2010年10月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
青春舞台2010
彼岸花
文庫本「賢治先生がやってきた」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
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2010.10.1
青春舞台2010
高校演劇祭の番組「青春舞台2010」を観ました。
出場したのは四校、中では最優秀賞に輝いた群馬県の前橋南高校『黒塚Sept.』(作:前橋南高等学校演劇部+原澤毅一)
がやはり断然ばらしい出来でした。
ひきこもりがテーマと言えるのでしょうか。最初からそれらしい匂いを匂わせてはいるのですが、
最後になって状況が明らかになるといった展開で、
その抑え方はなかなかみごとなものでした。
もう一作、愛媛県立川之江高等学校の『さよなら小宮くん』も同様のテーマで、現在の学校の悩みがどのあたりにあるかを
如実に示しているようです。
それにしても、この『黒塚Sept.』、最初っから最後まで他の優秀校とは一味違う圧倒的な存在感を発散し続けますが、
それはどこからくるのでしょうか。
演じる生徒たちの演技のこなれ方、とりわけ主人公を演じた生徒の迫真の演技、よく考えられた脚本の力、
少々あざといところもあるのですがストップモーションを挟み込んだ彫りの深い演出、
全てが相まって、この劇の存在感を圧倒的なものにしているような気がします。また劇の細部、部屋のゴミの散らかり方から、
蝉の効果音、窓を照らす夕焼けの照明にいたるまで、まんべんなく神経が行き届いています。
昨年の九月という設定です。本来学校がはじまっている時期なのに、インフルエンザの流行のために学校が休校になっています。
演劇部の連中が主人公の女生徒の家に集まってきます。彼女は、演劇部の副部長なのですが、どこか自堕落な雰囲気を発散しています。
家人が留守なのをいいことに、彼女の部屋で部活の相談をしようというのです。
県の演劇祭が近づく中、
学校での活動が禁止されているため、まだ上演の演目さえ決まっていません。もっともその演劇祭、次第によっては
開催されるかどうかもわからないのですが。
彼女の部屋、窓はカーテンで覆われ、ベッドの上から床までゴミや衣服が散乱しています。家に来る部員から電話がかかってきますが、
その受け答えから彼女の精神的な不安定さが匂います。
最初に同じ学年の女子部員がやってきます。彼女は、折を見て窓のカーテンを開け放ちます。しかし、主人公の女生徒は何とかして、
カーテンを閉じようとします。そんな遣り取りにも、彼女が閉じこもりであることの暗示が隠されています。何度か繰り返される
カーテンの開け閉めもよく計算されていて、いい演出だと感心しました。
さらに演劇部の男子部長が登場、そこにもう一人女子部員がやってきて、それでみんなが揃い、
近づいている演劇祭の演目についての相談がはじまります。
学校がいつ始まるともしれず、多分練習する時間がないということを考慮して、セリフの少ない劇がいいという結論になります。
そこで、顧問の推挙するお能の「黒塚」を翻案した劇に傾いていきます。部長によって「黒塚」の説明もなされて、
最後に主人公が脚本を書くということに落ち着きます。
そして、このあたりから主人公の心理に黒塚の影が射してくるのです。
最初から、ストップモーションを多用して、彼女の不安定な心の断層が浮き上がってくるような
演出が採用されてきたのですが、そこに
油絵の具を重ね塗りするようにして黒塚の異常な雰囲気が醸し出されてくるのです。
彼女の心の葛藤が、
黒塚の鬼婆と重ねられることで、残酷な表現を得ていきます。
一通りの話し合いが終わり、女子部員が部長と一緒に飲み物を買いに出かけます。
しばらくして部長は戻ってくるのですが、彼女は帰ってきません。
残った三人は、だれも彼女がいなくなったことに触れません。触れないままで飲み物を飲み、
話を続けます。そのことで、まるで彼女が黒塚の鬼婆に食われてしまったような
印象がもたらされます。これも秀逸な演出だと思います。
