2010年5月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
捨てるにためらう事なかれ
原爆を演じる
文庫本「賢治先生がやってきた」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
ご意見、ご感想は
掲示板に、あるいは
メールで。
「賢治先生がやってきた」には、
こちらからどうぞ
2010.5.1
捨てるにためらう事なかれ
やむをえない事情があって、少しずつ本を処分しかけています。
もっとも本を減らすのは、以前から迫られていたことでもあります。なにしろ本が増えすぎて生活空間を
浸食しはじめていたからです。
退職した当初は、これからどういった本が必要なのかをようく吟味して、
とりあえずは半減するからと、苦しい言い訳をして逃れていたのですが、今になって諸般の事情によって、
半減どころか、80%OFFといったほとんど不可能に近い処分を迫られているのです。
となると、一筋縄ではいきません。綿密な計画が必要です。
そこで、まずは、処分方針の五箇条というやつを一ひねり、
パソコンの毛筆体で紙に大書して張り出したのです。
「減本処分五箇条のご誓文」
一(「ひとつ」と読んでいただきたい) 死ぬときに本は持参できぬものと心得(う)べし
一 小さい活字は早晩天眼鏡にても読めなくなると心得べし(いま、もうかなりそれに近いが)
一 思考力の衰退により、理論書など読めなくなると心得べし(はやくもそうなりつつあるが)
一 幸いにして枯れ老人になりおおせれば、晴耕雨読の愛読書は、仏書、句集のみになるやもしれずと心得べし
一 必要があれば、間髪を入れずアマゾンで買えば済むと心得べし
ということで、本の整理に取りかかりました。
まずは、天井裏にもぐり込んで、書棚の本やら箱詰めの本から取りかかりました。
段ボール箱から、中央公論の日本文学全集を取り出します。なつかしい青い函は、まだ色あせてはいません。
昭和38年頃、高校に入ってはじめて自分の意思で買った文学の本でした。毎月一冊の発刊が待ち遠しかったものです。
しかし、全部揃えたわけではありません。毎月380円の出費は高校生にはそんなに軽くはなかったはずです。
最初は、三島由紀夫か川端康成、そして小林秀雄といった配本だった記憶があります。「金閣寺」もそれで
読んだのです。それにしても、いまにしての疑問、あのシリーズに宮沢賢治が入っていなかったのは、
どうしてなのでしょうか。擬音語や擬態語を嫌った三島の編集方針によるものなのか、それとも
当時は、賢治の評価はそんなものだったのか。
続いて、赤い函の世界の文学もどんどん処分コーナーに振り分けます。さらに、世界の思想、日本の思想の一部も。
これらは、町の図書館に持ち込むことにします。はたして歓迎してもらえるや否や。
つぎにもの入れの書棚にある教育関係の本に取りかかります。
そんなに勉強熱心な教師ではなかったので、この部類の本は多くありません。
ばさばさと捨てる部類に積み上げてゆくと、なんだか快感が湧いてきます。教師根性ともおさらばです。
つぎに短歌関係の本が並んでいます。これも大半を処分するつもりです。
四十代に短歌にのめり込んだことがあるのです。熱中するとまず本を買い込むという性癖が
あってかなりの本があるのですが、もはや捨てるにためらう事なかれ、です。もしかしたら、老後の楽しみに
短歌でもやるかもしれないと考えて残しておいたのですが、
父の人脈で俳句をはじめることにしたので、短歌本は無用。
最近は朝日の詩歌欄を読んでも、短歌の冗長性より俳句の切れ味、
というかいさぎよさの方を好ましく思うようになっていたので、俳句を選んだのは必然の成り行きでもあったのです。
ただ、歌人の中で、吉野秀雄の全てと、上田三四二の一部だけは捨てるに忍びず、残す方に紛れ込ませました。
古い家なので収蔵場所はかなりあって、そのためにいつのまにか増えていったのです。
本は三箇所に分散して収納してあるのですが、
もっとも大切な本は、私が中学時代に使っていた部屋の壁にしつらえた書店並の本棚に収まっています。
その本棚では、例えば、詩歌の区画、手話の区画、鶴見俊輔の区画、見田宗介の区画、
といった見出しを付けて人やテーマごとにまとめてあるのです。
それだけに、このテーマ、この人の本は処分しようと決めれば、比較的簡単にことがすむわけです。
まずは、鶴見俊輔コーナーから手を付けることにしました。鶴見俊輔さんの本は、捨てがたいところがあります。
