2012年4月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

困った?

老年について(続)

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

ご意見、ご感想は 掲示板に、あるいは メールで。
「賢治先生がやってきた」には、 こちらからどうぞ


2012.4.1
困った?

かなり前に書いた詩です。

  困った?

「何ひとつ書く事はない」(※1)
と、詩人は詩を書き、
「演じるべきものは何もない」(※2)
と、俳優は舞台で演じ、
「生きるべき理由は何もない」
と、私は日々を生きている
まったく虚無的でも何でもなく
あたりまえに


※1 谷川俊太郎「鳥羽」より
※2 鷲田清一『「待つ」ということ』より(「ゴドーを待ちながら」の台詞を 鷲田流に訳したもの)

文学におけるこういった嘆かわしい(?)状況が、東日本大震災やそれに引き続いて勃発した 原発事故によって、きれいさっぱり一掃されたのではなかろうかと考えていたところ、 つい先日(2012.3.27)、朝日新聞の文化欄につぎのような記事を見つけました。

「高見順賞の贈呈式が都内で開かれ。詩集『失(な)くした季節』(藤原書店)で昨年、在日韓国人として 初めて選ばれた金時鐘(キムシジョン)が1年遅れの賞を手にした。昨年の贈呈式は3月11日。 奈良県在住の金は新幹線の中で被災し、午後8時すぎに東京駅着。徒歩と地下鉄で深夜0時前、飯田橋の 会場に到着し、待ちうけた詩人の佐々木幹郎らに迎えられたが、式は延期された。」

そして、金時鐘さんの談話が引用されています。

「東日本大震災は、現代詩という日本の詩の在りようをも破綻させずにはおかなかった。 観念的な思念の言語。他者とかみ合うことの全くない、至って詩的な内部言語。そのような言語で 詩が書かれるいわれは、根底からひっくり返ってしまった」

3.11までの詩の状況はまさに金さんの言われるようなものだったと認めます。詩人にことばの技量はある、 しかし、書くことがない。だから、ことば遊びの詩でごまかすか、難解なことばで読者を煙に巻くか、 あるいは筆を折るかしかない。 小説家は小説家でこぞってその場しのぎのエンターテインメントの小説を書き流している。まさに そんな状況だったのではないでしょうか。

そもそも文学は、社会的な出来事に触発されることで産み出されてきたことは言うまでもありません。
太平洋戦争におけるミンドロ島での戦闘体験が大岡昇平に『野火』を書かせ、また、戦艦大和の撃沈が 吉田満に『戦艦大和の最後』という詩的ドキュメントを残させたのです。
原爆が、原民喜という私小説作家を選んで、被爆体験を世界に発する詩人となることを強制しました。
それぞれにおいて、社会的な事件が、人を選んで、その事件をテーマにした小説なり詩を書かせてきたのです。 社会的な大きな事件、あるいは宿命とも呼ぶべき個人的な出来事、これらが詩人、小説家を選ぶのだと思います。
私はこれまで「テーマ性のない文学などつまらん」(ここ大滝秀治の口調で)と考えてきました。 しかし、そのテーマは、求めて得られるものではありません。それは、天からあたえられるもの、とも 信じているのです。

「彼は小説家になるために生まれてきた」といった表現がありますが、そのような才能豊かな人物が、 大きな事件に巻き込まれるか、あるいは個人的な重大事に出会ったとき、はじめて彼は小説家になることが できたのではないでしょうか。
詩人の和合亮一さんは、そのようにして、今回の東日本大震災と福島の原発事故によって 選ばれたのです。もちろん、彼にはそれなりに使命を受ける構えがすでにあったことは確かですが、 やはり今回の事件が彼を選んだと言った方があたっているように思います。

