2010年7月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

アール・ブリュット

内子座

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2010.7.1
アール・ブリュット

懐の深くなりゆく夏木陰

散歩しているとちょっとした木陰で休らうときのひんやりとした気持ちよさは何にもかえがたいものがあります。 まるで木陰の懐に抱かれているような心地よさ。私が散歩している山道にもぐるっとまわりこんでいるところなどに そんな木陰があって、夏がたけて陽射しが強くなるにつれて、いよいよ蔭を深めていくようです。 この句、そういった気持です。

先日(2010.6.27)、教育テレビの日曜美術館で、フランスで開催されているアール・ブリュット・ジャポネ展の 特集がされていました。
「アール・ブリュット」というのは(少なくとも僕には)聞き慣れない言葉ですが、 ”生(き)の芸術”と訳されていました。 しかるべき美術教育を受けていない、修練を積んでいない人びとの芸術という意味で「生(き)」ということばが 使われているようですが、紹介されている作品を見ると、 要するに、障害を持った人たちが、美術教育とは無関係に自ずから生みだした作品ということのようです。
たとえば、自閉症の青年が粘土で形作った顔や動物に無数の突起を植え付けた作品とか(この青年については、 以前ここで触れたことがあります)、 精神に障害をきたした女性が描き上げた、なまめかしい足が群生したようなエロチックな絵とかが紹介されていました。
まさに、美術教育などとは無援に、自分の描きたいものだけを描いた、あるいは創りあげた作品群というもののようなのです。 そういった日本のアール・ブリュットばかりを集めて、フランスで展覧会が催されたというのです。 ずらっと展示された千点にものぼる作品群は、 自ずからの迫力によって観るものを魅了するようです。フランス人の入場者の評判も大変よかったようです。
それにしてもなぜジャポネなのでしょうか。番組の中では、 滋賀県がアール・ブリュットの作品を掘り起こしているという紹介がありましたが、それにしても、フランスでなくてジャポネである 理由がどこにあるのかはわかりませんでした。

その特集を観ていていろいろ考えさせられました。
特別支援学校(養護学校)の美術の教師は、アール・ブリュットといった観点から、 生徒の作品群を見直さざるをえなくなるだろうし、もっと言えば美術教育の根幹の変更を迫られるかもしれません。 教師だけではなく、親もまた無関係ではおられません。 子どもに対する見方をかえなければならない、ということにもなりかねません。影響はとても大きいのです。
もちろん、私もまた根本的に考えを改めなければならないと思っています。

私の散歩コースの目的地は、博物館なのですが、そこで清掃をしている青年とよく話をします。 彼と話していると、心が洗われるような気がするのはどうしてだろうかと、帰り道、時にはそんな疑問に襲われることがあります。 それは、彼が無垢だから、あまりの悪意のなさに、自分の心が洗われるのだと一応は考えていたのですが……。 そうなのです。彼はダウン症なのです。聞くところによると、養護学校の高等部を卒業して、 この施設の清掃を請け負っている会社に就職したようです。私が勤めていた養護学校の卒業生と同じです。 卒業生の一人だといってもいいくらいです。彼には、悪意といったものは殆ど感じられません。人なつっこくて、 陽気です。しかし、無垢かというとちょっと違うのではないかと思うのです。 この番組を観ていて、その違和感はますます広がりました。 彼らは、かならずしも無垢とはいえないのではないか。彼らを理想的な無垢なものだと思いこんでいるのは、 実は自分の、そうあってほしいという 幻想なのではないか。彼らにもずるさもあるし、悪い心もあります。また、怠け心もある。私たちほどタチはわるくないとしても 充分に悪い面ももっているのではないか。
しかし、それでいて、彼らと接することで心が洗われるのはどうしてなのでしょうか。
そんな疑問を持ち続けていたこともあって、この番組を観ていて思いあたったのです。 彼らは無垢ではなくて、彼らは、我々にはない、ストレートな自己表現の力があるのではないかと。それは、素直な心と 表現すると近いのかもしれませんが、ちょっと違うような気もするのですが、とにかく、自分の心を 直接に発散させる能力の持ち主であるような気がするのです。逡巡によって表現をくすませることがない能力。 だから、彼らは自分の心が発する人間性の原色のようなものをゆがめることなく外にだすことができるのではないか。 その原色を感じ取って、私たちは心が洗われるような感じを持つのではないか、ということなのです。
うまく表現できませんが、とりあえずは、それが私の結論なのです。

「アール・ブリュット」で紹介されていた自閉症らしき青年は、 自分の作りあげた人物や動物に無数の粘土の棘(棘というより突起というべきか)を 植え付け続けて倦むことがありません。そうして、すべての表面を突起で埋め尽くしたときが作品の完成のときなのです。 この青年は、どうしてそんなふうにして作品を作ることになったのでしょうか。小さいころ何か突起のようなものに触れて、 それを摘んだり気味悪がったりしたのか、あるいは、 無性にその突起が気にいったのかもしれません。だから人の顔や動物に突起を付け続ける。 その気に入り方は、人間の感情の原色の ようなものではなかったか。ひたすら突起が好き。好きと言い表すこともできないほどの好きさ加減で好き、だから それを原色と言ってもいいような気がするのです。混じりっけがないのです。 それが分別といったものやら、他への興味で ひたすらさが弱まるとき、原色がくすんでくるということができるのではないでしょうか。
彼は、原色の好きさ加減を、気に入り方を、突起を無数にまとった陶芸作品で表現しているのではないのでしょうか。
それは、なまめかしい足の群生するエロチックな絵を描く女性の場合も同じです。 彼女はひたすら女性の足やら肉体のパーツをフェティッシュに 描きたいのです。それは自然に現れた己の性的な感情そのものであり、世間にたいする配慮などみじんもありえないのです。
この原色を感じさせてくれるということ、たとえば山下清を想像すればわかりやすいかもしれません。 彼の色彩の爆発感はまさに原色そのもののような気がします。それはまたどこかで岡本太郎に通じるところもありそうです。
文学においては、たとえばムイシュキン。彼はけっして無垢とは言えないと思うのですが、あれほどのひたむきさは、 まさに原色のひたむきさと言えるかもしれません。

