2011年11月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

高木仁三郎「宮澤賢治をめぐる冒険」

越前から近江へ

文庫本「賢治先生がやってきた」

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2011.11.1
高木仁三郎「宮澤賢治をめぐる冒険」

高木仁三郎さんの『宮澤賢治をめぐる冒険』を、ひさしぶりに読み返してみました。 十年くらい前に読んだ記憶があります。
私にとって高木仁三郎といえば、科学者としての一つのありようを身をもって示していおられる 科学者であり、反原発の知識を教えてもらえる原子力情報室長であり、 科学的知識だけではなく文学的な素養も兼ね備えた信頼するに足る市民でもあったのです。
そんな高木仁三郎さんが、私の傾倒する宮澤賢治について本を出版されるというのですから、 買わずにはおけません。出版を待ちかねるように買い求め、夢中で読みました。十数年も昔のことです。 あちこちに線引きされていますから、それなりに得るところがあったのだと思います。 ただ、今になってみると、あまりどこがどうという記憶がありません。むしろ内容があまりに私に合っていたので、 吸収される端から自分の身について しまったがために、本に書かれていたという痕跡までもが消えてしまったのかも知れません。
それから、十数年、本棚に埋もれたまま手にすることはありませんでした。
二年くらい前から本の整理に取りかかりました。退職したら本を片づけるというのが、妻との約束でした。 割り当てられた空間からあふれて、生活空間までも圧迫しはじめたからです。 退職して必要なくなった本もたくさんあります。とりあえずそのあたりから手を着けることにしました。 これまで本の収集は、人ごとに集めてきたようなところがあります。それらを捨てるのはなかなかに 辛い作業でした。残したのは、宮澤賢治、多田富雄など幾人かの著者のみとなりました。 高木仁三郎の本も処分することにしました。原発の知識が必要になることは あるまいというのが理由でした。『宮澤賢治をめぐる冒険』のみを、 宮澤賢治の関連本として残すことにしたのです。
しかし、今になってみるとはやまったのです。高木さんの本の読者でありながら、 原発事故が現実のものになることを夢想だにできなかったというのは何とも 情けない話だというしかありません。
そこに今回の東日本大震災。
まず私の頭を頭を過ぎったのは、賢治ならどう考えるだろうかということでした。 一度浮かぶとその問いかけ、脳裏から離れてくれません。 それなら、いっそインタビューをやってみたらどうかという思いつきから、 「うずのしゅげ通信」に仮想のインタビュー記事を掲載してしまいました。
震災から七ヶ月、天上の賢治は、フクシマを憂えながら、銀河鉄道のプラットホームを「オロオロ歩キ」 まわっているかもしれませんが、原発はなかなか終息しそうにありません。
高木仁三郎の本をもう一度読んでみる必要があるかもしれないと考えるようになったのです。 しかし、原発関係の本はすべて処分してしまっています。 悔やんでもいまさらどうしようもありません。 ただ、『宮澤賢治をめぐる冒険』、これを残したのは正解でした。 高木仁三郎さんを通して宮澤賢治に問いかけることができるかもしれない、 という考えが浮かんだからです。
私は、賢治関連の書棚からその本を探しだしてきて読んでみました。
『宮澤賢治をめぐる冒険』は三つの講演からなっています。
まず、第一話は「賢治をめぐる水の世界」。賢治童話にあらわれる水、いのちそのものともいえる 水についての考察で、高木仁三郎の文学的感性がどれほどのものかが如実に感じ取れる すばらしい講演です。
第二話は「科学者としての賢治」。
高木さんが、科学者としてのおのれの生き方を探って行く中で出会った科学者賢治についての講演。
そして、第三話は「雨ニモマケズ」と私。実験科学者賢治という観点から「雨ニモマケズ」を読む試みです。

今回は、第二話を中心に考えてみます。
話の起点は、賢治との出会いというところにあります。

「私たち自身が生きるために、いろいろと悩み、苦しみ、葛藤していく。時には自分の 人生を賭けるような、いろんな転換をする、試行をする。そういうそれぞれの必死の営為のなかで、 賢治と出会っていくのだと思います。」