詩人は書くことがないと嘆き、小説家が小説の時代はもう終わったのではないかと恐れる、 それは平和ボケの譫言(うわごと)でした。そんなことを嘆くことこそが、 平和な時代の病理だったのかもしれません。
しかし、いまやそういった時代は過ぎ去り、何か嵐の時代が始まろうとしている、 そんな予感のようなものがあります。
先月号で、E.M.フォースターに触れましたが、彼の「私の信条」の表現に倣えば、 思いのほか長かった暴力の休止期間が過ぎようとしてしているのかもしれません。
(これまでの常識からすれば、平和が六十数年も続くということ自体がふしぎなことだったのです。 もっとも私たちの世代は、その恩恵を被って安逸に暮らしてきたのですが。)
日本の経済的な破綻はもうつい先に亀裂の端が見えているようだし、 東南アジアの政治力学も不安定さを増しつつあります。 これまでの六十年とは違った肌合いを持った黄砂がわが国を覆いつつあるようです。 決して望むところではないのですが、力がふたたび正面に出てきて悲惨をまき散らし、 そのために文学が息を吹き返す、そんな時代が迫っているのかもしれません。
しかし、文学のテーマがいたるところにころがっているような時代は、とてもいい時代だとは 言えません。
金時鐘さんの言われる「観念的な思念の言語。他者とかみ合うことの全くない、至って詩的な内部言語。」 そういった言語ではなく、 だれにでもわかる明瞭な言語で書かれた詩や小説が、近づきつつある破局を避けるためのメッセージを発し、 それに応じて、わが国の人びとが、破局を回避するために思いをめぐらしともに立ちあがる、そういった英知を 持ちあわせていますようにと、 今はそんなふうに祈らずにはおれません。


2012.4.1
老年について(続)

「うずのしゅげ通信」の先月号でE.M.フォースターの『老年について』を取りあげましたが、 それをきっかけに、ついそこに見えている自分の老年というものについても思いを巡らせています。
フォースターが「高貴な達成」という老年の英知というのはどのようなものなのか、 そこから始めたいと思います。
彼は、「英知という高貴な達成は体力の衰えと結びついている」と言います。 体力の衰えが精神を集中させ、雑念を断つ、といった効用もあるからです。
しかし考えてみると、そうとばかりは言えないようにも思うのです。 体力の衰えが、精神を集中させるという方向に向かうこともあるでしょうが、反対に 精神の集中を妨げるということの方がむしろありがちなのではないでしょうか。
はっきりさせておきたいのは、私は、何も前者が優れていて、後者が劣っていると言っているのではないのです。 ただ、老年の衰えによって高貴な英知を発揮する人は、そんなに多くはないだろうということです。
むしろ精神の集中が妨げられる人の方がほとんどではないでしょうか。 すくなくとも、私は、後者に属していることは断言できます。 将来英知などとまったく縁のない呆けた老人になるだろうことは火を見るよりも明らかです。
私の老年は英知という形に収斂してゆくのではなく、他の平々凡々たる老年の形に収斂してゆくに ちがいないのです。
そうだとすると、老年の入口に立っている私として、今やるべきことは何かということになります。
平凡な老年を将来に見据えて、今何をすべきか? そんなふうに考えを巡らして、 そうだ、今はこれまでの半生を振り返るべきときだという結論に達したのです。 老年を平凡に終息させていくためには、 これまでの半生を振り返ることが意外に重要だと気づいたのです。 半生を振り返って、人生の筋道の節目節目に出会った人びとや事々をどのように意味づけるかということが、 これから先に待ち構えている老年の焦点をぼやけさせないためにとても大切だと、 そんなふうに私の中のだれかが呟くのです。 今はまだ人生の中間点、中間点が言い過ぎだとしたら、最後の確認ポイントようなところに いるわけです。この時点での自己省察は、そのまま これから終焉に向かう人生の軌跡を準備することだからです。 その軌跡が、何かに妨げられることなく、普通の放物線を描いて、 ちゃんと一つところに落着するように、今こそ半生を振り返るべきだと、 そして、もし軌道修正が必要なら修正する、 その機会は今しかないということです。
そういう結論に達した私は、いままでの半生を省みる方法に思いを巡らしました。 あまりに陰の部分にこだわった省察はすべきではない、ということは明らかです。 まあ、それくらいの分別は、今の私にも初老の知恵としてあるのです。

