこからか「モウ、帰リナサイ」と、
ふたたび命令口調の声が聞こえてきたのです。
せっかくUFOの真ん前まで来ながら肝心の宇宙人に会えないのかと、虔十はたいへんがっかりもしたのですが、
どうしようもなく、命ぜられるままに、長い影を引きながらとぼとぼと戻ってきました。
「ワレワレハ判ッタ、地球人ハ、決シテ、ワレワレニ危害ヲクワエルヨウナコトハシナイヨウダ。ムシロ彼ラハ、ワレワレノ
楽シイ隣人ニナルダロウ。ソコニイルダケデ、励マサレルヨウナ、イイコトガシタクナルヨウナ、ソンナ隣人。ダカラ、
ワレワレハキットココニ帰ッテクルダロウ。
点点点、点点点、(意味不明ノ絵文字)」
しばらくして、UFOは、そんなメッセージを幾人かの携帯に残して、
富士の裾野から飛びたっていきました。
【完】
【注】『 』は、「虔十公園林」からの引用。
2009.7.1
黄いろのトマト
一坪ばかりの家庭用菜園で育てているトマトが色づき始めました。
苗を買ってきたミニトマト、友人からもらった種を播いて育てたマイクロトマトとプチトマト、
それらを合わせて7、8本。
マイクロトマト、プチトマト、ともに食べたことがないので、どんな味がするのか楽しみにしているのですが、
小さな実はなかなか色づいてくれません。
トマトといえば、昔はこの味になかなかなじめなかったようです。大正2年生まれの私の親父は、
「村でトマトを植えたのは自分が最初だった」と自慢(?)していました。
まわりの環境は変わりましたが、私がトマトを育てている家庭菜園と同じ場所に、昭和の初め頃、
親父もトマトを植えていたらしいのです。
村の人に「ちょっと食べてみるか?」と勧めてもなかなか口にするものはなく、やっと一口囓ったものは、
おもわず吐き出したそうです。それくらいなじみのない味だったようです。
昔は、もっと青臭い味が強かったのかもしれませんね。
新しもの好きだった宮沢賢治もトマトを植えていたようです。
賢治は、その地方で一番最初にトマトを食べた人間だということをどこかで読んだ気がするのですが、
探してもそれらしい記述を見つけることができませんでした。
しかし、賢治には、トマトに関するエピソードがいろいろあります。
関登久也さんは、羅須地人協会を訪ねて、トマトをごちそうになった思い出を伝えておられます。
(「宮沢賢治物語」(学研))
「畑からとりたてのトマトを切って、塩をふりかけたものなどを、御飯と一緒に出して下さいました。」
「最低の生活」をしていた賢治は、すまないといった様子で出してきたようです。
当時は、塩をかけて食べるものだったのでしょうか。
そのことに関してつぎのようなエピソードがあります。(「宮沢賢治エピソード313」(扶桑社))
「賢治は『トマトに砂糖をかけるのは下の下だ』という考えの持ち主である。当然、塩をつけて食べることに
なるのだが、あるとき、学校の農園で育てたトマトを職員室で試食することになった。賢治は手回しよく
皿に塩を盛って同僚に渡す。ところがトマトを食べた誰もがしかめつらになる。賢治も怪訝に思いながら
塩をつけて一口かじったところ、すぐさまペッペッと吐き出した。実は、賢治は塩と間違えて肥料の硫酸アンモニウム
を皿に盛ってしまったのだ。」
たしかに硫酸アンモニウム(硫安)は、白くてさらさらしていて、塩と間違えるかもしれませんね。
そういえば、賢治には「黄いろのトマト」という童話があります。短篇です。
最初に「博物局十六等官 キュステ誌」とあります。キュステ氏が記したものだということでしょうか。
彼は小さい頃から博物館が好きで、学校に行く前によく立ち寄りました。展示物の中に
剥製の蜂雀がいて、その蜂雀から聞いた話ということになっています。
ペンペルとネリの兄妹がいました。
「二人は、はたけにトマトを十本植ゑてゐた。そのうち五本がポンデローザでね。五本がレッドチェリーだよ。
ボンデローザにはまっ赤な大きな実がつくし、レッドチェリーにはさくらんぼほどの赤い実が
まるでたくさんできる。……………
そしてまもなく実がついた。
ところが五本のチェリーの中で、一本だけは奇体に黄いろなんだらう。そして大へん光るのだ。
………
『にいさま、あのトマトどうしてあんなに光るんでせうね。』
ペムペルは唇に指をあててしばらく考へてから答へてゐた。
『黄金だよ。黄金だからあんなに光るんだ。』
『まあ、あれ黄金なの。』
『立派だねえ。』
『えゝ立派だわ。』」
そして、ある日、遠くから音楽が聞こえて、サーカスの一行がやってきます。彼ら兄妹は、その行列についていきます。
他の人たちは、入口で何か番人に渡しているようなのです。
「そしたらそれはたしかに銀か黄金のかけらなのだ。」
ペンペルは、ネリをそこに待たしておいて、家に駆け戻ります。彼は、「もうまっ黒に見えてゐるトマトの
