2010年8月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

天野忠の自戒

井上ひさしを動かしてきたもの

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2010.8.1
天野忠の自戒

ホームページ「賢治先生がやってきた」のカウンターが五万アクセスを越えました。
5000のキリ番を引き当てた方に本のプレゼントでもと考えておりましたが、 メニュー画面の書き換えなどで手間取っているうちに、思いがけずはやく カウンターが進んでしまい、気がついたときにはもう五万を超えておりました。 十年半で五万アクセス、よくぞ飽きられないで維持してこられたものだと、あらためておどろいています。 これもひとえにみなさまのおかげだと感謝しております。
脚本を羅列しただけのホームページですが、 これまで訪問者が絶えないということは、それなりの存在価値があるのだろうかと、自らを励まし続けてきました。
本来ならば、五万を超えてさらに先を目差してと言いたいところなのですが、 最近はどうも毎月月末が近づいてくると、少々憂鬱になることが多々あります。 発行日である一日が迫っているにもかかわらず、「うずのしゅげ通信」に何を書くかが決まらないからです。 模索が三十一日まで続くこともあります。幸いなことにまだ発刊を遅らせたことはありません。
現役のころは、毎月何を書こうかと決めるのに悩むほどでした。 テーマが向こうから押しよせてくるといった案配でした。
四半世紀に及ぶ養護学校での教員生活は、考えなければならないことに満ちあふれていました。 生徒との遣り取りはつねに新鮮な驚きに満ちていました。 これは書いておかなければ、といったふしぎがあふれていたからです。
しかし、定年退職してからは、やはり現場から離れたということもあって、 さまざまな出会いの機会が減っています。現実との摩擦によって引き起こされる悩みも 少なくなりました。
その上に、年齢相応(?)に、頭の働きもたしかに鈍ってきているのでしょう。
必然的に、「うずのしゅげ通信」のテーマを見つけるのが難しくなってきたのです。
パソコンに向かって、「困った、困った、コマドリ姉妹」と、愚痴るばかりです。
(関西のお笑いになじみのない方には何のことやらわからないと思います。実は、これ、 吉本新喜劇の島木譲二のギャグなのですが、……ただの独り言と、無視してください。)
そんな悩みのさ中、山田稔「北園町九十三番地 天野忠さんのこと」(編集工房ノア) を読んでいて、つぎのような一節に出会いました。
この本は、京都在住のフランス文学者で作家の山田稔さんが、 近所に住む詩人天野忠さんとの交流を 時代を追ってまとめられたものです。真情あふれる訪問記であるばかりでなく、 天野忠という詩人のすぐれた評伝にもなっています。
その本の後半、天野忠さん、82歳のころのエピソードです。
天野宅を訪問された山田稔さんに、天野さんが、 「詩や文章はもう書けない。」とおっしゃったのです。
「わたしは自分の書いたものを恥じたり後悔したりしたことは一度もない。 あんなことを書かんといたらよかった、あそこはこないに書いたらよかった、と大抵の人は思わはるやろが、 そういったことはわたしには一度もない」と。
その潔さを支えている自負を維持することがむずかしくなってきたために、 「詩や文章はもう書けない」と言われたのでしょうか。

山田さんは、続けて、 同じような老いの逡巡について、随筆集からの引用もされています。(「死後に出版された遺稿随筆集『草のそよぎ』」より)

「作者という者は、たとえば、老令で思うように筆が運ばなくなったら潔く筆を捨てて、 作家たることをやめてしまうことが 出来ないものか、役者が舞台の上で死ぬことを何よりの本望と願うことが、いいことなのか、 愚かしいことなのか、私には 判断がつかない。」

天野忠さんにしてなおこの逡巡、「潔く筆を捨て」ることは、それほどにも難しいということなのでしょうか。 ところが、その先で、つぎの一節に突き当たりました。

「天野さんはまたその日、こうも語った。物書き、とくに名の通った物書きのこわいところは、 老いてから書けなくなることでなく、抑制がきかなくなって、下らない作品をつぎつぎと書くことだ。 老人性冗舌、表現における失禁。書かずにいるというのは、努力の、辛抱のいることなのだ。 老い且つ病んだいま、後に恥じることのない完璧な作品が書けぬのなら、 沈黙を守ろうと天野さんは決心しているように見えた。」