紆余曲折する高木仁三郎の生き方の、ポイントポイントでの賢治との出会いが語られています。
彼は大学で原子核化学を専攻し、卒業してからは原子力の開発研究に携わります。 そのうちに、「自分の中の人間的なものが……どんどん殺されていく」と感じるようになります。 科学が非人間的な顔をして圧迫してくるようになったのです。
「人間の顔をした科学をつくることがどうやったらできるか」
それが彼の悩みとなり、そこで賢治に出会うのです。
「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学を/われわれのものにできるか」
羅須地人協会のガリ版刷りの案内文書に書かれたこのことばに、高木さんは衝撃を受けます。 そして、準備期間を経て原子力資料情報室を立ち上げるのです。 彼の脳裏ではこの原子力資料情報室が羅須地人協会なのです。
しかし、高木さんは、この情報室が「猫の事務所」であってはならないと おのれを戒めます。というのは、これが自分たちだけの自己満足でしかなかったら、いずれは 猫の事務所のように「えゝい、もうやめてしまえ」という外部の圧力によって崩壊しかねないからです。
「私が考えてきたのは、ただ原子力が駄目だとか、反対だとか言うだけではなくて、 本当にみんなが共に、安全に生きられるような科学や技術を作っていきたいということなのです。」
そして、こういった「みんなが共に、安全に生きられるような科学」といった考えは、 また賢治が一生をかけて追求していたものでもあったと気がつくのです。
人と、動物と、植物と、いや生きとし生けるものと共に生きるといった考え方は、 すでに賢治が、彼のすべての作品の中で、生きた物語として生きた言葉で表現しているものなのです。 そのようにして、高木さんは賢治を読むことで「エコロジーとか循環」といった考えに導かれていきます。 いや一方的に導かれたというより、むしろ賢治を読み込むことで実は高木さん自身を読み取っていたのだと 言えるかも知れませんが。

高木さんが自分の生き方を探りながら賢治を読み直したとき、 そこにいつもあたらしい発見があったという告白を聞いて、 私も自分を顧みずにはおられませんでした。
私の場合、若いときから賢治に惹かれていたことは確かですが、 賢治にのめり込んでいく切っ掛けとなるような 出会いは二度あったように思います。
最初の出会いは、高等学校から養護学校(特別支援学校)に転勤したときです。生徒に向きあうとき、 いつも自分はここにいていいのだろうか、と自問することが多かったのです。 養護学校の教師というのは、自分そのものが問われるような、そんな立場なのでした。 その自問自答に苦しむ一方で、私は、それならば養護学校の教師として もっともふさわしい人物というのはだれだろうか、というふうなことも考えるようになります。 私の結論は、宮澤賢治。養護学校の教師にもっともふさわしい人物は彼をおいてない。 賢治は、『虔十(けんじゅう)公園林』という知的障害をもった少年を主人公にした 短篇を書き残しています。それだけではなく、大きくまとめれば、 彼の童話のすべてが共生をテーマにしているようなものです。 共生というものが、賢治の生き方そのものと一体になっている。 また、賢治には教師の経験があります。教師生活を振り返ってつぎのような詩を残しています。 (『生徒諸君に寄せる』より抜粋)

この四ヶ年が
    わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
    鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
    わたくしはこの仕事で
    疲れをおぼえたことはない

ここには養護学校の教師としての基本的な資質がすべて表現されています。
私は、あらためて宮澤賢治に出会い、彼の作品にのめりこんでゆきました。 とどのつまりが、彼を主役にした『賢治先生がやってきた』という劇まで書くに至りました。 私が夢見たように劇中で宮澤賢治が養護学校の先生として登場するのです。 そして、生徒と共に生きるのです。
このホームページの発端となった『賢治先生がやってきた』という劇は、このような出会いから 発想されたものなのです。
劇の中であれそんなふうに一度賢治先生を登場させると、次から次へと、こんな場面にも 現れたらおもしろい、こんな筋書きも考えられると、次から次にアイデアが浮かんで、 ついにこのホームページに掲載されているように いくつもの脚本ができたのです。

