2009年11月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
人はなぜ劇を演じるのか?
蓮如さん
文庫本「賢治先生がやってきた」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
2009.11.1
人はなぜ劇を演じるのか?
人はなぜ劇を演じるのか?
−高等養護学校での経験から−
【その1】
津山市(岡山県)のみゅーじかる劇団きんちゃい座ってご存じでしょうか?
私もつい半年前までは、まったく知りませんでした。それが縁あって、
劇団関係の方から、これまでの公演のビデオとDVDをお貸しいただいたのです。
「しもやけライオン」(津山文化センター)(2000)
「石の記憶」(福井県越前市文化センター大ホール)(2005)
「チューリップ咲いた」(勝央文化ホール)(2006)
地域の劇団というのは、私のイメージでは、劇団員がせいぜい二十人までで、
年一回の公演をめざして、文化センターなどの研修室を借りて、夜、あるいは休日に練習、といったものです。
しかし、きんちゃい座はちがいます。まず劇団員の多さ、多様さで度肝をぬかれます。
総勢五、六十人、いやもう少し多いかもしれません。スタッフまで含めるとどれほどになるのでしょうか。
年齢層は、五歳くらいから七十歳まで。おそらく家族ぐるみ参加されている方々も多いはず。
演じるのは劇団名のとおり「みゅーじかる」、地元の人物や歴史をテーマにしたミュージカルです。
ということは、歌と踊り、その間にセリフを覚えなければなりません。
その上、一人何役かをこなしておられます。
大道具もびっくりするくらい大規模です。小道具も揃っています。
どういうふうに作り上げていかれるのでしょうか。
まず、脚本ができて、それによって挿入歌の作曲、ダンスの振り付け、役のふりわけ、セリフや動きの読み合わせ。
オーケストラに依頼して音楽の吹き込み、通しの練習。それに平行して、衣装、小道具の制作、大道具の設計、製作。
まったく驚くべき仕事量です。それにしても、
あの大型の大道具はどこにしまっておられるのかと、いらでもの心配をしてしまいます。
見ていて、心惹かれるのは、何よりもみんな楽しそうなことです。楽しくなくて、どうして劇などやっておられるでしょうか。
休日を費やして、踊りや歌、セリフや動きを覚え、中途半端ではない規模の大道具、小道具を制作する。生半可な気持では、
できないはずです。ただ、すべてが楽しい、苦しくても充実している、その達成感を得るためにやっておられるのでしょう。
私は、高等養護学校に勤めていました。そこでの劇の取り組みもまた、規模の違いはあれ、おなじようなものでした。
しんどいけれども、楽しい後味を残すしんどさであり、達成感をもたらすしんどさでした。
このホームページに掲載してある脚本は、ほとんど自分が演出して上演しているのですが、
そのときの生徒たちにかかわるいろんなエピソードを呼び起こしていて、彼らの顔とともに、
ふと「人はどうして劇を演じるのか?」
という疑問が浮かんできたのです。
端的に、「楽しいから」「一生懸命にやっているのを見てほしいから」、
それでもいいのですが、
もちろんそれで十分なのですが、もうすこしつっこんで考えてみたいと思うのです。
「楽しいから」の内容を詳しく調べたいのです。その方法は、劇を演じることにかなり不器用な生徒たちが
「劇を演じる」という状況を子細に点検すれば、何かわかるかもしれません。
「劇を演じる」ということの原点に立ち返って検討してみようということです。
でも、これは演劇論ではありません。そんなものを書くだけの知識も力も私にはありません。
ただ、高等養護学校で演劇指導をしてきた経験に照らして、劇を演じるということの意味を
詳細に考えてみようというのです。そこでは、非常にプリミティブなかたちで、人が劇を演じることの
意味が問われているはずだからです。
まず、劇には観客がいるということ、これは基本的な要件です。
養護学校の文化祭においても、観客は
2、3百人くらいはあります。劇を演じるとは、演じるものがそれだけの観客の前に立つということです。
自閉症の子どもには、視線が合わない傾向を持ったものが多々あるのです。視線は、人にとって、やはり独特の
意味があるものなのでしょう。一人の視線でさえ無視しがたいものなのです。
それが、劇の場合は、一人の視線が私をつらぬいてくるだけではありません。
何百人という観客の視線をあびる、視線の中に立つ、視線をはね返して立ちつくす、そのことの意味は、
たいへん重要です。
肢体不自由の養護学校で、ほとんど立ちあがれなかった生徒が、本番で車椅子からつかまり立ちした
という話を聞いたことがあります。
ビデオを撮していた教師は、涙が止まらなかったと言います。
観客の視線はそれだけの力を呼び起こすのです。