なるほど、つねに発表する場が確保されている天野さんのような人には、 また、このように自らを戒めなければならないしんどさもあるのでしょうか。
しかし、よく考えてみると、現在、発表の場を確保しているのは天野さんのような 「名の通った物書き」だけではありません。 インターネットが、発表の場を、安易に提供してくれているからです。
発表の場が保障されている状況だけを 見れば、天野忠という詩人も、ホームページを開設している私たちもおなじようなものだと言っているわけです。 間違えないでくださいね。私は、天野忠さんというすぐれた詩人をホームページの書き手と同じレベルに 貶めているわけではありませんし、 またインターネットの書き手である私たちを天野忠という有名な詩人になぞらえているのでもありません。 そうではなくて、書くものを何らかの形で発信できるという条件では、その点だけを見れば、同じだと 言っているのです。
それを認めていただけるとすると、上記の天野さんの自戒は、 また私たちホームページを開設しているものの自戒でもあるように思います。 簡単に発信できるからといって、下らない文章や作品をつぎつぎと書くといった 表現の失禁症状に陥らないように戒めなければならない、ということでしょうか。
言われてみれば、なるほどごもっともで、つつしんで自戒いたしますと己に誓うしかありません。
しかし、ここまで書いてきて、ちょっと考え込んでしまいました。表面的には、天野忠の自戒は、 われわれの自戒にも通じるものだというのは正論のように思います。
しかし、天野さんが遺稿随筆集で「役者が舞台の上で死ぬことを何よりの本望と願うことが、いいことなのか、 愚かしいことなのか、私には判断がつかない。」とおっしゃっているように、どちらがいいか、分からないのでは ないか、という気がしないでもないのです。
天野流の自戒からもう一度反転してみたらどうなるのでしょうか。
垂れ流しがなぜ悪い、老人性の冗舌や失禁から生まれてくる作品も、 それはそれでいいのではないかと開き直って見ることもできるのではないでしょうか。 年齢との格闘のあとが鮮やかな作品は、たとえ完成度という点では劣るとしても、 それなりの意味をもって輝いているかもしれないと思うのです。
そもそもインターネットには、玉石混淆、垂れ流し的作品があふれています。 (これは、自分の作品だけを別扱いして言っているわけではありません。念のため。)
いずれはその中で陶太の力が働いて選ばれていく、それがインターネット社会の 摂理というものではないでしょうか。インターネットにおいては、徹底的に民主制がしかれているのです。
だから敢えて自ら発信を抑制していく必要などないではないでしょうか。それこそインターネットの神の見えざる手 にまかせておけばいいのです。
ホームページの存在価値がないということになれば、アクセスはゼロになる。これほど正直な 自然淘汰はないわけです。それまでは書き続ければいいということでしょうか。
そんなふうに観念して割り切ってみると、なぜかエネルギーが湧いてきます。
今回の五万アクセスを励みとしつつ、テーマを考えあぐねては「困った、困った、島倉千代子」と呟きながら、 それでも書き続けてゆこうと、あらためて決意した次第です。
今後ともご愛顧をお願いいたします。


2010.8.1
井上ひさしを動かしてきたもの

これまで、二号連続で井上ひさしさんについて書いてきました。今回もその続きです。
朝日新聞夕刊に、大江健三郎さんが「定義集」を連載しておられます。
先日は、「【如何にして私小説家となりし乎】井上さんが遺した批判」と題する 井上ひさしさんへの追悼文でした。
そこにつぎのようなことが書かれています。
「井上ひさしさんお別れ会」で丸谷才一さんがつぎのような話をされたというのです。
丸谷さんによると、1930年代の文学は、芸術派、私小説、 そしてプロレタリア文学の「三派鼎立(ていりつ)」といった状況があった。 その三派鼎立から「日本文学の現在を照らしだす」とすると、芸術派は村上春樹、私小説は大江、そして「 プロレタリア文学を受け継ぐ最上の文学者は井上に他ならない」という話をされたというのです。