べ平連の活動をはじめられたころから、好んで
読んできて、学ぶところも多かったからです。いまでも、近年出版された詩集など、もし機会があったら買おうと
思ってくらいなのです。しかし、懐旧の情に負けてはおられません。泣いて馬謖を斬る。共同研究「転向」等々、
大切にしてきた本なのですが、ためらわず処分に決します。
学校関係とは別に、手話、ろう教育の区画もあったのですが、それも処分することにします。
それらの本が将来必要になることはもはやないのです。私は、教師の一歩を踏み出した高等学校から、三十三歳のとき、
希望してろう学校に転勤しました。
そこで、三十の手習いよろしく手話を学ぶことになったわけです。
学びはじめるとおもしろくて、以前、この「うずのしゅげ通信」にも書いたことがありますが、
手話の記号化ということにはまり込んだこともあります。
同僚のH先生と、手話の記号化したものをパソコンに入力して
並べ替えなどを試みたこともあるのです。そういえば、いまだに手話の記号化は実現していませんね。
やはりかなりむずかしいことなのだと思います。
いまから考えるとかなり拙速だったと反省してはいるのですが、
それでも一応記号化するところまでいったのですから、怖いもの知らずですね。
その後、転勤があり、私の興味が続かなかったこともあって、記号化の試みも立ち消えになってしまいました。
そのときの手話関連の本がかなりあるのですが、記号化の名残を留めている本「手話言語の記述的研究」
一冊を残して、
すべての本に処分を言い渡しました。
中岡哲郎さんの本も、もう必要とすることはないだろうと判断しました。これも、この欄で触れたことが
ありますが、私が、三十年前にろう学校に赴任して
進路の仕事をしていたとき、中岡さんの本が役に立ったのです。
障害を持っている生徒にとってどのような仕事が向いているのかを考えるのに、たいへん参考になりました。
中岡さんの「工場の哲学」によると、単純作業が生じるのは、
たとえば工場のラインの入口、出口、あるいはラインのつなぎといったことが指摘されています。
彼の分析を念頭に工場を見学すると仕事の流れがよく分かるのです。
また、ろう学校の卒業生は当時製造業への就職が大半でしたが、工場の中で
彼らはコンベア作業をやっているか、
コンベアの作業が難しい生徒は、まさに中岡さんの言われるラインの入口出口、
あるいはラインのつなぎといった場所で作業していたのです。
そういうことから中岡さんの本を信頼するようになり、結果出る本を片っ端から読むようになったのです。
高等養護学校に移ると、卒業生の様子はまた違っていました。当時卒業生の就職先としては、
やはり製造業が多かったのですが、彼らはライン作業のスピードに
ついて行けなくて、ラインから離れた浮島のようなところで作業することが大半のようでした。
そういった分析にも「工場の哲学」は有効で、自分で密かに、ラインの入口出口つなぎ浮島、
機械の入口出口等々、卒業生の仕事を分類してみたこともありました。
その後、就職先の主流がサービス業になり、
たとえばスーパーの駐車場でカートの整理とかいった仕事に就く場合が増えたため、
必然的に「工場の哲学」の出番が少なくなりました。それでも、彼の本は、ずっと永く書棚にあったということは、
やはりそれだけ魅力的だったということなのでしょうか。しかし、いまやそれも処分するべき時です。
つぎに隣の見田宗介さんの本も捨てることにしました。見田さんの本との出会いは、
真木悠介というペンネームで書かれた
「気流の鳴る音」だったのでしょうか、それとも「宮沢賢治」だったのでしょうか。どちらも、たいへん秀逸な
印象深い本でした。とりわけ「宮沢賢治」は、大変影響を受けています。この二冊は、残しておくことにして、他の本は
処分します。ちょっと残念な気がしますが「理論本は捨てる」という原則に従うしかありません。
書棚にかなりの隙間が目立つようになりました。もう、ここまで来ると嗜虐的になってきて、
勢いのままに、道元、安藤昌益、吉本隆明、石牟礼道子、三島由紀夫、大江健三郎、
一部を残して、すべて処分してしまうと悲壮な決意が湧いてきます。
辛いながらがんばるしかありません。
これで、コーナーとして残るのは、宮沢賢治の全集と関連本、仏教コーナー、詩のコーナー、多田富雄、
中井久夫のコーナー、井上ひさしを含む戯曲コーナー。
めぼしいものは、それだけになってきました。
もう、後戻りはできません。本を処分するということは、身を切ることであります。これまで血肉としてきた