ということで、人生を振り返るおおまかな方針は決まったわけですが、具体的にはどうすればいいのか。 そんなことを考えているとき、たまたま「こころの時代」アーカイブス、「私の漂流仏物語」(2011.12.3) というテレビ番組を観たのです。そこではじめて大須賀発蔵という人物を知りました。
番組を見終わったとき、この大須賀発蔵さんを私の人生の先達にしようと勝手に決めていました。 一目惚れのようなものです。大須賀さんに心の弟子入りをすることにしようと。 何と勝手なと思われるかもしれませんが、師弟関係というのは、そのようなものではないでしょうか。 大須賀さんはテレビで観た限りでは実に優しい方ですから、入門を許してくださるものと信じます。 もっともご当人は昨年5月に亡くなっておられますから、私は遅れてきた弟子、 それも不肖の弟子ということになります。
大須賀発蔵さんといっても、ご存じない方がほとんどだと思います。 私もそうでしたから。本当は番組を観ていただくのが一番なのですが、いまさらそうもいかない方のために 簡単に紹介させていただくと、大須賀さんは、仏教の考え方をカウンセリングに活かそうと 努力された在家の仏教者です。 材木業を営みながら、カウンセリングやエンカウンター・グループの活動をされていました。
まさに現代の妙好人とも言うべき人物なのです。テレビで観た風貌も実にそんな風でした。
そんな大須賀さんに、私は無性に惹きつけられたのです。
大須賀さんは、不登校や家庭内暴力の子どもに悩んでおられる親を対象にしたカウンセリングや エンカウンター・グループでの心理治療などに 取り組んでこられた経歴の持ち主なのですが、そのことが、 かつて養護学校で教育相談などをしていた私に親近感を持たせたのかもしれません。 もちろん大須賀さんのカウンセリングの経緯などを書かれた文章を読むと、 いかに真剣に打ち込んでこられたかが分かり、私の経験など吹き飛んでしまうほどのものなのですが。
そんな大須賀発蔵さんが、六十歳半ばに出版されたご自身の著作で、 自分のこれまでの人生を振り返ってつぎのように概括しておられます。

「日々、私の人生には光と陰が息づくように交叉しています。ときには重い陰に包まれて、 弱い心に陥ることもありますが、その姿は昔も今もあまり変わってはおりません。 そんな私が、六十も半ばをむかえたいま、(中略)よくふり返ってみますと、そのときとしては苦しかった 体験をとおして、いつも生涯の宝となるような光を届けられていたことに気づくからです。 仏教との出会い、カウンセリングとの出会い、みんなそうでした。しかも、そこにはいつも共に 苦しみながら、私をみちびいてくださった人たちがいました。」(大須賀発蔵『いのち分けあいしもの』)

「人生においては、一見何でもないような日常の営みの中に、深い真実がちりばめられていることを、 深く深く教えられてきました。」(同上)

私もまた、大須賀さんがこの文章を書かれた年齢に近づきつつあります。何とかして、大須賀さんのように これまでの人生を振り返ることができないかと思うのです。
それは、並大抵なことではありません。
しかし、考えてみますと、「仏教との出会い」は、充分とは言えないかもしれませんが、 私もまた恵まれました。月まいりでは、「仏法聞き難し今已に聞く。」という、 ご住職の読まれるお経をいただいております。
続けて、人生の出会いとして、大須賀さんは「カウンセリングとの出会い」を挙げておられますが、 私の場合は「養護学校の生徒たちとの出会い」を掲げなければならないと思います。 それは、私の人生にとっては大きな出会いだったからです。 そして、大須賀さんは、つぎのように概括されるのです。
「そこにはいつも共に苦しみながら、私をみちびいてくださった人たちがいました」
大須賀さんの半生を顧みられての感慨とどうようの思いを持てるような心境になれないものか、 それが、今私が半生を振り返ろうとしているねらいなのです。

大須賀さんは、親鸞聖人の著作からもたいへんな影響を受けておられますが、 そもそもの仏教との出会いは若いころにあったようです(『親鸞再発見』より)。
病弱の女性を好きになられて、 心の戸惑いに「不誠実な醜い自分」を思い知らされたといいます。 思い詰めて鬱になりかけたところで、さる仏教の先生に紹介され、 そこからさらに一歩を進めて親鸞聖人にものめり込んでゆかれます。 そして、あるとき倉田百三の『出家とその弟子』を手にされます。 その本の扉に『正信念仏偈』の次のような句が認められていたそうです。

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

読み下すとつぎのようになるようです。

「極重悪人は唯仏を称すべし。我また彼の摂取の中に在り。煩悩に眼を障(さえ)ぎられて見えずといえども、 大悲倦(う)むことなく常に我を照らす」(同上)

極重悪人はただ念仏を称(とな)えるしかないということでしょうか。
当時の大須賀さんにはたしかに極重悪人の認識があったのです。 「ほんとうにどうしようもない心をもった自分」だと。 そうであれば、念仏を称えるしか救いはありません。念仏を称えれば、仏さまの大悲が自分を 照らしてくださると、『正信念仏偈』はそんなふうに教えているのです。 大須賀さんは、そこから親鸞聖人の方へ一歩を踏み出してゆかれたのです。