劇を演じるとは、基本的には、舞台で声を出すことです。セリフをのせた声を観客席まで届かせることです。
いわば、ことばの遠投です。ことばの力を相手におよぼして、心を動かす。
これまでの人生で一度もそんなことを試みたことがないという生徒もいるのです。
彼女は蚊の鳴くような声でつぶやくだけ、息づかいにかき消されて声はほとんど響かないのです。
そんな生徒が、繰り返し発声練習して、本番では精一杯声を張り上げ、
どうにか自分の声を観客席まで届かすことができた、という経験は演劇なればこそのものではないでしょうか。
例外的に母親には、少ししゃべるけれども、それ以外の家族や他人とはまったくしゃべらないという生徒もいます。
場面緘黙というのでしょうか。もちろん学校でもしゃべりません。
私が演出した劇で、彼は、セリフを書いたプラカードを持って、一つのしぐさを演じたのです。
そして笑いまで取ったのです。もちろん緘黙がほころびたのではありません。しかし、これは
セリフを言ったに等しいものだと、私は考えています。
それにしても、緘黙の生徒が劇を演じるということはどういうことなのでしょうか。
劇に出演するということは、ほとんどの場合、セリフを覚えなければなりません。
セリフは、自分のことばではありません。劇中の人物のことばです。
脚本の言い回しでは、どうしてもセリフを言えない生徒もいます。自分の言い回しとかけ離れているからでしょうか。
自分のしゃべりではないしゃべりで、自分の語彙を超えた語彙でしゃべるというのもまた
演劇なればこその経験ではないでしょうか。自分のことばではないことばでしゃべるということ、それが自分とはちがう他人の、
他人であるゆえんであると、理解することができるでしょうか。
また、自分の意志ではなく、身体を動かす必要があります。他人の意志をおもんぱかって、
自分があたかもその人物であるかのように振る舞わなければなりません。
それもまた、劇でしか経験できないことではないでしょうか。
また、そのセリフを発する人の気持ちを想像する力も求められます。
これはしかし、かなりむずかしいことです。自分が演じる人物の気持を想像する手がかりはセリフしかないからです。
セリフとその人物の気持ちを関連させることはかなりむずかしいことです。
これは、立場を入れ替わることのむずかしさというふうに一般化してもいいかもしれません。
つぎに、自分のセリフを、一連の発言に連ねて発しなければなりません。
自分のセリフを覚えることはできても、そのタイミングを掴めない生徒だっているのです。
そのタイミングを把握する技術は、日常的にも意味があるように思います。
会話に加わるには、タイミングをはかる必要があるからです。
日常的な有用性ということで言えば、舞台で棒立ちしていることはおかしい、と思う感覚も大切です。
棒立ちして平気な生徒もいるのです。
自分がそこにいることがどう見られているかを感じ取る感覚は、どんな場面でも必要とされるのではないでしょうか。
社会に出たとき、この感覚は必要不可欠のもののような気がします。
こんなことがあります。自閉症の子どもには、反響言語(オーム返し)というもの言いが見られます。
「オムレツを食べるか?」と聞かれると、「オムレツをたべるか?」とことばを返してくるのです。
それと、どう関連しているのかわかりませんが、こんなこともあります。
子どもが学校から帰ってきたとき、お母さんが「おかえり」と声をかけます。すると自閉症の子どもは、
多くの場合、「おかえり」とことばを返してくるのです。「ただいま」ということばも使い方も知っているのですが、
「ただいま」とは言いません。
これは、単に「オーム返し」と考えることもできるし、
また、立場の入れ替えがむずかしくて、「オーム返し」をしてしまうとも言えるようです。
彼らにとって、劇中で自分を他人に入れ替えて演じるということは、どのような意味があるのでしょうか。
自分の演技やセリフで人を笑わすことができた。これは、一種の快感をもたらすように思います。
その楽しさを前から知っている生徒もいますし、また、劇の演技によって誘発されることだってあります。
劇の後で、コンビを組んで、いろんな場面で漫才を披露してくれるものもいるのです。彼らは「ボケとツッコミ」の機微を十分に
理解しています。
バーチャルなゲームの世界では変身できたものが、舞台上とは言え、現実に変身を経験することができる魅力は
彼らを高揚させ、楽しませます。
彼らの楽しさや高揚感は見ている人たちに伝染してゆきます。そのことで観客を感動させているのかもしれません。
これは、「人はなぜ劇を観て感動するのか?」といった問いを誘い出します。
演じる側の「人はなぜ劇を演じるのか?」に対する、観客の側への問いかけです。
そうなのです。人はなぜ劇を観て感動するのでしょうか? これはなかなかにむずかしい問いです。
【この稿続く】
2009.11.1
蓮如さん
本家の仏壇はかなり古いもののようです。仏壇の奥まったところに懸かっている六字名号、
