2010年9月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

門徒としての生き方

南京占領

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2010.9.1
門徒としての生き方

日ごろ疑問に思っていることを一つ。
私は自分のことを門徒だと考えています。つまり浄土真宗の信者、親鸞の徒、ということです。
しかし、何をもって門徒だというのでしょうか。先祖代々真宗の寺の檀家であるから。 それはそうに違いありません。いま、私が亡くなれば、その寺の住持のお世話になるはずです。 でも、それでいいのでしょうか。そのことだけで、私が浄土真宗の信者であると言えるのでしょうか。 生きている間に、門徒としての生き方を実践して、そのことでもってはじめて門徒であると 胸を張って宣言できる、 そういうことではないでしょうか。
一つの宗教を信じているということは、生き方がその宗旨に従っていること、 生き方のスタイルが宗旨に添っていること、そういう事実を踏まえて言われることなのではないでしょうか。
死に臨んでの行き先を請け合ってもらう、あるいは死後の始末をその宗旨の儀式に従って執り行う、 そういったことだけではないはずです。 私の住んでいる地域(村)は、多くの家がその真宗の寺に籍があります。 つまり、門徒ということで、それが代々受け継がれているのです。
真宗以外では創価学会が十軒ばかり、また天理教、大念仏などが数軒散在しているといった案配です。
小さい村なので、百年前の先祖がどうであったか、ということまで分かっていての付き合いです。 そんな中で、代々の門徒の人を見ていても、他の宗旨の人と目立った違いは何もないのです。 学会員の方はさすがに折伏活動などに熱心でそれなりの生き方をしておられるように見えますし、 また天理教の信者さんもわれわれには見えないところで活動しておられると聞きます。
しかし、門徒の方が特に他の方々と違った生き方をしておられるようにはまったく見えない。 門徒であることの片鱗も、その人の生きざまに影響していないようなのです。 あの人が門徒であることはその振る舞いを見ればわかるとか、 あんなふうにことばをかけてくださったのは真宗の考え方からきているのだろうとか、 これまでの半生を隣人としてお付き合いをしてきたにもかかわらず、 そういった経験は一度たりともなかったのです。
そこで、門徒の生き方などあるのだろうかと、ふとそんな疑問に取り付かれたのです。
いったい浄土真宗の信者に、その宗旨を踏まえた倫理なんていうものがあるのでしょうか。

ほんの半世紀ばかり前、雪崩をうって戦争に向かおうとする日本の風潮に浄土真宗は抗うことができませんでした。 そのことに対する反省が今になって追々なされているようです。
しかし、そもそも真宗的な生き方といったものがないところに、抵抗などありえるのでしょうか。 宗旨に反する風潮が押しよせてきたとき、それに抗うにはやはり踏ん張りどころがいります。 教団は抵抗の足場をどこに踏まえればいいのでしょうか。おそらく、 個々の門徒の生き方、その上に足を乗せて踏ん張るしかないはずです。 これまでの人生を門徒として生き貫いてきた人だけが、 戦争に向かう風潮に抗うことが出来るのではないでしょうか。 門徒スタイルが自然体として盤石であれば、それこそが、不穏な風潮に抗う足場になるはずです。 世の中の風圧に耐える方途はそれしかありません。 だから、門徒としての振る舞いが確立していないところに抵抗などありえないのです。 宗門の方々はその点どのように考えておられるのでしょうか。

蓮如さんの御文(文明六年二月十七日)にはつぎのようにあります。
「抑(そもそも)、当流の他力信心のおもむきをよく聴聞して決定(けつじょう)せしむるひとこれあらば、 その信心のとほりをもて、心底にをさめおきて、他宗他人に対して沙汰すべからず。また、路次大道、われわれの在所 なんどにても、あらはにひとをもはばからず、これを賛嘆(さんだん)すべからず。」

信心を得ても、それを秘めて、他人に言うな、在所でも、誇ったりするな、というのです。

「つぎには守護・地頭方にむきても、われは信心をえたりといひて、疎略の儀なく、いよいよ公事をまたくすべし。また 諸神・諸仏菩薩をも、おろそかにすべからず。これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆゑなり。ことに、 ほかには王法をもておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくはへて、世間の仁義ををもて本(ほん)とすべし。 これすなはち当流にさだむるところのおきてのおもむきなりと、こころうべきものなり。」

支配者に向き合うときも疎略にせず、公のことも完璧にやり、他の神や仏のことも、おろそかにしてはいけない。 表だっては世俗の決まりをまもり、世間の仁義も大切にして、他力の信心は内心にとどめよ、ということでしょうか。
このような生き方が忠実に守られればどうなるのか。門徒は己の信念を秘めたまま、 真宗らしい生き方、門徒スタイルといったものが日常において発揮されるもなかった。 蓮如さんに従えば、それはむしろ当然のことだったのです。