ところが、当の親鸞聖人は、同じように老年といっても、われわれの場合とは まったく様相を異にした老年を過ごされていたように思われます。 聖人は、六十歳を過ぎても、七十、八十歳になっても、 おそらく身体頑健で体力の衰えなどお感じにならなかったのではないでしょうか。 その証拠に、八十歳半ばに書き上げられた『三帖和讃』において、 なおあれだけの深い自己省察をたぎらせておられるのですから。

親鸞聖人は62歳の頃、常陸から京都に戻ってこられます。 理由はいろいろと推察されていますが、真相のほどは分かっていないようです。
京都に戻ってからの晩年は弟の尋有さんの寺に寄宿して、和讃などを書いて過ごされていたようです。
関東において起稿した『教行信証』は、一応の体をなしてはいましたが、さらに手を入れる一方、 そこで深められた思想を、庶民にも分かるように七五調の和語で表現することに専念しておられました。
『教行信証』は、漢文の著作であり、私など書き下し文であってもまったく歯が立たないのですが、 さすがに和讃は、和文であるだけに読みやすく、私のようなものでも親しみを感じるところがあります。
『三帖和讃』の内、『浄土和讃』『高僧和讃』は七十歳後半に作られ、さらに手を加えて完成したのが 八十三歳ころと言われています。 それから善鸞の義絶事件があった一年をおいて、八十五歳のとき、 『正像末浄土和讃』の稿が起こされ一年で完成を見たようです。(坂東性純『親鸞和讃』参照)
その『正像末浄土和讃』の中に、『愚禿悲嘆述懐』という章があって十六の和讃が収められています。 そこにはおどろくほど激しい自己省察が吐露されています。(『親鸞和讃集』(岩波文庫))

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかち)のごとくなり
修善も雑毒なるゆへに 虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

「こころは蛇蝎(じゃかち)のごとくなり」といった表現など、いかにもお経の断片が記憶にあって、 そこからするりと飛び出てきた感じですが、そういった引用の網の目を縫うようにしてなお、 親鸞聖人が晩年に至るまでの深い自己省察が窺えます。 そのことから、老年に至るもなお悲嘆し続けた人であったということは否定しがたいのです。 阿弥陀の功徳を際だたせるためのことばの綾と言われようと、そういった思惑を超えて、 聖人の内面にこういった悲嘆が疼いていたことは事実だと思われます。 親鸞聖人には、いわば原罪のようなものとして「虚仮不実」、「悪性」、「無慚無愧」といった 認識があったのではないでしょうか。 原罪であるゆえに、年齢とは関係がなかったわけです。
それにしても、八十歳後半にしてなお、このような認識を保っているということは希有のことではないでしょうか。 人間、六十を超えれば、もう そういった自分の中の陰りへのこだわり、自己嫌悪とか自己省察などは煩わしくなって 心の片隅に押しやって見ないふりをする、そういったものではないでしょうか。 われわれ並の人間であれば、年齢とともに内面を掘り下げる情熱が 冷めてくるはず。
もちろん、自己省察が、自己嫌悪とは異なるものだということは理解しています。 宗教的な自己認識といったものに近いものなのかもしれません。
しかし、それにしても、親鸞聖人は凡人とは違うと考えざるをえないのです。

もちろん、このような深い自己省察は、凡人の場合、青年期に、おそらく嫌悪を伴う形で発して、 壮年期になると視線が仕事に向かうことで半減するのが常套であるような気がします。 しかし、聖人の場合は、その自己省察を中心に据えて自分の信仰を掘り進めてゆかれた のではないでしょうか。
和讃で執着されている「虚仮不実」、「悪性」の自己省察は、関東で一応の完成をみた『教行信証』にも もちろん姿を現します。

『教行信証』信巻には、様々なお経からの引用の間に、唐突につぎのような一節が挟まれています。

「まことにしんぬ。かなしきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の廣海に沈没し、名利の大山に迷惑して、 定聚(じょうじゅ)のかずにいることをよろこばす、眞證の證にちかづくことをたのしまず。 はづべしいたむべし。」(『教行信証』(岩波文庫))

「定聚(じょうじゅ)」というのは、正定聚(しょうじょうじゅ)のことで、「必ず往生することに定まって いる人びとのこと」(『岩波仏教辞典』)
この一節、試みに訳してみると、こんなことになるでしょうか。
「まことに知った。なんと悲しいことか、愚かな親鸞よ、愛欲の海に沈み、名声や利益の大山に迷い、浄土に 往生する人たちの数に入ることを喜ばない。浄土の悟りに近づくことも楽しまない。」