それを読んで、少し前にテレビで観た「組曲虐殺」を思い浮かべました。
井上ひさしさんの最後の脚本は、昭和初期のプロレタリア作家小林多喜二の 作家としての活動から、地下に潜り虐殺に至るまでを舞台化した悲惨な喜歌劇でした。 喜劇的手法をもちいたミュージカル悲劇(?)ででもいうべきものでした。 舞台袖に陣取った小曽根真さんのピアノ演奏もまたすばらしく印象に残っています。

私だけの傾向ではないと思うのですが、たとえばある人が障害者問題に打ち込んでいる姿を目にしたとき、 彼がそれだけ打ち込む動機はどこにあるのだろうと、つい勘ぐってしまうようなところが人間にはありますよね。 情熱を支える動機が、どうしても見えないとき、その活動に畏敬を感じつつも、 どこかに信じきれない思いがこころの底のどこかに潜んでいるような気がすることがあります。 そんなことはないでしょうか。
「井上ひさしが小林多喜二の評伝劇」と聞いたとき、「これって信じていいのだろうか。 これまでの評伝劇とどうちがうのだろうか」と、 ふとそういった疑いが萌すことがあったのも確かなのです。
井上さんの父上はプロレタリア作家というか、作家希望だったそうです。 NHKの追悼番組で教えられたことですが、 小林多喜二の「蟹工船」が載った「戦旗」という雑誌に 父上がガリ版での宣伝ビラの作り方といった記事を書いておられたそうです。
「組曲虐殺」には、ガリ版でビラを刷っている場面があります。現状を分析して、奮起を促すために、 労働者に手渡すビラです。 その場面にはガリ版の説明があり、そこに井上ひさしの父親にたいする共感、親愛の情が、小さいガリ版の 機械を通して、痛いほど 感じ取れます。その説明は、お父さんが執筆された記事を想起させるものだからです。
彼が、九条の会を立ち上げたり、原爆をテーマに劇を書いたりしていたのは、 父親譲りのプロレタリア魂といったものが、 「蟹工船」の載った「戦旗」に父親の文章が掲載されていたという誇りが、父親を幼くして亡くした悲しみが、 それらのすべてが下支えしていたのかもしれません。
そういう意味では、彼は、まさにプロレタリア文学を引き継ぐにふさわしいものだ、という丸谷才一さんの考えは、 私を納得させます。
井上さんの反戦の思いや九条の会の活動の淵源がどこにあるか私にはわからなかったのですが、 いまにしてようやくそれが腑に落ちたような気がしています。
ただ、それが井上ひさしさんが亡くなられた後だということがいかにも残念でなりません。
「父と暮らせば」の公演が奈良であったときも、何を置いても観にいけばよかった。テレビで観たから、 などという逡巡は関係なかったのです。いまさら悔やんでも仕方ありませんが、これからも井上ファンを続けていきたいと 考えています。

追記
ついでに、丸谷才一さんの言われる私小説と純文学の伝統についても触れておきます。
まず、私小説。大江健三郎さんが私小説の伝統を継ぐものであると言うことは、彼の小説を一編でも 読んだものにとっては、誰の目にも明らかです。 彼の小説の多くのものには長男の光さんが登場して、小説世界を下支えしています。光さんが生まれていなかったら、大江健三郎はいなかった。 いまあるような小説作家としての、大江健三郎は存在しなかった、ということはあきらかです。 光さんは、大江さんの小説の中で唯一彼の創作的歪みを受けつけない真正な一点なのです。 養護学校で四半世紀を教師として過ごしてきた私には、それが分かるのです。 そんな力業が出来るのは、「障害者」と言われる人のみだということが。
つぎに、現在の純文学は、村上春樹が引き継いでいるという仮説の当否は、私には判断できません。 私は、村上春樹をほとんど読んでいないからです。


2010.8.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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