菩提寺の住職に、真宗門徒には生き方のスタイルといったものが欠けているのではないか、 といった不安をぶつけてみたことがあります。
住職は、しばらく考えてから、 自分もそのことには悩んだことがある、と打ち明けられました。 浄土真宗では、門徒としての生き方を強制してはいない。 それぞれの裁量に任されている。言わば自己責任。 しかし、それゆえにかえってしんどい面もある。 お仕着せの生き方があれば、それに従っていればいいのですが、それは自分で考えなければならない。 大人なんですから、自分で門徒としてふさわしい生き方を探っていく。 それが、真宗の倫理と言えば倫理だと考えていますと、 かいつまんで言えば、そういう話をされたのです。
ご住職の言わんとするところは、分かるような気もします。しかし、そういうことなら、 結局どんな生き方をしても許されるということではないのか、と反論したくもなります。 それがいわゆる本願誇りと似たような屁理屈だということは薄々分かっているのですが、 どうしてもそういう思いが萌すのを抑えることができないのです。 きっと自分の中にどこか腑に落ちないところがあるにちがいありません。

宮沢賢治の家も代々浄土真宗で、父政次郎はことに熱心な門徒でした。 そのために、法華経にのめり込んだ賢治と、よく宗論まがいの口論になったそうです。
どういう親子げんかであったのか、何が争われたのか、その詳細についてはわかりませんが、 これまで論じてきたような浄土真宗の倫理の問題が、その親子の論争に 関係しているように思うのです。法華経の菩薩行にのめり込んでいた賢治には、 真宗は、まさに倫理面に脆弱さを抱えた 宗教としてもの足らないものだったのではないでしょうか。
このあたり、まったくかってな推察で、本当のところはわかりません。 父子の争いについて、何か、資料を知っておられる方はご教示いただけたらと思います。

この問題をさらに広い展望をもって考えたくて、末木文美士さんの 「仏教VS.倫理」(ちくま新書)を 読んでみました。
問題は浄土真宗だけではないようで、仏教そのものの問題として、 末木さんは、原始仏教の仏陀にまで遡っておられます。 原始教典に見られる仏陀のことばには、倫理性が強く感じられます。
その指摘を受けて、私も、原始教典を読み直してみました。そこには、仏教徒としての 生き方が詩的なことばでみごとに表現されています。 正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、 正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)の八正道(はっしょうどう)などは、 倫理そのものです。 親鸞や蓮如の著作を読んでいるときとはまた違った安心感に浸ることが出来ます。 しかし、仏陀の教えには、もう一つ「慈悲の原理」があります。この慈悲の原理が大乗仏教に発展して、 六波羅蜜といった菩薩の倫理が打ち出されてきます。布施(ふせ)、持戒(じかい)、 忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)といった徳目です。 しかし、そこには徹底的な精進が求められます。そしてどうなるか、末木さんはつぎのように 指摘しておられます。

「あまりにも重すぎる倫理的な責任は、逆転してそれを他者であるブッダに委ねて、自らはそこから解放 されることになる。浄土真宗の思想家清沢満之は、これを無限責任から無責任への転換として定式化した。」

浄土真宗の場合、「重すぎる倫理的な責任は」ブッダの代わりに阿弥陀仏に委ねて、「自らは そこから解放されることになる」という定式がなりたっているということでしょうか。
阿弥陀仏に無限責任を委託して、門徒は無責任に何をしても救われると高をくくっていればいいということに なってしまうのですね。 だったら、どうするのか。清沢満之さんは、どんなふうに考えておられたのでしょうか。 この本によると、清沢さんは、「世俗の倫理道徳を完全に否定」して、 自らの生き方を如来に委ねるという道を選んだらしいのです。 彼の選択が「当時の国家道徳万能主義に対する痛烈な一打」をなすものであったとしても、それでもって、 われわれが日々どう生きてゆくかという些末な問いかけに答えるものでないことは確かです。
私の実感からすれば、無限責任を委託するという方向からは、何も生まれてこないように思われます。
己が責任において行動すべきか、あるいは阿弥陀仏に頼るべきか、その迷いの狭間に倫理的な ものが隠されているように思います。
だから、親鸞さんの生き方をなぞってみる、親鸞さんの迷いを探っていく、 というのも一つの方法かと思っています。 親鸞さんの信念と迷いの狭間に、門徒が学ぶべき倫理がかいま見えてくるのではないでしょうか。
たとえば、原始仏教のブッダの倫理に従って努力してみる。そして、やはり自力ではとうてい、 思い通りに生きぬくことはムリだと悟ったとき、親鸞さんのように迷い、迷った末に阿弥陀さまにおすがりする。 はじめっから、倫理なんぞ、青臭いことをいうなとはねつけていては、 生き方など吹っ飛んでしまいます。 門徒として迷われている親鸞さんの後ろ姿をけっして見失わないように生きていく。 それしかないような気がしています。
ということで、結論も何もありません。
最後、あまりに粗相になってしまいました。
……で、この稿続く、とさせていただきます。ご寛容のほどを。


