2011年7月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

ふしぎな絆

江川紹子『勇気ってなんだろう?』

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2011.7.1
ふしぎな絆

先日(2011.5.27)、朝日新聞の「ナカニシ先生の万葉こども塾」という欄で、 奈良県立万葉文化館館長である中西進 さんが、つぎの歌を取りあげておられました。

一世(ひとよ)には 二遍(ふたたび)見えぬ 父母(ちちはは)を
置きてや長く 吾(あ)が別れなむ


巻五の八九一番、山上憶良の歌です。
歌の意味は、中西進さんによると、
「この世ではもう二度とあえない父母。 その父母を残して、わたしは死の国へと、旅立っていくのだろうか」
ということです。
そして、つぎのような解釈を添えられています。

「当時、十八歳の肥後の国(いまの熊本県)の青年が、朝廷の用で上京の途中、 安芸の国(いまの広島県)で病没してしまいました。
そのことを知った作者が、青年の立場で死に臨んだ気持ちを歌いました。 青年はこの時、何がもっとも悲しかっただろうか、作者が想像したそれは、 両親と別れて、死の国に旅立つ悲しみでした。 なぜでしょう。作者はどうやら親子の深い因縁を考えているようです。 青年は、自分の死が自分以上に両親を嘆かせるとも思ったでしょう。 作者はその気持ちを、別の歌で述べています。
生涯でたった一度結ばれた親と子の関係、いま死ねばそれはなくなります。 単純に、もうあえないから悲しいというのではありません。 両親と子との関係が、かけがえのない、ふしぎな絆だということは、 いま忘れがちではないでしょうか。」

この解釈、私は自分に引きつけて読み、心を打たれました。
親子の絆というのは、言われてみるとなるほどふしぎなものですね。
親としてはついついはじめから自分たちの子どもといったふうに所有格で捉えがちですが、 それは実相ではない。 まず子どもを一つの人格(たましい)をもった存在(?)であると認めるところからはじめないといけないようです。 その人格が、縁あって、親である自分の元に生まれてきてくれた。 そこで二つのたましいが出会い、生涯にわたって親と子という絆を結び合ったと、 そんなふうに考えるべきなのでしょうか。 そう考えると、親と子どもは対等のたましいとたましいの関係ということになります。 子どもに死なれるということは、その絆を失うことなのですね。失った絆はもう二度とこの世では結ぶことができない。 どれほどつらくても、これが現実だと認めざるをえません。生というものの実相というのでしょうか。
死後どこかで再会できる可能性はあるとしても、その絆を結び直すことは絶対ありえないのです。 そう考えると切なくなってきます。 厳しくともそれが真実、そんなことは頭の片隅で分かりつつ、 一方でこんな自分と親子の絆をむすんでくれたことを感謝しなければ、という思いもあります。

『歎異抄』で、親鸞上人がつぎのような信念を吐露しておられます。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。 そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、 いづれもいづれもこの順次生に仏となりてたすけさふらうべきなり。」

解釈はこうです。
「父母の孝養のために念仏したことは一度だってない。なぜなら、生きとし生きるものは、 世々生々に父母兄弟になることもあるから、つぎの世に仏になって助けてあげたいのである。」 (増谷文雄『歎異抄』参照)

この一節、ずっとこころに引っかかっていて、憶良の歌に触発されて、また浮かび上がってきたのです。
「父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。」という前半は、 一旦脇に置いて、後半を親鸞上人の論理に沿って考えてみます。
憶良が代わって詠んだ吾(あ)と父母は今生では親子の絆で結ばれていたのですが、 それは言わば仮、死によってその絆が断ち切られれば、続く世々生々には、 どんな絆で結ばれていくかわからない。だから、父母としてはつぎの世に仏になって 助けるというのが本来のあり方、ということになります。
たしかにこれが仏教的な実相かもしれない、という気がします。
それを踏まえて、前半。
親鸞上人は「父母の孝養のために念仏」されなかった。だからといって、子を供養しなくてもいいと、 親鸞上人は決してそんなふうにはおっしゃらないだろうと思います。 言葉どおりにあてはめればそうなりますが、そうせよということではない。 なぜなら親鸞上人は、自分は「一返にても念仏まふしたることいまださふらはず」と告白しておられるだけだからです。 決して、人にそうしなさいと強制しておられるわけではありません。 『歎異抄』のこの一節は、絆というものの実相はこうなのだということを分からせるために、自分を例に 反語的な表現を採られていると、そんなふうに考えたほうがいいのではないでしょうか。

今回の東日本大震災では、たくさんの絆が失われました。親子の絆、兄弟の絆、夫婦の絆、家族、友人の絆…… 何に縋ってその喪失感に耐えていけばいいのか、 わからないまま、ただ虚ろな日々がすぎてゆくにまかせている。まだまだそんな渦中におられるように思います。
朝日新聞の震災についての往復書簡という企画で、佐伯一麦さんが古井由吉さん宛てに認められた手紙に つぎのような一節があり、胸に響きました。
「大きな喪失感は生涯、あるいは何代にもわたって抱え込むしかない」と。
多くの絆が突然断たれた喪失感、そんなに簡単に忘れ去るわけにはいきません。 苦しいけれど、これが真実かもしれませんね。

と、ここまで書いてきて、中西進さんの解釈にある親の嘆きを詠んだ別の歌というのが気になります。 探してみると、万葉集巻五の八八九番の歌のようです。

家に在りて母がとり見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも

歌意は、中西進『万葉集』(講談社文庫)によれば、
「家にいて母がみとってくれるのなら慰められる気持もあろうのに。たとえ死んだとしても。」
とあります。
母親の身になると、何とも哀切極まりないものです。