読んでいて、この悲嘆、あまりの唐突さにおどろかされるようなところがありますが、 現代的な感覚で読むのではなく、中世人親鸞の告白ということで幾分割引しなければならないのでしょう。 それは分かっています。「愛欲の広海に沈没し」と言っても、純粋な心情の告白ではなく、 そういった言い回しが仏典の中にあって、それを援用されただけかとも思われます。 また、この一節は、阿弥陀如来に出会えたよろこびを際だたせるための悲嘆であると 解されてもいるようですが、 それにしても、ここにはことば面だけではない本気の響きがあり、 また幾分親鸞聖人の息づかいさえ感じさせるような気迫があります。深読みしすぎているのでしょうか。
そして、この本気度が老年に至るまで維持されているのは、和讃で見たとおりです。
いかにそれが己の宗教的な存在理由であるとはいえ、青年期に発した自己省察の激しさを、 壮年期に深めるだけ深め、さらに老年にいたるまで抱き続けているというのは尋常なことではありません。

老年にいたってなおこのような深い自己省察はどのように保たれるのでしょうか。
私には、聖人の自己省察に根ざした信仰の告白は、あまりに緊張を強いるように 感じられます。読んでいるだけで、息苦しくなるほどです。ましてご本人はどれほどの 苦しさを抱えておられたことか。
私は、個人的には、老年はもう少し穏やかな心境で過ごしたいと願うのです。
自己懺悔が度を過ぎるような老人は、まわりの人も扱いにいばかりではなく、 自分でも持てあますに違いないのです。 そういった老年が平穏であるはずがありません。
もちろん、親鸞聖人にとっては深く省察することが何よりも重要なことだったのであり、また、 凡人にはうかがい知れない深い思いがあってのこと、 内的必然性に裏打ちされたものなのでしょうが、 しかし、敢えて言えば、やはり私は自分の老年のありかたとしては退けざるをえないのです。

親鸞聖人の深い悲嘆にはとても及びませんが、「虚仮不実のわが身にて」とか 「悪性(あくしょう)さらにやめがたし」 といった和讃の表現に通じる嘆きが、老年のとば口に立っている私にももちろんあります。 それは誰しもそうだと思うのです。 だからこそ、聖人の悲嘆に気おされて、あまりに息苦しいと感じるのかもしれません。 むしろそういった思いから逃れたいという気さえあります。では、どうしたら逃れられるのか。 末世ゆえどうしようもない煩悩に染められるのはまあ仕方ないことだと、 思い切って自分のいやな面も弱さもすべてを許容してしまうというのはどうでしょうか。 自己凝視の眼差しをより寛容にするのです。 そうすることによって、少しは心が楽になります。
その上で、これまでの半生を大須賀流に振り返って、肯定的な意味づけをするわけです。

先に書きましたように、大須賀さんが、自分の半生を回顧しておれらる文章の中の 「カウンセリングとの出会い」と言っておられるところを、 「養護学校の生徒たちとの出会い、そしてお母さんやお父さんとの出会い」と置き換えてみますと、 つぎのようになり、それは私の場合に当てはまりそうです。

「よくふり返ってみますと、そのときとしては苦しかった 体験をとおして、いつも生涯の宝となるような光を届けられていたことに気づくからです。 仏教との出会い、〈養護学校の生徒たちとの出会い、そしてお母さんやお父さんとの出会い〉、 みんなそうでした。しかも、そこにはいつも共に 苦しみながら、私をみちびいてくださった人たちがいました。」

この文章に続けて、大須賀さんは、いかにも妙好人然とした一行を添えて、この一節を締めくくっておられます。

「仏様は影の姿を現して衆生(しゅじょう)を教化(きょうげ)すると仏典に誌(しる)されていますが、 その人たちこそ私にとって影像の仏様たちでした。」(大須賀発蔵『いのち分けあいしもの』)

この表現をそっくりそのままいただくと、私が養護学校で出会った生徒たちや保護者は、 私のとって仏(菩薩)さまだったのかもしれません。影となって寄り添い導いてくださる仏さま。
そういった見方、それが私が老年をむかえるにあたって、これまでの人生を 総括する振り返り方として相応しいような気がしています。
(この稿さらに続きます)


2012.4.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

「うずのしゅげ通信」にもどる

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

メニューにもどる