2010.9.1
南京占領

「わらわし隊」についてのテレビ番組を観ました。
日中戦争最中の昭和十三年、朝日新聞社が 吉本興業に依頼して組織した演芸慰問団の「わらわし隊」を特集したものです。
戦争という非常事態の最中においてなお、 笑うことによってつかのま人間を取り戻すことができるという事実、 笑いの持つそういう力にまで迫った大変興味深い内容でした。
自分なりにもう少し調べてみようと取り掛かろうとしていたとき、 まるで機をうかがっていたように中公文庫から「戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争」が出たことを知り、さっそく購入しました。
なぜ、そのように興味をもったかというと、 昭和十二、三年当時、徴兵されて支那派遣軍にいた親父が、もしかしたら 「わらわし隊」の公演を見た可能性があるからです。
父から直接、南京占領のしばらく後で、南京に入っていったという話を聞いたことがあります。驚くべきことに、 それからしばらくして、南京で、わらわし隊の公演が開催されており、もしかしたらそのあたりで父の行軍と交叉しているかもしれない、 と、かってな推量をしたからでした。
しかし、そんなに思い通りに行くわけもなく、父のアルバムを調べても、戦場から母に宛てた葉書や手紙を見ても、 それらしい内容に行き当たることはありませんでした。
当時、母は、父の家に身を寄せて、そこから誉田女学校(大阪)に勤めていたようです。当時の母のアルバムも残っています。 そのアルバムを漫然とめくっていると、ふと一枚の写真に目が留まったのです。 その一枚というのが、右の写真です。
なぜこの写真になぜ惹きつけられたかというと、「祝南京占領」と「皇軍武運長久」の文字が目に飛びこんできたからです。 おそらく、この写真が撮られたのは、誉田女学校の玄関前だと思われます。だから「皇軍武運長久」の垂れ幕は、日ごろから ずっと垂らされているものなのでしょう。
それにたいして「祝南京占領」は、幟(のぼり) とでも言うのでしょうか、校長か教頭が持っています。南京占領とありますから、おそらく昭和12年(1937年)の12月13日から 幾日かすぎたころだと思われます。そういえば、冬の服装です。
そこまで見てきて、やっと真ん中の物体に 目がいきました。
「うっ……これは何だ?」
ようく見ると、手作りした張りぼてのカボチャ、ではないでしょうか。それにしても、大きな張りぼてです。 担うための棒が挿し込まれていますから、どうも御輿のようなものじゃないでしょうか。
そこまできて、やっとわかったのです。カボチャではなく、ナンキンなのです。 南京占領を祝って、南京をカボチャに見立てて、「取った、取った、ナンキン取った」と 女学生たちが担ぎ回ったのではないでしょうか。 もしかしたら、そのナンキン御輿、勢い余って街に練りだしたのかもしれません。 そして、先生や生徒たちが日の丸を振りながら後について歩いたのです。 さらにもう一つ、想像をたくましくするなら、学校に戻ってきたとき、生徒たちにねだられて 先生方も御輿を担いだのか、いやいや、当時の先生は権威があったから、そんなことはしかなった でしょうね。
ともかく、そんなふうな行事があって、その打ち上げの写真だったのです。 考えてみると、昭和十二、三年頃は、わらわし隊が戦場に慰問にいったり、 南京をカボチャに擬して担ぎ回ったりといったことがゆるされていたのですね。 日中戦争(支那事変)がはじまったばかりで、まだそれだけの余裕があったということでしょうか。 太平洋戦争がはじまった昭和十六年以降となると、 果たして南京御輿が許されたかどうか。
どちらにしても、庶民は南京御輿を担いで戦勝祝いをしているわけですから、 中国の民衆に思いを致すことなどできなかったはずです。「祝南京占領」の裏で、 多くの民衆が犠牲になっていたわけですから。
それにしても鈍感なことです。以前にもこの写真を見たことがあるはずなのですが、 今日やっとその意味に気がついたのです。
あらためて写真に見入りながら、母はどんな気持で生徒が担ぐ南京御輿を見ていたのだろうと 思いを致してみました。 結婚間もない夫が、支那派遣軍の一員として従事しているかもしれない作戦の結果としての 南京占領、それをどのように受け取ったのか。 残念ながら今の私には色あせた写真の母はあまりに遠いのですが、しかし、 その南京の張りぼてを生徒とともに作り、御輿について歩く母を想像することによって、 ほんの一歩だけですが、母に近づけたように思います。 母は、日の丸を振りながらも、単純に浮き足立っていたわけではないことだけは確かなようです。
ちなみに二列目の左端が、二十四歳の私の母です。

【追伸】
父が南京陥落のころ、その近くにいたという話は直接聞いたことがあります。南京占領からしばらくして、 市街に入ったようです。
そのとき、つぎのような話もしていました。いわゆる南京虐殺についてです。
「しばらくして、南京に入ったが、それらしい痕跡はなかった」というのです。 「だから、オレは、大々的な虐殺があったことは信じられない」と父は、言い添えたのです。
これをここに書き加えることに、少々躊躇がありました。南京虐殺を否定する論に組みしたくはないからです。 しかし、父がそのように言ったのは事実なのです。 たまたま遭遇しなかったのかもしれないし、「しばらく」が、かなり経ってからだったのかもしれません。 しかし、事実としてそんなことをもらしていたことを、一応証言しておきます。


2010.9.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で 上演されています。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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