2010年4月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

ミクシィ体験記

高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

ご意見、ご感想は 掲示板に、あるいは メールで。


2010.4.1
ミクシィ体験記

先月からミクシィに参加しています。以前は紹介者が要ったのですが、最近規則が変わったとかで、 紹介がなくても仮の身分ですが、入ることができるようになったのです。それで、ツテを頼らないで、 とりあえず申し込んで入り込みました。
仮の身分なので、一月の間にマイミクシィと称する仲間を見つけなくては追い出されるらしいのです。 とりあえずは、プロフィルにメッセージを添えて、マイミクシィになってくれる人を探しました。 自己紹介の手紙を入れたビンを、ミクシィという海に放つ心持ちです。
すると、マイミクシィに誘ってくれる人が現れたのです。いまのところ一人。 でも、そのおかげで、どうにか追い出されずにすんでいます。
そして、近ごろは暇なときにミクシィ探検をしています。
ミクシィのおもしろさ、楽しさ、難しく言うと存在価値はなへんにあるのか、それがどうもよくわかりませんでした。 それで、恐る恐るいろんなところをめぐってみました。
いろんな集まりがあるようなのですが、その中で「宮沢賢治の作品を愛する」というコミュニティに 参加させていただくことにしました。
そして、少しずつですが、ミクシィのおもしろさ、有用性が分かりだしてきました。
私の場合、宮沢賢治が好きで、彼が先生として登場する脚本を書いて、 それを、このようなホームページを開設して、公開するほどにはまり込んでいるわけですが、 それにもかかわらず、同じように宮沢賢治が好きで好きでたまらないという人とインターネットで 交流する機会というのは、 意外なほど少ないのです。 しかし、ミクシィでは、そういったこともかなり簡単にできそうです。そんな予感、楽しい期待があります。 実際にそうなるかどうかはまだ不明ですが、追い出されないかぎり、 前向きに気ままに入り込んでいきたいと考えています。
そして、昨日、もう一つ「特別支援教育」というコミュニティにも参加しました。 あたらしい情報に接することができたら楽しいだろうということです。
もし、ミクシィの市民がおられたら気軽に声をかけてください。


2010.4.1
高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」

前月号で高田渡の歌「生活の柄」について書きました。
また、高田渡について、もっと知りたくて彼の唯一の著書「バーボン・ストリート・ブルース」 (ちくま文庫)を買って読んでみました。(詩集もあるようなので、唯一とは言えないようです)
感想は、やはり高田渡は、高田渡でした。
彼は、自分の「生活の柄」を生涯守り通した、ということを改めて認識させられました。 その貫き方は、元の詩を書いた詩人、山之口貘と似たようなところがあります。 高田渡の「生活の柄」は生涯変わることなく高田渡的でした。
「バーボン・ストリート・ブルース」にこんなふうな記述があります。

〈音楽仲間からはよく「変わらないなあ」と言われる。
それはそうだ。根っこも生き方も変わっていないのだから、変わるわけがない。それが若いころに 「オレは絶対に変わらないよ」と公言してはばからなかったヤツにかぎって変わっていたりする。 言わなければいいのにと思う。〉

どう変わらなかったのか。彼は自分の出発をつぎのように宣言しています。 学生運動が盛んなりしころのことです。

〈僕は普通の人たちのことを歌い始めた。黙々と働く普通の人々の日常のことを。 学生運動や反戦フォークソングとはまた違ったやりかたで。
世の中への抗議を声高に叫ぶ歌、自分の意見を主張する曲が主流だった当時のフォーク界において、 僕の歌う歌はときに「小市民的だ」と言われることもあった。
だけど僕は気にしなかった。歌詞の上っ面だけしか読めないようなヤツに、あえて反論しようとは 思わなかった。言いたいヤツには言わせておけばよかった。〉

自分の歌に対する自負はかなりのものです。しかし、 そこからの道は平板ではなかったようです。しかし、彼は自分の「生活の柄」を守り通したのです。

〈名声を得るのもいい。大金持ちになるのもいいだろう。だけど、そうなったときに人間性が変わってしまう ような人間は、「やっぱりその程度のものなのか」と思ってしまう。
自分がどこから来たのか、そしてどのように生きてきたかということは、なにかの折に振り返るべきだと思う。 そうしていれば、どんなことがあっても傲慢になるようなことはないし、たとえ人気が落ちてもいっこうに 気にならない。〉

「自分がどこから来たのか」、「どのように生きてきたか」というふうな言葉で立ち戻る彼の生き方の原点は、 父親の生き方にあるようです。詳しくは本文に当たってもらうしかありませんが、共産党員だったという彼の 父親がかなり破天荒な人物であったことはまちがいありません。「生活の柄」は、そこからも引き継がれている もののようです。
そんな彼が、どのような歌作りを目差していたかも触れられています。

〈題名は忘れたが、シャンソンの名曲にこんな一節がある。
「その歌はみんながしってる。誰でも知ってる。だけど誰がその歌をつくったのか、最初に誰が歌ったのかは、 誰も知る人はいない。ただ歌だけが今も流れている」
歌い手にとって、まさにそれは理想である。何十年かあとに僕の曲がどこかで流れていて、曲名も 僕の名前も誰もしらないのだけれど、その曲だけはみんなが知っているとしたら……。 想像しただけでもわくわくする。そこまでなれたらシンガー冥利に尽きるというものだ。〉

これが高田渡という歌手の歌作り、歌手としてのあり方の理想像だったらしいのです。
プロだなあ、と思います。歌手というより職人に近いような気がします。 お金にも名誉にも実にテイタンとしているのです。 人間こうありたいものだと思うのですが、なかなかそうはいかないのがつね。 うらやましい人生だった、というしかないですね。
前号で紹介した「知る楽 こだわり人物伝」で、高田渡の最後のコンサート(札幌)の様子が紹介されていました。 高熱を発してふらふら、でもそれを感じさせないで(もともと動きがぎこちないからか)、最後まで歌いきり、 そのあと入院して、帰らぬ人になってしまったらしいのです。
すごい人だなあ、と思います。もしかしたら、本人が言うように、 彼の名前は忘れられても、彼の曲は残るかもしれない。 その曲は「生活の柄」のように思うのですが、どうでしょうか。


2010.4.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

「うずのしゅげ通信」にもどる

メニューにもどる