2011年8月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

津波の礎

正津勉「脱力の人」

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2011.8.1
津波の礎

津波の礎(いしじ)

(以下の断章、一つのアイロニーとして読んでいただきたいのです。詩の形式を採ったのもそのためです。)

寺田寅彦「津浪と人間」と題したエッ セーがあります。昭和八年三月三日、東北を襲った大津波 に際して書かれたもののようです。
そこで、長い年月を隔ててとは言え津波被害が繰り返されるワケを、つぎの一節にまとめています。

「二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メート
ルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変で
も地異でもなくなるであろう。」

つまり、津波の怖さが新鮮なうちに、待つほどの心構え
で臨むならば、津波といえどもはや天変地異と怖れる
ほどのことはないというのです。
しかし現実には、津波は、何十年、あるいは何百年も来
なくて、忘れた頃に不意を襲います。そのときのために
心構えを伝えるのは、なかなかに難しいことです。

「災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかとい
う説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやす
い処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われ
る度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山
蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。(中略)そう
してその碑石が八重葎(やえむぐら)に埋もれた頃に、
時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。」

これが現実ではないでしょうか。記念碑が劣化するとと
もに、津波の怖さが風化し、経験が色あせててゆきます。
それにともなって災害記念碑までもが粗末に扱われるよ
うになります。石碑に刻まれた大切な警告が舐められて
しまうのです。

では、世代をまたいで長く威嚇を保つにはどうすればい
いのでしょうか?

石碑はしょせん石碑、
数十年、数百年とたつうちに、風雨にさらされ、
刻み込まれた津波の事跡がすり減らされてゆきます。
時の経過にたえるものなんてないのさ、と諦めてしまっては後裔は救えません。
ではどうすれば、津波の事跡を、鮮度をたもったまま世代を越えて伝えることが出来るのか。
そこは策略を練らなくては。
記念碑は、風雨にすり減らない素材で、……
そう、時とともに劣化しなくて、……ほとんど半永久的に劣化しなくて、
粗末に扱うと噛みついてくるようなもの……。
そんなものがあるのか?って、
ある、あります。素材にはなりにくいけれど、一つだけ、うってつけなのが……。
そう……、放射性廃棄物。
これは粗略にはあつかえない。
なめるとたちまち牙をむいて威嚇してきます。
それに、寿命は半永久的だ。
うまいぐあいにといっては叱られそうですが、この放射性廃棄物というやつ、
今回の原発の事故で掃いて捨てるほどある。
いや、掃いて捨てられないから困っている。
これからもまだまだいっぱい出てきそうだ。
地面を削り取った土、被曝した瓦礫、塵の焼却灰、……。

放射性廃棄物が秘めもつこの牙を利用しない法はない。

海が見下ろせる小高い丘に、まずは放射性廃棄物貯蔵施設を建造することからはじめます。
地下深くに分厚いコンクリートで囲った巨大建造物を造って、
大量の放射性廃棄物をそこに収めて密封します。
これらは高い放射能を帯びていますから、
いつまでも危険なものです。油断するとたちまち牙をむきます。
だから、コンクリートの壁が劣化してひび割れができていないかとか、
地下水に浸食されていないかとか、
細心の管理がなされなければなりません。
それはそれはたいへんな気苦労なのですが、それだけに、この放射能の牙、利用価値があるのです。

廃棄物の貯蔵施設を中心に公園を作ります。
地上に出た施設の壁は、震災、津波の記念碑となり、
そこには世代を越えたメッセージが刻まれます。
未来の海を汚した原発事故の謝罪も書き添えます。
そのまわりを遠巻きにして、津波の礎(いしじ)が並びます。
東日本大震災で亡くなられた方々の名前が、その礎に刻まれます。
イメージは、そう、沖縄の平和の礎のようなものです

そんな放射性廃棄物の貯蔵施設と慰霊碑をいっしょにするなんてとんでもないこったと、
猛烈な反対運動がおこるかもしれません。
反対の心情、理解できないこともありませんが、 この際、災害のメッセージを十年、百年、千年と伝えようと本気で願うのなら、
それくらいの度量が求められるのではないでしょうか。