さて、もう一つの賢治との出会い。それを書くのは辛いものがあります。
私が長男を亡くしたときの出会いだからです。
五年前、長男を亡くしたとき、私は自分の生きてきた世界がパタンとめくれて、まったく 知らない世界が立ち現れ、そこに一人取り残されたように感じました。
賢治の表現をつかえば「たれだってみんなぐるぐるする」というようなひどい状態です。
何も手につかない。足下も踏みしめることができなくてふわふわした状態です。 時間の感覚も失われていました。何をするにも手がかりがないのです。何も読めない。 何も観ることができない。そんな状態がしばらく続きました。 今から思うと、そこから立ち直ってゆく最初の手がかりは、賢治との出会いにあったのです。
息子はブラジルで遭難したのですが、ホテルに保管されていた遺品の中に賢治の『銀河鉄道の夜』の 文庫本があったのです。その本を繰っていて気がついたのですが、息子が亡くなった日は、賢治の命日 でした。
そんな偶然に思いを巡らしていたある日、ふっと賢治の詩が読めるということに気がついたのです。 賢治が妹のトシさんを亡くしたとき書いた一連の詩が『春と修羅』の中にたくさん収められています。 その本を手にもって読み進めることができるのです。『無声慟哭』や『オホーツク挽歌』が、 こころに響いてくるのです。
詩が読めたとなると、つぎに遺品にあった『銀河鉄道の夜』も読んでみようという気になりました。 これも読めました。 最期のあたりで、カンパネルラのお父さんが登場します。息子を亡くしたという点では、私と 同じ立場です。ところが彼は実に冷静なのです。息子のカンパネルラが亡くなってしまったのに、 あんなに冷静でいられるのはどうしてだろうというところに引っかかってしまいました。 その疑念がしばらく頭から離れませんでした。しかし、そこにはこれまで読んだときとは違った ふしぎな感銘もあったのです。
私は少しずつ知らない世界になじんでいったように思います。
二度目の出会いの最中、この「うずのしゅげ通信」にもいくつかの文章を書かせていただきました。 今になってみれば、書くことで癒されていったのだろうということにも気づきます。
今回の震災で多くの方が家族や友人を亡くされました。中には、私のように賢治に出会って救われる人 もあるかもしれない。そんな思いから、あえてこの二度目の出会いについても書いてみました。

賢治との出会い方は、人それぞれに違っていて当然だと思います。
私の場合は、二度ともに特殊な出会いであったかも知れませんが、 高木仁三郎さんの賢治との出会い方は、ある種の普遍性を持っているように思います。 原発事故があって、これまでの科学技術について 反省してみようと考えている人には参考になるのではないでしょうか。


2011.11.1
越前から近江へ

十月はじめの三連休に、妻の両親のお墓参りにいってきました。
妻は福井県鯖江の出身なのですが、実家のお墓は福井市郊外藤島町の西超勝寺にあります。
高速を走って3時間半はかかるということもあってつい延び延びになっていて、二年ぶりのお墓参り ということになってしまいました。
今回は義兄に誘っていただいて、車に便乗させてもらっての他力本願の墓参です。
福井北インターで高速を降りて、1キロ足らずで藤島の村に入ります。狭い道をゆっくりゆくと、 右手に超勝寺の看板、しかしこれは東超勝寺で、もうしばらくゆくと西超勝寺の伽藍が見えてきます。 この藤島の村には、浄土真宗本願寺派の西超勝寺と真宗大谷派の東超勝寺という二つの立派な お寺が近接してあるのです。
妻の実家は西本願寺の門徒なので、西超勝寺の檀家(?)なのです。
この寺に檀家があるのかどうか、また妻の実家がどうして超勝寺の檀家なのか詳しいことはまったく 分かりません。
墓地は境内から少し離れたところにあって、 行ってみると以前は空いた区画に草が生えていたのですが、いまはほとんど墓石で埋まっています。 大阪近辺の墓地にくらべて格段に立派な墓石が多いようです。
掃除をして、お花と線香を供えて、ひさしぶりにご両親のお墓にお参りをさせていただきました。

そのあと鯖江の実家に寄ってから、兄弟乗り合わせて長浜までもどり、 そこのホテルで義姉夫婦も合流して一泊してきたのです。
次の日は、皆で長浜の街を散策して、長浜城にも登ってきました。

超勝寺から長浜に至る今回の小旅行、蓮如さんの足跡を追ってきたようなものでした。
超勝寺は、蓮如さんの御文章にも出てくるお寺であるということは知っていました。
たとえば、「蓮如文集」(岩波文庫)の「文明五年九月下旬」(1473年)につぎのようにあります。