そして、みんなが去った後、彼女の部屋にマンガ本を取りに入ってきた弟が、ののしられた腹いせに、
「学校行けよ」というセリフを彼女にぶつけて出て行きます。そこではじめて、彼女が閉じこもりだったことが明かされます。
ざっとした粗筋の紹介となりましたが、つい昨年起こったインフルエンザの問題をうまく使ったすばらしい脚本
だと思います。演技力、演出もすばらしく、完成度としては四校の中では頭抜けていたように思います。
黒塚の話を、閉じこもりの女生徒の内面を表現する手段として借りてくるというのはおもしろいアイデアだと思います。
しかし、「黒塚」というのは、やはり劇薬。あまりの劇薬であるために、使いこなせていないようです。
また、「黒塚」をこういった形で使うことが適切かどうかという問題も残ります。
「黒塚」の鬼婆は、人間が持つ鬼性、悪というものを表しているのでしょうが、それが即、閉じこもっている女生徒の内面の
表現に重なるとは思えないからです。
このあたりのことはもう少し考えてみる必要があると思いますが、それはそれとして、「黒塚」のストーリーを塗り重ねることで、
この劇の存在感は、厚み、存在感を増したことは確かなようです。
いろいろ書きましたが、最優秀賞は誰がみても当然の結果でした。
追補
愛媛県立川之江高等学校『さよなら小宮くん』は、小宮くんが家の事情で転校してゆくというので送別会をする、
といった話ですが、お笑いの的は射ているのですが、ちょっと深みにかけているように思います。
送別会の会場を、引きこもりをしている友人の家に選んだというオチもあまり効いていなかった。
正統派の高校演劇で、それなりに面白かったのですが、もう一段の掘り下げが必要なように感じました。
島根県立三刀屋高等学校の『オニんぎょ』、青森県立弘前中央高等学校の『あゆみ』の二作は、
おもしろい試みだとは思いますが、比喩的に言えば、仕掛けが何歩か先を一人歩きしていて、生徒が後を追いかけているようで、
感動という面からみると、
やはりもう一つのところがあったように思います。
2010.10.1
彼岸花
彼岸花
今年の猛暑が
彼岸花の開花を遅らせている
お彼岸になっても
わが家の庭に
天界の花は現れない
例年だと
ある朝ふいと
地に挿したマジシャンの杖が変じたように
あざやかにすっくと立っているのだが
今年はそんなけぶりさえない
無聊(ぶりょう)ゆえに
日ごろは待たない花さえ待つようになったのかと自嘲しつつも
彼岸花の咲かないお彼岸は
何かおぼつかない
その彼岸明けの朝方
亡くなった息子の夢を見た
息子が漕ぐ自転車の後ろに乗って
夜店のアイスクリームを食べに行く途中から
ふいに夢がはじまる
−−もう、いいかげんに将来のことを考えたらどうや
と後ろからことばをかける
息子は顔をクシャクシャにして
困ったという表情をした
事故から癒えて再出発、という夢の状況に
ふんわりとのっかっている
後ろに乗っていてどうして息子の顔が見えたのかはわからないが
クシャクシャという表現が、はがされてゆく夢の痕跡として残る
死んでしまっているのに
「将来のことを考えろ」と言われた息子は困ったろうと
目覚めた後、少しおかしい
夢の朝、新聞を取りに出て
いつも彼岸花が咲く前栽の一隅に目をやると
茎が伸びてすでに赤い蕾をつけている
少し遅れたが今年も咲いてくれたか
ついでに横っちょの
金木犀の葉をわけてのぞいてみると
小さい緑の花芽がいくつも枝にこびりついている
咲くのはまだまだ先のことだろうが
ふとあの香りが過ぎったような気がする
−−いつ咲くのかな
と口中、問いかけてみる
亡くなった息子を夢中に諭すのと
金木犀に花時を問うのと
どちらが甲斐あることなの
反句
彼岸花待たれぬ花を待つ無聊
供華(くげ)二輪四周忌すぎて秋思なほ
2010.10.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに何度か小学校や高等養護学校で
上演されています。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
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