散歩の途中で出会う青年もまた自分なりの原色を発散していて、その原色に接することによって、 私は心が洗われるような気がするのかもしれません。
あくまでも、一つの仮説ですが。


2010.7.1
内子座

岡山から瀬戸大橋を渡って愛媛までの小旅行をしてきました。
印象深かったいくつかの場所についての心覚えを認めておきます。
まずは、津山城址。
梅雨入りが宣言されてまもなくでしたが、天気のいい日でした。 歩いて天守台までのぼりました。城郭はまったく残ってはいないのですが、石段の側面にそびえる石組みがとてもきれいでした。 下から見あげると城の石垣のせり上がっていく曲線の美しさが際だちます。 城をめぐる道や台ごとに桜の樹が多く植わっています。寄り添った木々が暗いほどの木陰を投げかけています。後で聞くと、この桜の樹、一人の人の努力のたまものなのだそうです。
石段を登っていくと、どこからか歌曲を練習している女性の声が降りそそいできます。何度も何度もおなじ旋律を繰り返しています。 どんな乙女が歌っているのかと、石段をのぼって見まわしても、声の主はみつかりません。石垣を回り込んだ蔭ででも 歌っておられるのでしょう。天守台までのぼると、さすがにここまでは声は届きません。 復原された備中櫓からは津山城下をみはるかすことができます。 天守台をめぐって、一通り眺め終え、それだけで満足して石段を降りはじめました。するとまた先ほどと同じようにどこからか、旋律はちがうものの、 また妙なる声が響いてきます。 あちこち見まわしてはみるのですが、 結局声の主を、探し当てることはできませんでした。影さえ見えないのです。 そのためにかえって「あの歌声はどんな人だったのだろう」という問いが尾を引き、 石垣の美しい曲線とともに津山城址の印象として残ることになってしまいました。


この城を詠んだ句があります。

花城下 三鬼もここに生まれける  鴨川

西東三鬼は津山の出身なのです。昭和15年、京大俳句事件で検挙された俳人です。 鴨川(おうせん)は、私の属している句会「古墳群」主宰の内田満氏の俳号です。 上掲句は私の好きな句で、津山城址のスケッチにこの句を認めたハガキをいただき、居間に飾っています。
桜の季節にはまさに花城下の趣を呈するのでしょう。
桜の樹は、天守台をずっと囲むようにして植えられているようです。だから、花の季節には、天守台の石垣に花の幔幕を 巻き付けたように咲き誇るのではないでしょうか。花のうす桃色の光を下から受けるようにして、石垣の曲線が せり上がってゆく。想像しただけですばらしい眺めのように思われます。 そんな想像をめぐらしていると城郭はなくても石組みの美しさで充分堪能させられるからふしぎなものです。

津山から岡山、さらに瀬戸大橋を渡って愛媛に赴きました。
愛媛ではいろんなところを見学したのですが、とりわけ印象深かったのは、喜多郡の内子町にある内子座でした。
内古座は、江戸時代から明治にかけて木蝋や生糸などの産業で栄えていた内子町の有志によって、 大正5年に建造された歌舞伎の劇場です。
木蝋資料館も見学しましたが、そこの解説によると、内子町は江戸時代から木蝋を地場産業として栄えており、 大正天皇の即位を記念して、木蝋によって財力を蓄えた町の衆の出資によって内子座が建てられたとあります。 もともとは歌舞伎を上演する劇場であったようですが、文楽、映画、落語が舞台に載せられることもあり、 町の衆の娯楽の場としてにぎわってきたのでしょう。
戦後は椅子席に改造され、映画館としてお客を集めていたのが、昭和四十年頃には取り壊しの危機もあったようですが、 結局商工会に移管され、町の人びとの願いを受けて残されました。
現在は、内子町の所有に帰し、写真のように一階に枡席、二階にそれを囲むような形で桟敷を並べた古風な作りに復原されています。 舞台に立つこともできます。かなりの広さの舞台で、回り舞台や迫りが切られています。 また、脇の階段から舞台下の奈落も見学することができました。回り舞台や迫りの仕掛けが残っています。 昔の構造そのままなので、まさに人力で舞台を回し、迫りを担いで上げ下ろしをしたということが納得できました。 客席は、六百五十ばかりで、マイクを使わないとなるとこれくらいの規模がもっともやりやすいのかもしれません。

こんな劇場で、劇を上演できたら楽しいだろうなと想像せずにはおれませんでした。
すぐそばに内子高校がありましたが、高校の文化祭で内子座を借りて劇の上演をしたりといったことはあるのでしょうか。

高校の演劇部顧問をしているとき、高校演劇コンクールの予選で県の文化会館で上演したことがありました。 広い舞台、照明、音響のプロとの打ち合わせなど、貴重な経験をさせてもらいました。
本物の舞台で演じることはなによりもの経験になるのです。
木戸口の前に文楽のポスターが貼られています。毎年恒例の公演なのでしょう。
そのポスターを見ているうちに、古色蒼然たるこんな劇場で養護学校の生徒たちと賢治先生の劇が上演できたら どんなにすばらしいだろうと、 つい手前勝手な想像をしてしまいました。
劇場の前に「賢治先生がやってきた」と染め抜いた幟が立っている様を想像しながら、内子座を後にしました。


2010.7.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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