2011年6月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

宮沢賢治からの手紙

顕証寺チャリティコンサート

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2011.6.1
宮沢賢治からの手紙

半月くらい前のことです。芍薬の花を見に出たついでに郵便受けを覗いてみるとその手紙が入っていたのです。 航空便用の薄っぺらな封筒に、癖のある字で私の名前が宛名書きされており、見たこともない鉄道の切手が貼ってあります。 切手には「銀河郵便」と印刷されていて、白鳥駅郵便局の消印が捺してあります。 私は胸がどきどきしてきました。もしかして……とあわてて裏返してみると、差出人のところに小さく 「宮澤賢治」とあったのです。 封筒を持つ手に思わず力が入りました。手紙が来るなど思いもよらないことでした。 そもそも手紙の遣り取りができるなど想像もできませんでしたから、 私からは(東日本大震災についての)インタビュー(※1)の礼状も出していなかったのです。 だから、この手紙は、まったくの先制パンチを 食らったようなものでした。 私は急いで居間に戻って、震える鋏で封を切りました。 中には四つ折りされた奇妙な手触りの便箋が五枚入っていて、 万年筆でびっしりと書き込まれた小さい字が所々裏にまで滲んでいます。

「先日、銀河鉄道地球ステーションにお訪ねの節はさっぱりお構いもいたしませず、 いろいろ失礼いたしました。(※2)
せっかくのインタビューでしたが、震災後間もなくで、充分考えが煮詰まっていなくて、 残念なものになってしまいました。大いに反省しております。
それにしましても、千年に一度といわれる津波の被害はたいへんなものですね。あれ以後、 銀河鉄道が地球に接近するたびに、どうしても東日本のあたりに目がいってしまうのですが、 おどろくべきことに、列車の窓から三陸海岸の津波被害がそれとわかるのです。
第一印象は、色彩が失われたことです。 昼なら海岸線が何かくすんだ色に見えます。夜は灯りがほとんどなくて、 日本列島が浸食を受けたようなおびえさえ感じます。
たくさんの人々が亡くなりました。二ヶ月経ったいまも多くの人々がまだ行方不明のままです。
大切な人を亡くすと住む世界がかわったような感じに囚われるものです。すくなくとも私の経験はそんなでした。 これは、あなたにもお分かりいただけることと思います。 妹を亡くしたとき、これまで住んでいた巨大な世界のページがバタンとめくれて、 違う世界に紛れ込んでしまったような気がしました。 「妹のトシがいないこんな世界に自分はいたくない」、そんなふうに私は、半分パニックに陥りながら、 新しい世界を拒もうとしました。 しかし、どうしてももう一度ページを戻すことはできませんでした。 私は違和感に苛まれながら、一月、二月、……いや一年、二年とただ耐えるしかありませんでした。
大切な人を亡くされた多くの人にも似たような思いがあるのではないでしょうか。
今回の震災でいったい何枚のページがめくられたことか、そのことを想像すると心が痛みます。
そして気がかりなのは、その人たちはどんなふうに 海と和解するのだろうか、ということです。内陸育ちの私には分からないのです。 そもそも和解はありえるのか、ないのか、 そのあたり先人の知恵はどうだったのか、一度調べてみたいと思います。