精神を捨てることだからです。また、未来へのある種の断念でもあります。
自分は、これからもうこの本を必要とすることはないだろうと諦めることだからです。
ある種の淋しさもありますが、翻って考えれば、これまで、これだけの本を身近に置けたのは幸せなことだったのでしょう。
「死ぬときに本は持参できぬものと心得べし」ですから、……それこそ、一遍さんの心境で、捨ててこそ……。
(もっとも「捨てて」とかっこよく言っていますが、実際は売っての処分ということなのですが。)
2010.5.1
原爆を演じる
オバマ大統領の演説に端を発して核廃絶の運動がもり上がる萌しを見せています。
唯一の被爆国である日本が、ヒバクシャの声を聞き死者に思いを馳せて、
核廃絶を訴える声を発することで、世界の先触れとなる、それは、私たちの責務のように思うのです。
とはいえ、実態は心もとないというしかない現状ではないでしょうか。
戦後65年の現在、ヒバクシャの声は高齢化に伴って弱々しくなり、
私たちの方も生活の騒音に遮蔽されて彼らの声に耳を澄ます機会が減りつつあります。
そういった現状に抗して、
はるか以前から、自らの「持続する志」として、
演劇という生身の人間が表現にかかわるほとんど唯一といっていい分野で、
核の恐ろしさを訴える試みが、井上ひさしさんによってなされてきました。
被爆の実態をどのように表現し、どのように演じていくかはなかなかに難しいことです。
同時代を経験しているとはいえ、被爆を直接体験したわけではない井上さんもまた、
そのことに悩み続けておられたことを、テレビのドキュメンタリー番組で知りました。
軽々にヒロシマをテーマにすることなどできるはずがないのです。
ヒバクシャの話を聞き、手記を読み込むといった努力とともに、あるたけの仕掛けを駆使して、
そのハードルを越える方法を探ぐってこられたに違いありません。
「父と暮らせば」は、井上さんのそういった苦闘のたまものというしかありません。
そういう努力があってはじめて、原爆を舞台にかけることができたのだと言えるでしょうか。
井上さんは、脚本に取りかかる前に、ヒロシマの証言を漁るように読み、抜き書きし、考えてこられたようです。
テレビ画面にクローズアップされた手帳は、手記からの抜き書きで埋められていました。
ヒバクシャの手記の類を読んで、読んで、書き写し、繰り返し考え、想像し、感じ、
それを自分の中に取りこんで、
そこで醸成されたものを、あのような仕掛けにのせて再構成してゆかれたのだと思います。
その仕掛けの一つは、父親の幽霊を登場させたことです。厳粛に向かい合うべき被爆の悲惨を前にしても、
幽霊であるがゆえに許されることがあるようです。
たとえば、父親が爆風で倒され逃れえないと観念したとき、娘を逃がすためにジャンケンを提案するエピソード。
最初見たときちょっと違和感があったのですが、考えてみると幽霊だから許容されていると解釈すればいいと
思いあたったのです。そこに幽霊の仕掛けが効果を発揮していると言えるかと思います。
もう一つのすばらしい仕掛けは、娘を惹きつける好青年が彼女の前に現れるという状況を設定したこと。
被爆した娘とその青年との淡い心の駆け引き、逡巡を描きこむことで、
劇を明るい色に染めることに成功しています。
父親の幽霊が、娘の応援団長を称するなど、ほほえましいエピソードが明るい雰囲気を導き入れます。
暗くて悲惨なだけの劇は、井上さんの上演目録にはないのでしょう。
テレビで放映されたのを観た限りですが、
すばらしい劇だと思います。
井上さんにはもう一作原爆をテーマにした劇があります。「少年口伝隊1945」です。
原爆で建物が被災して、新聞の発行できなくなった地元の新聞社が、街頭でニュースを読み上げる、
口伝隊を編成したという、
事実を踏まえた朗読劇です。その口伝隊に三人の被災少年が応募し、街宣活動をしている内に、
一人が原爆症を発症する、といった話のようです。
事実に即しつつ、切り取り方が井上さん独特のものがあります。
朗読といった形式をとるなど、深く考えた構成です。
機会があればぜひ観てみたいと思っています。
また、「紙屋町さくらホテル」。劇場中継を観ての印象ですが、これもすばらしい劇でした。
表だって原爆が舞台に立ち現れることはありませんが、
厳然とその背景に隠れて、この劇を悲劇に染める蔭の役割をはたしています。舞台は昭和二十年五月の広島。
そこで被爆することになる移動演劇団・さくら隊の公演を目前にした劇団員の物語。