木から、あの黄いろの実のなるトマトの木から、黄いろのトマトの実を四つとった。」
ペンペルはとって返します。そうして、ネリのところにもどったペンペルは手をつないでサーカスの木戸口を入ろうとします。
「ペンペルはだまって二つのトマトを出したんだ。
番人は『えゝ、いらっしゃい。』と言ひながら、トマトを受けとり、それから変な顔をした。
しばらくそれを見つめてゐた。
それから俄かに顔が歪んでどなりだした。
『何だ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入りの中へ汝(おまえ)たちを押し込んでやって
たまるか。失(う)せやがれ、畜生。』」
そして、トマトを投げつけられます。トマトはネリにあたり、彼女は泣き出します。
みんなの笑いものになって、逃げ出しながらペンペルも泣きます。
「二人はだまってだまってときどきしくりあげながら、ひるの象について来た道を戻った。」
といったお話です。
いくら光り輝く黄金のトマトであっても、黄金ではなかったのですね。
賢治の童話に兄妹が登場するときは、そこにおそらく賢治自身と妹トシが投影されているように思われます。
この童話も例外ではありません。
最初に「ペンペルとネリは毎日お父さんやお母さんたちの働くそばで遊んでゐたよ」という形ではじまります。
そこで、原稿が一枚失われているので断言はできませんが、三枚目からの続きを見ても、
童話の中に両親の気配はほとんど感じられません。兄妹二人だけの生活。
だから、この物語は、賢治の夢想なのかもしれません。
この夢想は、最初から悲しい色調に染められています。
蜂雀はつぎのような言葉を繰り返して、物語の色調を最初から決めてしまいます。
「けれどほんたうにかあいさうだ。
ペムペルといふ子は全くいゝ子だったのにかあいさうなことをした。
ネリといふ子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいさうなことをした。」
何が「かあいさう」なのか? それは、黄金のトマトでサーカスの木戸口を通れなかったこと、あるいは、
それをみんなに笑われたことなのか、そうなのかもしれませんが、しかし、やはりそうではないのです。
「かあいさう」なのは、この夢想自体の色調です。あるいは具体的に言えば、亡くなった妹が「かあいさう」なのです。
さらに言えば、妹との生活を夢想して、こんなふうに童話に書かずにはいられない
賢治の心が「かあいさう」なのではないでしょうか。
そもそも童話や小説で、はじめから語り手が「かあいさう」と言ってしまっては、
読者の感興を削いでしまうことは賢治も知っていたはずです。それにもかかわらず最初に「かあいさう」と決めつけるのは、
この物語には妹トシの死が踏まえられているからにちがいないのです。
世界がのっけから「かあいさう」の一色に染められることなど、それ以外にはないのです。
だからといって、賢治はトシとの生活をあからさまに書くことはでません。
こういった童話という形式でどこともしれない世界のこととしてでなければ、
また、博物局十六等官キュステ氏の幼い頃に蜂雀から聞いた話といった、
何重もの入れ子細工にしなければ語れなかったのです。これほど韜晦しなければおのれの夢想を
語ることができないというのは、よほど危うい内容にちがいないのです。
それでもなお語ろうとする賢治の心情こそ「かあいさう」というしかありません。
童話一編を支配する悲壮ともいえる雰囲気もそのことに原因がありそうです。
トマトに関連する童話として今回読み返してみて、この小さな物語、意外に内容が深いということに気がつきました。
では、この夢想の中で、賢治とトシが育てた黄金のトマトというのは、一体何のことなのでしょうか。
何を表しているのでしょうか。
明らかなことは、賢治は、二人で育てた黄金のトマトが、世間ではまったく通用しなかったということを
語っています。二人にとっていかにすばらしいものであっても、黄金のトマトは黄金としては通用しなかったのです。
それにしても、死んでしまった妹と賢治の二人で育てた黄金のトマトが黄金として世間に認められることなど
あるのでしょうか。
わが家の庭に育っているマイクロトマトの1センチ足らずの実は、まだ色づいてはいませんが、
どんな色が着くのか楽しみです。
黄金色だったらどうしましょうか。
プチトマトは1センチから1.5センチくらいの実を幾つか並べていますが、こちらの方もまだ色づいてはいません。
どんなトマトができるのか楽しみに待つしかありませんね。
2009.7.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
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