2010年6月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

官報「日本國憲法」

むずかしいことをやさしく

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2010.6.1
官報「日本國憲法」

やむをえない事情があって本の整理に取りかかりました、ということを前月号で報告しました。
自分の蔵書だけではなく、父や母の残していった本も、この際、処分してしまおう考えています。 すでにこれまでにも、ことあるごとに決意も新たに捨ててきたのですが、 今回は、どうしても捨てるに忍びなく残してあった本も思い切って処分するつもりです。 もはや待ったなしの状況に追い込まれているのです。
おそらくは父の蔵書である戦史、小説、俳句、谷崎源氏、あるいは法律の本、母のものらしい茶道の本など、 新聞を敷いて仕切った処分コーナーに積み上げていきました。あらかた片づいたところで、 さて一息ついて、本を手に最後のお別れをしているとき、 黴くさく古色蒼然とした古本の間から、紙束がはらりとこぼれ落ちたのです。 二つ折りにされ、周りが茶色に焼けた冊子。もともと紙質はあまりよくなかったようで、 茶色の紙束はすでに柔軟性が抜けて、触ると折れてしまいそうです。 もうはじっこなどよれよれで、はらはらと崩れかけています。
表題を見て驚きました。りっぱな字で官報「日本國憲法」とあります。
「へー、何これ?」と、まじまじと眺めてしまいました。右の写真がその官報です。

「官報 號外 昭和二十一年十一月三日 日曜日
日本國憲法
             印刷局」

とあります。また右下に小さく「明治二十五年三月三十一日 第三種郵便物認可」。
なるほど、この官報は、まあいわば日本國憲法発布を知らせる「國」の「號外」みたいなもの だったのだろうか。「昭和二十一年十一月三日」とありますから、戦争に負けて一年と少し、 そんな短い期間で新しい憲法を創って発布したのかという驚きの感慨も浮かびます。
それにしても、どうしてこんなものが内に残っていたのでしょうか。また、そもそも、父、 あるいは母かもしれませんが、 このパンフレットをどのようにして手に入れたのだろうという疑問もよぎります。 父が中国から帰還してまもなくのころで、現在の家はまだ建ってなくて、親の家に同居していたころです。 私はまだ生まれていませんでした。父、あるいは母の本に挟まれたまま、私が生まれてこの家が建てられたときに、 引っ越してきたのでしょうか。日本國憲法発布という重大事ですから、官報は全国の世帯に くまなく配布されたのでしょうか。すでに故人である父や母に聞くわけにもいきません。
想像をめぐらしていると、ふと「日曜日」という活字が目に入って、なるほど憲法が発布された 昭和二十一年の十一月三日は日曜日だったのか、という つまらない感慨に囚われてしまいます。

さらに、崩れないように丁寧に表紙をめくると、つぎのような文言が目に飛びこんできます。

「朕は、日本國民の聰意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の 諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を経た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布 せしめる。
御名 御璽(念のため。「ぎょめい、ぎょじ」、天皇の名前と印鑑のことです)
昭和二十一年十一月三日」

帝國憲法の改正という形で、昭和天皇の裁可によって、日本國憲法が公布されたわけです。
そして、大臣の名前が続きます。

内閣聰理大臣兼外務大臣 吉田茂
國務大臣 男爵 幣原喜重郎
司法大臣 木村篤太郎
………………………」


さらに一枚めくると、大臣名の残りが並び、頁の中頃から日本國憲法が書かれています。

「日本國憲法
 日本國民は、正當に選擧された國會におえる代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、 諸國民……
………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………

と、日本國憲法の前文がはじまります。

戦後生まれの私としては、日本國憲法の発布といったことを歴史的事実としては知ってはいても、 なんら具体的なかかわりはなかったのですが、こうして公布されたときの「官報」を目にすると あらためて考えさせられるところがあります。
先ほども書きましたが、大日本帝國憲法の改正として天皇の名において公布されたということ、 そのことに感慨をあらたにしたのです。
特に私の目を引いたのは、つぎの一行でした。
「國務大臣 男爵 幣原喜重郎」
ここに見える「男爵」の肩書きです。民主的であるべき日本國憲法の公布文書に「男爵」が使われている 違和感、それは、実物を目にしたゆえのものです。ここに大日本帝國憲法のシッポがのぞいています。
うろ覚えながら知識としては入っている日本國憲法発布という歴史的事実が、 こうして実物を目の前にすることで、新鮮なリアリティを 帯びてきます。私のようなものでさえそんなふうですから、 日本史の先生がこのような実物をちょっと見せるだけで、高校生の興味をかき立てることが できるのではないでしょうか。そんなことも想像してしまいました。