戦争末期の天皇の密使や戦争責任の問題など複雑にからまっていますが、舞台の奥にはひっそりとヒロシマが
見え隠れしています。
井上ひさしさんの戯曲を、原爆といった観点から見ても、
すばらしい仕掛けがいくつもほどこされていることが分かります。
これらの三作、これからも演じ続けられる作品であることはまちがいありません。
井上さんは、原爆の同時代人ではありますが、ヒバクシャではありません。
しかし、ヒバクシャの手記を読んで読んで読み尽くし、
想像を働かすことで、いつのときか、もうヒバクシャの劇を書いてもいいだろうと、
踏ん切りをつけられた瞬間があったのでしょう。彼らに寄り添っているという
確信の芽のようなものが萌すことがあったに違いないのです。
とはいえ、井上さんは用心深く出しゃばることは避けておられます。
「父と暮らせば」で、父親の幽霊が語る被爆の瞬間はおそらくはヒバクシャの手記をそんなにはみ出すものでは
ないはずであり、また、
原爆症で死んでいった友人の母が、主人公の娘さんにかきくどいたという怨嗟の言葉もまた、
どこかで読んだような言い回しが使われています。
これは被爆という現実の前で、井上さんの創造力が萎縮しているというわけではなく、
ヒバクシャの言葉を前面に据えることによって、
その内側でセリフを紡ごうと心がけておられたのではないか、ということです。
また朗読劇「少年口伝隊1945」の場合は、原爆症に倒れる少年を直接演じるのではなく、
朗読という形をとることで、生々しさを避けて、つまり演技の嘘っぽさを回避して、
そのことで被爆後のヒロシマを舞台にかけることができたのでしょう。
また「紙屋町さくらホテル」では、直接被爆の被害を登場させることなく、原爆の悲惨さを
浮き上がらせるといった離れ業に成功しているように思います。すばらしいアイデアではないでしょうか。
先日、井上ひさしさんが、お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。〈合掌〉
【追記】
井上さんよりも年齢が若い私たちは、戦後生まれであり、戦争の経験もありません。
井上さんは、原爆が落ちたとき、
新聞でそのことを読んだと、どこかに書いておられました。
戦後生まれの私には、当然のことに、
そのような同時代の記憶もありません。
そんな私たちが、どんなふうに原爆を舞台化することができるでしょうか。
このホームページにもいくつかの原爆をテーマにした戯曲が掲載されています。
今現在、原爆をどのように描く方法があるだろうか、というのがそもそもの発想のきっかけです。
たとえば、「地球でクラムボンが二度ひかったよ」というふしぎな題の脚本は、
原爆を、2010年の今に引きつけるためにどうすればいいか、という問いに対する一つの試みです。
宮沢賢治と銀河鉄道という舞台装置が、その試みを可能にしたのです。地球から65光年離れた銀河鉄道の
駅で、宮沢賢治が望遠鏡で地球を覗いていて、原爆のピカ、閃光を目にするといった奇妙な設定です。
原爆の閃光が、65年かかって賢治が覗いていた望遠鏡に達したのです。ふだんは暗いだけの惑星である
地球が、一瞬ピカッと光を発したのです。賢治は、その瞬間、つまり戦後65年の今日はじめて、
原爆の爆発を知ることになったのです。
そういった仕掛けによって、原爆を現在に引きつけようというのが、狙いなわけです。
この「地球でクラムボンが二度ひかったよ」が、昨年札幌新川高校の、今年は岡山の新見高校の演劇部によって上演されたのは嬉しいことでした。
内容は、少し高校生には負担が大きすぎるような感じがしますが、実際はどうなのでしょうか。
また、その他に原爆をテーマにしたものとしては、
賢治の童話にもある竃猫が被爆するという朗読劇「竃猫にも被爆手帳を」、あるいは、模擬原爆パンプキン
が校庭に降ってくるという「パンプキンが降ってきた」、核戦争後、核の冬に雪をもたらす雪ばんごの
一人芝居「水仙の咲かない水仙月の四日」などがあります。
直接ヒバクシャを描くことができなくて、
そういった仕掛けを施すことで原爆に迫ろうという狙いです。
そういった試みが、観客に想定している若い人たちと原爆との距離を少しでも埋める一助になれば、
これほど嬉しいことはありません。また、機会があれば、上演を考えていただければ幸いです。
2010.5.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
「うずのしゅげ通信」にもどる
メニューにもどる