あらためて万葉集のすごさに感嘆しています。これらの歌は、千数百年を隔ててなお 生き生きとした表現で、読むものを慰めてくれます。


2011.7.1
江川紹子『勇気ってなんだろう?』

江川紹子『勇気ってなんだろう?』(岩波ジュニア新書)を読みました。
おそらく高校生を対象に、6人の生きざまを取りあげて、 その人にとっての勇気というものがどのようなものだったのかを 考えさせる内容になっています。
取りあげられているのは、登山家の野口健さん、元衆議院議員の山本譲司さん、 拉致被害者家族会の蓮池透さん、 元警察官の仙波敏郎さん、イラク支援の高遠菜穂子さん、 そしてイスラエルの徴兵拒否をした若者たちとその支援者。
大半は名前を聞いただけで、どのような生き方が、勇気との絡みで問題になっているかが推察されるのですが、 私の場合、仙波敏郎さんについては知りませんでした。警察の裏金問題を内部告発した方のようです。

これから社会に出て行く高校生は、六人の生き方をどのように自分の身に引きつけて読むのでしょうか。
すでに退職している私としては、読めば読むほど慚愧の思いが募ってくるばかりです。

とくに印象深かったのは、山本譲司さんでした。山本さんは、衆議院議員のとき、秘書の名義借り問題で逮捕され、 懲役一年六ヶ月の判決を受けました。彼は判決を受け入れて、刑務所に入ります。
刑務所で「命じられた作業は、高齢者や高齢や障害などのために生活に手助けが必要な受刑者の世話でした。」
知的な障害者とも出会います。再犯率の高さにも驚かされます。
山本さんは出所してから、刑務所で知った社会の矛盾をさらに詳しく調べ、 それを糧にして自分の生き方を切り開いていきます。
私は、高等養護学校(現在の高等支援学校)に勤めていましたから、 山本さんの知的障害者を支援する取り組みにはたいへん心を打たれました。

仙波敏郎さんの話も身に染みました。警察の裏金作りに協力しなかったためにいじめを受けます。 それも「まったく、大の大人がここまでするか、というようないじめ」でした。
そんな中で仙波さんを支えたのが、一人のジャーナリストでした。 彼は同じ高校の同窓生で、つぎのように仙波さんにアドバイスします。
「やったら最後、死ぬまで世間の注目を浴び続けるよ。そうなるとうつむいて歩くこともできない。 うつむいていれば、敵を喜ばせるだけだし、世間は「だから、やめておけばよかったんだ」と言うだろう。 やるからには、どんなに辛くても、顔を上げて歩くしかないぞ」
この「アドバイスを仙波さんは心に刻ん」で、信念を貫かれます。

私が自分の職業生活を振り返って、あのときもっと勇気があったら、違った展開をしていたのではないか、 と悔やむことがいくつかあります。自分に勇気がなかったというのが一歩を踏み出せなかった原因ですが、 勇気を萎えさせるような雰囲気を感じ取ってもいたのです。

高遠菜穂子さんが自己責任論でバッシングをうけていたとき、アメリカの国務長官のコリン・パウエル氏が つぎのように言ったと報じられました。
「危険な地域に行く人たちが負っているリスクというものを理解すべきです。もし、そういうリスクを負って くれる人が誰もいなかったら、世界はよくなりません。私は今回、日本の民間人が、あえてリスクを負って 大事な使命を果たそうとしたことにことに感銘をうけました。」

異質なものへの寛容な評価、それが勇気を誘引する一つの要素のような気がします。

私は、大学に入ったとき、教養課程の英語で、E.M.フォースターの「寛容」(Tolerance)、 「私の信条」(What I Blieve) といった文章を読まされ、たいへん心を揺さぶられました。
E.M.フォースターはイギリス人ですが、第二次大戦が終息を迎えようとしていたころ、 ドイツの戦後復興を想像して、つぎのように書いています。
「私は講話条約の締結後にこれまで敵として戦ってきたドイツ人に会ったらどうしようということを、 いつも考えてきました。愛そうとしても無理です。とてもそんな気にはなれないでしょうから。(中略) しかし、寛大に許すように努力しようと思います。それが常識というもので、戦後の世界ではドイツ人とも 共存していかねくてはならないのですから。」(小野寺健編訳「フォースター評論集」(岩波文庫))
「寛容の精神は、街頭でも会社でも工場でも必要ですし、階級間、人種間、国家間では、とくに必要です。 冴えない美徳ではあります。しかし、これには創造力がぜったいに必要なのです。たえず、他人の立場に 立ってみなければならないのですから、それは精神にとって好ましい訓練になります。」 (同上)

勇気をもった大人になるためには何が必要なのでしょうか。自分なりのしっかりした意見を主張してゆける ような個性をはぐくむことが、まず大切なのは言うまでもありません。それともう一つ、 そういった勇気を鼓舞する環境というのもそれに劣らず大切なのではないでしょうか。 勇気を萎縮させることのない社会の条件として、フォースターの言う寛容の精神が、 パウエルの言う異質なものへの評価が、みんなに共有されているということが 重要な要素であると思うのです。
いま、巷にあふれる非寛容な言葉。少し目立ったことをすれば私生活までも暴こうとするマスコミ。…… これでは、若者に勇気を持って生きていくようにと励ますこともできません。 社会ぜんたいにもう少し寛容なゆとりといったものが出てくれば、違ってくると思いのですが……。


2011.7.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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