それでなくても薄暗い上に煤けているために、仏前に静座した位置からは
ほとんど読み取れません。
旦那寺のご住職が亡くなられた後、近隣の寺のご住職に一時お参りに来ていただいていたことがあります。
かなり高齢のそのご住職が、法事で本家にお参りされた折、仏壇を見あげながら、何気なく、
「ここの六字名号は蓮如さんのですなあ」
とおっしゃったのです。
そんなことは聞いたことがありませんでしたので、
驚いたのですが、近在で一番の歴史家であるご住職の
おっしゃること、こちらとしては託宣として拝聴するしかありません。
六字名号というのは、「南無阿弥陀仏」のこと。八十近いあの歳でよくこの煤けた名号が見えたと感心するのですが、
本家には以前から出入りされていたご住職のこと、
何かの機会に確かめておられたのかも知れません。
私を含めて、同席した親族一同の中に誰も、その真贋を判断できるものもありませんから、
仰せにしたがって蓮如さんのものなのだろう、ということになっております。
そんなことから、蓮如さんには、みょうに親近感をもつようになったのです。
若い頃はやはり親鸞さんだったのですが、年齢を重ねてくると、親鸞さんへの尊崇は変わらないのですが、
なぜか蓮如さんをふと
身近に感じたりするようになったのです。
蓮如さんは、どんな方だったのか、そのイメージをつかみたくて、「御文」(「御文章」)などを
読みましたが、どうも焦点をむすばないのです。親鸞さんの歎異抄のようなものはないかと探している
ところに、大谷暢順全訳注「蓮如上人・空善聞書」(講談社学術文庫)を見つけました。
蓮如さんの晩年の様子が、身近に仕えた空善さんの目から描かれています。蓮如さんのイメージがいくぶんか
湧いてきたように思います。
心に残ったところを紹介します。
41 ある時仰(おおせ)に、おれほど名号かきたる人は、日本にあるまじきぞ、と仰候き。
布教の手段として六字名号をよほどたくさん書かれたのでしょうか。その一幅が、本家の仏壇にあるものかもしれません。
また、自分の信仰に対する考え方を認めた御文(おふみ)と称する手紙もたくさん書いておられます。
126 御文のこと、文言をかしく、てにはわろくとも、もし一人も信をえよかし、とおもふばかりにて、
あそばしをくなり。てにはのわろきを、おれがとがといへ。
大谷暢順氏の意訳は、つぎのようです。
〈「御文」のこと、文言が理屈に合わなかったり、助詞の使い方が違っていたりするが、たとえ一人でも
信心を得てくれという気持が一ぱいで、書いているのだ。てにをはの悪いのは儂(わし)の欠点にしておくが
よかろう。〉
100 仰に、身をすてゝ平座にてみなと同座するは、聖人の仰に、四海の信心のひとはみな兄弟、
と仰られたれば、われもその御ことばのごとくなり。又同座をもしてあらば、不審なる事をもとへかし、
信をよくとれかし、との子(ね)がひなり、と仰候き。
平座というのは、同じ床の上に座ること、聖人というのは、親鸞上人。平座ならば不審な事も訊けて、信心もとれる
ということのようです。
やはり蓮如さんは分け隔てのない人だったように思われます。
101 仰に、おれは門徒にもたれたりと。ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰には、
弟子一人ももたずと。たゞともの同行なり、と仰候きとなり。
「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ」(『歎異抄』)を踏まえてのことばです。
門徒は、同行、友、志をおなじくする仲間ということでしょうか。
また、この聞き書きには、蓮如さんが、明応八年(1499)、八十五歳で、天寿をまっとうして、なくなられるまでの
臨終近辺の言動が日を追って詳述されています。蓮如さんの生きてこられた道筋がそこに凝縮されているような
臨場感があります。
146 十八日の仰に、かまへて我なきあとに、御兄弟たち中よかれ。たゞし一念の信心
一味ならば、中もよくて、聖人の御流儀もたつべし、とくれぐれも御掟ありけり。
兄弟仲よくすれば、親鸞上人の御流儀もおのずから立ちゆくだろうと、そんなふうな遺言だったのです。
そのほかにもいろいろ信仰にかかわる話も載っていますが、それは直接当たっていただくしかありません。
最後に一つ。
97 无生の生とは、極楽の生は三界へめぐる心にてあらざれば、極楽の生は无生の生といふなり。
これはむずかしいですね。无は、無と同じ。
意訳〈極楽での生(しょう)は、衆生が往来、止住して、輪廻転生を繰り返す、迷いの生とは違うので、
生滅を超えた無生(むしょう)の生(しょう)と言うのである。〉
2009.11.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
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