被災地の復旧がなかなか進みませんが、遅れているのは、 原発がまだ不穏な気配をただよわせてうずくまっているからです。
津波と違って、こちらは先人の経験など思いもよらないことだし、 そもそも決して和解できるようなしろものではない。
原発がこの先どうなっていくのか、不透明なままです。電力会社だけが、悪者にされていますが、それで済むものでは ないように思います。
私の成長は、電気の輸入といっしょでした。今の東電、東京電燈有限会社が事業をはじめたのが明治十六年、 最初は火力による発電でした。岩手県に盛岡電気が創業されたのが、私が九歳のときでした。(※3)
それから徐々に電気の利用が広がり、花巻でも電灯、電車、電話などが生活に根を下ろしていきました。 私が発電所を見学して、 その感激を「発電所」という詩に書き上げたのもそのころですが、新しもの好きの私だからということではなく、 電気そのものが、現代では考えられないほど新鮮な輝きを纏っていたのです。 それこそ、電気の時代のはじまりでした。
私は、地球に帰還する度に、銀河鉄道の車窓から、電気時代の変遷をつぶさに眺めてきました。 夜になると電気のひかりが日本列島の海岸線をなぞるのです。
大正時代は、電灯などほんのわずかなものでしたが、昭和にはいると街灯なども増えはじめます。 それでもまだたかが知れています。都市部が少し明るくなりだしたころから、戦争の暗雲が垂れ込め、 戦時中は灯火管制などもあって、また暗さがもどったようでした。しかし、戦争が終わって、 復興がなされていくにつれて日本列島はじょじょに明るくなっていきました。
『グスコーブドリの伝記』にこんな描写があります。
「潮汐(ちょうせき)発電所は、イーハトーブの海岸に沿って、 二百も配置されました。」
イーハトーブにおけるこの状況は、現実にあてはめると昭和の三、四十年頃と一致しているように思います。
イーハトーブの海岸というのは、岩手県の三陸海岸を指しています。
まるで、銀河鉄道から眺めたような描写になっているのがわれながらおかしいですね。
昭和の終わり頃になると それこそ爛熟期にはいったようで深夜になっても灯りが消えることがありませんでした。日本列島は、 不夜城になり、他の地域にもまして、電光によって縁取られていきました。
それにつれて、電気の需要はぐんぐん増えていったにちがいありません。
このころになると、水力発電や火力発電では、電気をまかなえなくなります。 すると私が想定したような潮汐発電所に替わって 「原子力発電所が、イーハトーブの海岸に沿って、何基も配置される」という状況になったのです。 そういう選択をしてしまったのですね。 銀河鉄道の車窓からその風景を眺めながら、私は危惧していました。 すでに、人間の欲望がある一線を超えたことは明瞭でした。 どれだけ超えたかという目安が、原子力の発電量です。 原発の担っている割合が、欲望の過剰分ではないかと思うほどです。 もう一度、電気消費を、昭和の三、四十年代に引き戻したらどうかと私は願います。 なぜなら、そのあたりが、温暖化から言っても持続可能なぎりぎりのレベルだからです。 それでも充分幸福に過ごせるはずなのです。 原発を放棄して、『グスコーブドリの伝記』にあるように自然エネルギーの範囲に収めるべきです。 欲望の指標とも言える電力利用に枷をはめておくのです。くびきをつけないで放っておくと、 際限なく欲望を膨らませていくのが、 人間の悲しい性なのですから。
原発はあまりに人間のコントロールを超えています。放射能という目に見えない悪意を振りまきながら 何万年もかけて崩壊してゆく決して人になつかない怪物、 そんな怪物をなだめすかしなだめすかしして利用できるほど人間の知力も忍耐力も すぐれているとは思えないからです。
先にページがめくれるという私の経験に触れましたが、 被災した人々は、程度の差はあるにしても、 ふと違う世界に迷い込んだような感じに陥るときがあるのではないでしょうか。 しばらくはしっくりこないかもしれませんが、やがて、 その迷い込んだ世界こそが自分の新しい舞台だということになじんできます。
直接は被災しなかったあなたがたもおなじです。今は、そんなふうに意識していないだけで、 すでに新しい世界に移っているのです。すでにページはめくられているのです。
そして、その新しい世界に原発の入り込む余地はないと私は考えるのですが、 あなたはどう思われますか。
長く書いてしまいました。読み返してみるとあまりに悲観的な気がしますが、このまま投函することにします。 ご意見をお聞かせください。
乱筆、ご寛恕をいただきます。
またお目にかかれる日があることを期しております。
梅雨の砌(みぎ)り、あなた様にも折角おからだお大切に願い上げます。」(※4)

便箋を折りたたんで封筒にしまってから、私はその封筒をピアノの上に立てかけた息子の遺影の前に置きました。
なぜそんなことをしたのかはわかりませんが、何か祈りたいような気持になっていたのです。
私が宮沢賢治さんをほんとうに知るようになったのは、息子を亡くしてからです。
長男は、五年前の9月21日、ブラジルで事故にあいました。 宮沢賢治の命日が同じ日だということにすぐに気がつきました。 遺品の中に『銀河鉄道の夜』の文庫本があったからです。
どういう因縁なのでしょうか。ただただふしぎな気がしました。
それにしても、長男はどんなつもりでこの文庫本を持参したのでしょうか。 ブラジルまでの長い旅路、暇にまかせて、父が好きだという賢治作品を一度読んでみようとでも 思ったのか。
たしかに、それまでも私は宮沢賢治に嵌っていました。賢治が先生として登場する脚本を書いて文化祭で上演したり、 その脚本をホームページで公開したりもしていたのですが、 息子のことがあってから、ますます宮沢賢治その人にのめり込むようになりました。
賢治も妹トシを亡くしており、その痛手をいくつかの詩に詠んでいます。私はそれらの詩に救われたのです。 また、『銀河鉄道の夜』もまた、私の喪失感をいくぶん浄化してくれたようにも思います。
そんなふうに深まってきた賢治との心の交流が、今回の震災を機に、インタビューとして結実し、また、 この手紙をいただくまでになったのです。ありがたいことで、賢治さんには重ね重ね感謝するしかありません。
私自身が震災後を生きてゆく参考にしたいと思います。

※1 「うずのしゅげ通信」4月1日号にインタビュー記事を掲載しています。
※2 母木光あての手紙(昭和七年六月十九日付け)の書き出しに倣う。
※3 原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」(東京書籍)の「電気」の項を参照させていただきました。
※4 堀内正己あて手紙(昭和五年八月二十五日付け)の最後に倣う。