おらが在所に放射性廃棄物を運び込まれるのは困る、というのであれば、 福島第一原子力発電所の敷地に造るっていう案もあります。
もちろん事故処理が終息した後です。
そこには、さらに高濃度の放射性廃棄物があふれているはずだからです。
福島県民の了解が得られればの話ですが……。
ヒロシマがそうであったように、
フクシマは、そこから出発するしかないという決断。

津波の礎には、地区ごとに被災者の名前が刻まれます。

また、礎の近くには後日原発事故記念館が建てられ、
廃炉になって徐染された格納容器が展示されます。
そこで世界からの観光客に、我々の文明が犯した悲惨な事故に対する啓発がなされます。

3月11日には遺族の方々が津波の礎にお参りをされるでしょう。
そこで祈りを捧げて、津波の経験を伝承します。
公園一帯は、まわりにくらべて少しは放射線が高いかもしれませんが、 一年に数日くらいなら許容範囲といえます。

各地からの修学旅行生もひっきりなしに訪れるでしょう。
津波から命を守る術を学ぶとともに、
原発ついての実物教育もなされます。
日本各地や世界からの観光客も詰めかけるかも知れません。
ヒロシマの平和記念館とフクシマの原発事故記念館を連ねる縦断ツアー。
…………………………

いつまでも津波の礎に追悼の灯が消えることはないでしょう。
その間、貯蔵された廃棄物の放射能は半減期に沿って減ってゆきますが、
幼くして親を亡くした子どもの悲しみに半減期はありません。
子どもを喪った親にもまた悲しみの半減期はありません。
妻や夫、友人など親しい人の喪失にそもそも悲しみの半減期などないのです。
悲しみが半減することはないとしても、
悲しみが悲しい懐かしさに変わるということはありそうです。
あるいは、懐かしい悲しさに……、
それが、せめて悲しみが癒えるということであれと、
そんなふうに礎の前で、私は祈りたいと願うのですが………………。


2011.8.1
正津勉「脱力の人」



定年退職した身としては、もう少し肩の力を抜いた生き方をしたい、と思うのです。 しかし、力を抜いてしまうわけにはいかない事情もあったのです。 力を抜いてしまうと、自分自身が保てなくなってしまう、そんなことがあって、 爾来、惰性で、退職してからも、何だか力んだような生き方を続けてきたのです。
そろそろ本気で脱力した生き方を身につけるときかもしれないと考えていたところ、 偶然「脱力の人」という本に出会ったのです。
かなり前に出版された本です。著者は正津勉(しょうづ べん)さん。詩人です。正津勉という名前は知っていました。 実際に読んだ記憶はないのでほとんど思いこみですが、 彼の詩はあまりに難解なので自分とは無関係と考えていたのです。
ところが、書棚の本を抜き出して拾い読みしていたとき、新聞の切り抜きが出てきたのです。 それが、「脱力の人」の書評でした。当時、なぜ買わなかったのか、ふしぎなくらいです。 やはり、正津勉は難しいと思いこんでいたのでしょうか。脱力というのが、どのような生き方を指すのか 興味を惹かれて、さっそく購入しました。読みだしてみると、これが予想どおり面白いのです。
正津勉さんが脱力の人として取りあげているのは天野忠、和田久太郎、尾形亀之助、淵上毛銭、 鈴木しず子、辻まこと、つげ義春の面々です。 (名前をご存じでないかたは、調べてみてください。知って損のないツワモノたちです。)
では、正津勉さんがいう脱力の人というのは、どのような生き方をした人なのでしょうか。 取りあげられている面々に共通しているのは、どこか生き方のタガがはずれているということのようです。 生きる構えを脱力してしまっている、ということになるのでしょうか。 そして、ほとんど皆がその生き方のどん詰まりで、それらしい脱力した作品を吐き出しているのです。 それは詩であったり、 断章であったり、あるいは、俳句であったりします。天野忠と、尾形亀之助、辻まことは詩のウェイトが大きく、 和田久太郎、淵上毛銭、鈴木しず子は俳句に異彩を放っています。
そこで、あらためて俳句のことを考えてみたのです。自分もわずか2年半ばかりですが、 下手なりに俳句を作ってきたからです。
俳句は、小さい器ながら、脱力の人のどん詰まりの心境を受け止めるという、 代えがたい働きをしてきたのではないでしょうか。 短いためにあれこれ考える面倒くささもなく、一気に心境を吐露できるというのは、 生活のタガがはずれたまま、最後の最後まで追い込まれた生活者にはたいへん重宝なものです。 また日本の伝統に添って言うと、己のこの血を吐くような苦しさをたしかに受け止めてくれるだろうという、 俳句に対するとても深い信頼感があるのかもしれません。 種田山頭火や尾崎放哉も脱力の人と考えれば、彼らが死ぬまで心底信頼したのも自由律の俳句でした。
唐木順三「無用者の系譜」という著作があります。 正津勉のいう脱力の人もまた、唐木のいう無用者の系譜に連なるもの ではないかと、私は睨んでいます。もちろん唐木の場合、俎上にのせるのは日本文化を形作った巨人たちであり、 正津の場合と風景はかなり異なっていますが。
「無用者の系譜」に、芭蕉について次の一節があります。