 「抑(そもそも)、年来超勝寺の門徒において、仏法の次第、もてのほか相違せり。」

超勝寺における信仰の姿がおかしいと御文章で問責しているのです。
また、「文明第五、十月三日」には、つぎの一節が見られます。

 「暫時とおもひて藤嶋辺へまづ上洛せしむるところに、多屋の面々帰住すべきよし、しきりに まうさるるあひだ、帰坊せしめをはりぬ。」

藤嶋の超勝寺辺にしばらく逗留しようと思っていたが、「多屋の坊主たちが吉崎に帰ってくれと、しきりに 申すので、吉崎の坊へ帰ったのである。」(岩波文庫注釈)ということのようです。
追伸にも「藤嶋よりかへりて後、こころにうかむとほり書(かき)おく所也。」とあります。
超勝寺は、以前から藤嶋の地にあり、吉崎御坊に近いということもあって、宿所として利用していたと 思われます。

そこで、超勝寺について調べてみました。
(このあたりの歴史、充分に理解できていなくて、間違いがあるかもしれません。)
超勝寺のホームページを見ると明徳3年(1392年) 「本願寺5世法主綽如上人の御二男頓円鸞芸法印を寺主に迎え開創した寺」とあります。 「文明3年(1471年)本願寺8世蓮如上人が吉崎に御坊を営まれるや」、超勝寺の当主 蓮超は「にその周辺に御堂を建て、 御坊守護のための多屋衆に加わった。そして上人の御女蓮周尼を内室に迎えたので、 寺は本願寺との御縁は更に深いものとなった。」
吉崎御坊に寄った一向一揆が越前の朝倉氏に破れた後(1506年)は、 加賀の国に逃れたようですが、そこでも越前門徒を支えたのが超勝寺門徒でした。
和解がなって彼らは再び藤嶋にもどります。
慶長7年(1602)に本願寺の分立を受けて、 東と西に棟を分かつことになったようです。

そして、長浜。
翌日の午前中に散策した長浜市街の黒壁通りでは、江・浅井三姉妹博覧会が開催されていました。
博覧会はあまり興味がもてなくて通り過ぎてしまいましたが、 長浜城歴史博物館は、 古文書や刀などの展示があり、それなりの見ごたえがありました。
天守閣から眺める琵琶湖はぼーと霞んでいて、遠くまで見はるかすことができませんでした。 薄曇りの空の下におだやかな光を反射している水面だけが広がっていました。
気怠いような光を揺らしながらぬるい真水を波打たせている湖をまぶしく眺めていると、 ふと最近亡くなられた河野裕子さんの歌が口をついて出てきました。

 〈たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江といえり〉

あくまでもおだやかな琵琶湖でしたが、蓮如さんもこの琵琶湖を見ながら帰京されたのだろうと 想像すると何だかふしぎな感覚にとらわれてしまいました。

蓮如さんというと五百年以上も昔の人ですが、超勝寺との因縁などに思いを巡らしていると、 ちょっと身近に感じられるからふしぎですね。
じつは、蓮如さんとのご縁、もう一つあるのです。
もう二十年ばかりになりますか、私の本家、祖父の家で法事が行われたときのことです。当時、地区の寺に住職がおられなかったので、 近くにある古刹の住職に檀家まわりをお願いしていたのですが、その住職が、法事が済んで歓談している とき、仏壇を見あげながら「これは蓮如さんですなぁ」とおっしゃったのです。仏壇の奥の正面右側に 掛けてある六字名号の軸が蓮如さんの筆だというのです。その後どんな会話があったのか、 かなり前のことなのですべて忘れてしまいましたが、 そのことだけは鮮明に覚えています。 その後も本家の仏壇にお参りするごとに奥を覗いてみるのですが、 蝋燭で煤けた軸は灰色がかっていて名号の字さえはっきりしません。 それを蓮如さんのものだと断定したのですから、 以前に詳細に鑑定したことがあるのかどうか。かの住職さんは地域の歴史にも詳しく いいかげんな話をされる方でもありませんから、そのあたりのこともお聞きしたいのですが、 機会もないままで来ています。 たしかに蓮如さんは多くの六字名号を書いて配られたと本人もおっしゃっているので、 (後に回収されたという話も聞いたような、読んだような?)、まあそういった可能性も なきにしもあらず、といったところで収めておこうかと思っています。その方が夢がありますから。


2011.11.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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