2011.6.1
顕証寺チャリティコンサート

先日(五月二十三日)、近くの顕証寺(大ケ塚御坊)で開催されたチャリティコンサート(「大切なあなただから」) に参加させていただきました。
近隣のお寺の若手ご住職方が企画されたそうで、東日本大震災犠牲者追悼法要と 被災地復興支援チャリティコンサートを 合体した催しです。たいへんな盛況で、本堂はほとんど人で埋まっていました。(三百五十名位)
まず、はじめに震災犠牲者の追悼法要として阿弥陀経の勤行が行われました。
そのあと二部だてのコンサート。
第1部は、大阪芸大で教えておられる待永望さんと、学生である清水春那さん、田村尚子さん、久斗理恵さんによるフルート演奏。
第2部は、奈良県からこられたシンガーソングライターで僧侶のやなせななさんによるライブ&トーク。

この地域の浄土真宗(本願寺派)のお寺さんが一致協力してこんな催しをすることは、 これまであまりなかったのではないでしょうか。(知らないだけ?)
遠方からではありますが、追悼法要を行うことの意味は大きいと思われます。福島県では、 避難区域で、行方不明者の捜索、あるいは亡くなった方達の法要もできない地域があるかに聞いています。
また、身元不明のまま葬られた方もあるからです。
顕証寺ご住職の読経に手を合わせながら、かなり以前、新聞で読んだ、ある文章を思い出していました。 朝日新聞に掲載された「法然と親鸞の今、時代を生きる」と題されたシリーズで、 筆者はたしか歴史家の平雅行さん。
親鸞上人は、歎異抄で聖道(しょうどう)の慈悲と浄土の慈悲ということを言っておられます。 むずかしいことはわかりませんが、聖道の慈悲というのは、自力で他の人を助けようという心、 今風にいえば、ボランティアの心情はこれに近いのではないでしょうか。 それにたいして、浄土の慈悲というのは、まず浄土に往生して仏となって 還ってきて人々を助けようという心、これはわかりにくいですが、親鸞上人はもちろんこちらを勧めておられます。 こんなふうに自力の慈悲心に否定的な親鸞さんが、 未曾有の大飢饉に際して、 悩み抜いたあげく、「まはさてあらん」(今は、そうしよう)と思い定めて苦しむ民衆のために念仏を 唱えたというのです。ボランティアで念仏をはじめたわけです。
「まはさてあらん」
親鸞さんの心のゆらぎと決意が感じられるあざやかな言葉です。一度聞くと忘れられません。
このコンサートを企画された近隣のお寺さんたち(その中にはわが菩提寺である善秀寺のご住職もおられます) もまた、「まはさてあらん」と思いを定め、この追悼法要に踏ん切られたのでしょうか。 そして、お堂いっぱいに参集された方々もまた、その法要に心を添わせられたのでしょう。
コンサートの部も楽しませていただきました。フルートの響きはお寺にけっこう似合っているように感じたし、 やなせななさんの歌声はすばらしいものでした。真宗の歌も、やなせさんが歌われると、ちょっと違う歌のように 聞こえました。コンサートが終了した後、被災地にタオルを送るというので、「まけないぞ」タオルを買いました。 寸足らずに作ってあって、 頭に「巻けない」と震災に「負けない」を掛けてあるのだそうです。
濡れ縁にまで、冷たい雨が降りかかるような天候でしたが、たいへん楽しく、また有意義な催しでした。

【追伸1】
詩二篇

千年津波

千年の津波が来た。
海に暮らしていたたくさんの人たちがのみこまれた。
千年の津波ともなれば、
こんなふうに手もなくたくさんの命が奪われてしまうのか。

命を奪ったのは津波なのか、
それとも千年なのか、
私にはわからない。

ただ気がかりなのは、
身内を喪った人たちが、
どんなふうに海と和解するのか、ということ。

やはり人が歩み寄るのか、
どのようにして?
千年杉に仲介でも頼むのだろうか、
でもなあ、和解といっても簡単じゃないよ、
優に百年はかかるかもしれない。


津波てんでんこ

てんでんこが跳びだした。
3.11の大津波で、
てんでんこが跳びだした。

逃げるのはてんでんこ。
死ぬのもてんでんこ、
悲しみもてんでんこ?
でも、避難所ではてんでんこが守られているの?

【追伸2】
俳句
5月「古墳群」句会での拙句。
兼題は、豆飯、マロニエ、新茶、麦の秋、五月

豆の飯仄かにお香(こう)移りたる

紙器に汲む茶補の新茶の旨さかな

今の世に弔われぬ死者 栃の花

地震(なゐ)遙か芒(のぎ)そばだつる麦の秋

防護服にゴーグル曇る五月かな

(注 「マロニエ」は「栃の花」。東北に多いらしい。芒(のぎ)は麦の針)

で句会の結果。新茶、栃の花の句は、一、二採ってもらえましたが、 震災を詠んだ麦の秋、五月の句等、話題にものぼらず。
豆の飯の句は、仏壇に供えておいたために仄かにお香(こう)の香(か)がするということなのですが、 分かりにくいという評。
いつもより打率が低かった。トータルでは平均打率の半分くらいでした。 もっと精進しないといけないと、反省しきり。



2011.6.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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