(芭蕉は)「己が実社会における無能無芸のほどを告白し、『此一筋』として俳諧の道を選びとったとき、…… 狂句の世界は、さびの世界として独立した。」

つまり、芭蕉の俳諧への出立には、「己の実社会における無能無芸」、 つまりは無用者の認識が踏まえられていて、 そこから「さびの世界」、つまりは「虚の世界」に自由を見いだしてゆくということがあり、 脱力の人が俳句を選ぶのもまた、こういったひそみに倣(なら)ってのことなのかもしれません。
脱力の人の俳句を読んでいると、あらためて俳句というもののもつ力、 一句で人生を逆転するような、一句にその生きざまを救いとるような俳句の力、 というか俳句の効用を見せつけられるような気がします。 脱力の人は人生のどん詰まりにおいて、どうして俳句を支えとするのでしょうか。 俳句に対する信頼がどこから湧いてくるのでしょうか。 「無用者の系譜」とともに、一度ゆっくり考えてみなければと思います。
その上で、私もせっかく俳句をはじめたのですから、俳句をとことん信頼して、 「最後には俳句さん、頼んまっせ!」と身を任せ、 人生のタガをはずして脱力の人になってやろうと、ひそかに思っているのです……。

追伸

山滴る無粋なるもの降りやまず

先月の古墳群句会に出した拙句です。
句の意味は、
「(福島の)山は緑滴るばかりなのに、無粋なるもの(放射性の物質)が降り止まない」 ということです。放射性の物質を無粋なものと表現してみたのです。放射性物質、 これほどに無粋なものはないのではないでしょうか。
誰にも採られなかったのは残念でした。やはり抽象的な句だからでしょうか。
どうも東日本大震災からなかなか離れられないようです。そのため頭で練り上げた句が多くなってしまいます。 俳句は、やはりその短さからして写生句につきるということはわかっているのですが。
何人かに採っていただいたのは、席題「合歓の花」の句、

石仏の目線に淡き合歓の花

でした。

ついでに、最近の二句。拙いものばかりですが。

息の緒を蝉鳴き継ぐや霧の雨

台風6号、近畿に上陸はしなかったのですが、あちこちで大量の雨を降らせて去っていきました。 翌日も台風一過とはいかず、霧雨が降っている中を散歩したのですが、そのときに作ったものです。

二、三日後、散歩途中、古墳公園の桜の下で落とし文を発見して、さっそく一句。

落とし文脱原発に身を投ず

落とし文が原発など好むはずはないから、丸めた葉っぱがころがっているのを、 脱原発に身を投じたと詠じたのです。 いささか落とし文の心を代弁したものと言えるでしょうか。
もし、自然界を巻き込んで、原発の賛否を問う投票を実施すれば、落とし文は、 きっと脱原発に一票を投じるだろうという確信があります。

こんな句を詠んでいては脱力にはほど遠いですね。何が足らないのでしょうか?
こんなに遠くまでお付き合いいただき、感謝感謝です。


2011.8.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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