それにしても、このような官報、かなり残っているものなのでしょうか。
インターネットで調べてみると、官報が出た事実は簡単に突き止められます。
しかし、東京の区の図書館でさえ実物は保存していない、という表示があります。
それだけ貴重なものなのでしょうかか。もし貴重だとして、いったいどれほど貴重なものなのか、 私にはまったく判断がつきません。
それでさらに調べていくと、何とオークションに出品されているのを発見しました。 五千円くらいの価格でオークションにかけられています。 ということは、そのくらい貴重さということなのでしょうか。 といって、五千円の貴重さがどのようなものなのか、と問われてもまったくわかりません。 客観的な価値というものがどんなものなのか、まったく想像もつきません。
ところが、もっと驚くべきものに出会ったのです。インターネットをさらに調べていくと、 別のオークションに、 明治時代の官報「大日本帝國憲法」が出品されていたのです。格が違うものに遭遇したようで、 「へへー」と恐れ入ったのですが、ようく見ると同じくらいの値段なのです。 昭和と明治が同じ価値なの?と驚いてしまいました。もともと客観的な値段などないのかもしれません。 五千円というのも仮の値段なのですね。需要があまりないのでしょうか。需要がないということで、 両者はそんなに変わらないのかもしれません。だから、同じ値段? 同じ官報ですし、内容が 貴重というわけでもないのですね。考えてみれば、内容はいくらでも資料で読めるわけですから、 実物としての歴史的価値、それにつきるわけですね。

しかし、この古色蒼然たる歴史を孕んだ資料、どうすればいいのでしょうか。
一応大切に保管しているのですが、考えられることは、自分の出身高校にでも寄付するか、あるいは、 家宝として保存しておくか。
もっとも、寄付するなんていったら一笑に付されるかもしれませんが……。

【追伸】
Wikipediaで「日本国憲法」を見ると、日本国憲法原本の写真が出ています。
赤い線の引かれた内閣の罫紙に筆書きされた「上諭」(というらしい)、 「朕は、日本國民の……」という文章も読むことができますし、 「御名 御璽」の写真も見られます。御名のところには「裕仁」とあり、その下に立派な御璽が捺されています。
また、大臣の副署に「男爵」の文字も読むことができます。
写真とはいえカラーなのでかなりリアリティがあります。でも 内にあるぼろぼろに焼けた「官報 號外」の方が実物だけによりインパクトがあるように思うのですが、 これって、身びいきかな?


2010.6.1
むずかしいことをやさしく

先月号で井上ひさしさんの原爆をテーマにした劇について書きました。
今回は、その続きのようなものです。
みなさんご承知だと思いますが、井上ひさしさんの劇作のモットーは、つぎのようなものです。

むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに書くこと


「賢治先生がやってきた」の口上にも書いてありますが、 特別支援学校(養護学校)で座付き作者のような立場で脚本を書いていた私もまた、井上さんの モットーに近いものを考えていました。
それで、井上さんのモットーに便乗して、養護学校での経験を振り返ってみたいと思います。
まず、「むずかしいことをやさしく」
私は高等養護学校に勤めていたのですが、 そこでは当然なことにむずかしいことば内容は避けなくてはなりませんでした。 劇のセリフは、自分たちのことばでなければ、覚えられないからです。 劇の練習をしているとき、こんな場面に何度出くわしたことがあります。
「賢治先生がやってきた」の練習中のことです。
ある生徒につぎのようなセリフが与えられました。
「こんな絵をかくなんて、ほんまに美術の先生やろか。」
このセリフが、生徒にはなかなかむずかしいのです。「かくなんて」といった言い方をふだんはしないからです。 だったら座付き作者としての私は、生徒に妥協してふだんの言い回しになおすか、 それとも「かくなんて」といった言い回しを彼に一度 経験させるかの判断を迫られるわけです。生徒の言い回しを尊重して私が妥協するか、 それともこの機会を逃せば 一生言わないだろう「なんて」を彼に一度経験させるか、それが問題なのです。結局、私は 経験を選びました。その生徒は違和感のある言い回しを、 なかなか覚えられずに悩んでいましたが、結局丸暗記してしまい、練習を重ねて言えたときは ほんとうに嬉しそうだったのです。
セリフだけではなく、筋やテーマもまた生徒が分からなければ何にもなりません。筋はシンプルをモットーにしていました。 「賢治先生がやってきた」は、「何でも教えてくれる賢治先生はいったい何の先生なのかな?」といった 生徒の疑問をめぐって劇が展開していくという単純な筋になっています。その筋が、最初から最後まで 貫かれています。筋を串にして、昔話の「見るなの座敷」団子を串刺しにしたようなストーリーになっています。
つぎに「やさしいことをふかく」
賢治先生の一連の脚本はちょっと目にはやさしいたわいない内容だと 思われるかも知れません。でも、私としては、自分なりに深く考えたことをそっと盛り込んだはずなのです。 たとえば、養護学校の教師としてもっともふさわしい人物は誰だろうと考えて、その結論が宮沢賢治で あったのです。賢治の振る舞いもまた事実に即しているはずです。
また、「ぼくたちはざしきぼっこ」は環境問題を扱っていますが、表現のたわいなさの割には深いところまで メッセージが届くように考えました。
表だってはたわいない話の裏に、 自分なりに考えたり調べたことをさりげなく置いたつもりです。
「ふかいことをゆかいに」
井上さんは、本質的に喜劇作者でした。そもそもの出発からして、 浅草でコントを書いていたわけですから。
私もまた、悲しい劇や深刻な劇を書くことができませんでした。 笑いを含みもった狂言のような劇を書きたいといつも思ってきました。
「モモ」の劇をしたとき、場面緘目の生徒がいました。家で母親には少ししゃべるのですが、 幼稚園を卒業するころから、外ではいっさいことばをはっしなくなったのです。ことばだけはなく、 彼は表情もまた出さないようにしているようでした。不愉快そうな顔をしているか、無表情かでした。 その彼が、「モモ」の練習を始めたとき、笑いをこらえているのに、一人の教師が気づいたのです。 吉本新喜劇をまねたネタやら水戸黄門が登場したりするドタバタがはじまったときでした。 他の生徒たちも喜んでいましたが、彼もまた顔をゆがめて笑いをかみ殺していたのです。 学年で取り組む劇には、もちろん生徒たちがみんな登場して一言を言う、というのが原則でしたが、 彼は、やはり特別にセリフを書いた吹き出しを持って登場することで妥協がなりたったのでした。 彼は卒業するまでにもちろん一言も発しませんでした。一年生のとき、ちょっかいをかけにいった生徒に 蹴ろうと向かっていったときと、二年生の劇の笑いの反応、それが彼らしい感情の発露だったのです。
「ゆかいなことをまじめに」
生徒たちは、ほんとうにまじめでした。緊張で体をがちがちにしているものも いました。そんなふうにまじめに取り組んでくれたからこそ愉快な劇ができたのだと思います。

そんなふうに意識していたわけではないのですが、いまから振り返れば、 まさに井上流に「まじめに書いて」きたのですが、 私の場合、高等部の生徒を想定しているので、ビミョウにバランスが違っているのではないかと思うのです。 内容は高校生らしいもので、ことばはやさしく、 といったことを心がけて劇を書いてきたのですが、 そのために、内容とセリフがすこしアンバランスになっているかもしれません。
奇妙な言い方だといつも抵抗があるのですが、「普通校」で上演するときにそのアンバランスがビミョウに 生徒のノリに影響することがあるかもしれません。 それは演出のやり方で修正できることではないかと考えてもいるのですが。


2010.6.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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