2012年6月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

若松英輔「魂にふれる」

俳句

文庫本「賢治先生がやってきた」

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2012.6.1
若松英輔「魂にふれる」

若松英輔「魂にふれる −大震災と、生きている死者−」(トランスビュー)を読みました。
この本のテーマは死者論ということですが、もう少し突っ込んで言えば、 副題にあるように「生きている死者」というものの存在と、 その働きを受ける生者の生き方というようなことになるでしょうか。
若松さんがこのような論考を深められるに至った理由は明らかです。 震災の1年ばかり前に奥さんを亡くされるという個人的な「事件」があり、その悲しみが癒えない ところに、3.11で多数の犠牲者が出たこと、それらの二つの喪失体験が共振したところに あるようです。
巻頭から二番目の文章「悲愛の扉を開く」は、次のように書き出されます。
「2011年の3月11日、君は大切な人を亡くした。その前年2月7日、ぼくも妻を喪った。」
そんな「君」への呼びかけで、死者論が進められてゆきます。
若松さんが本書でいう「死者」というのは、
「生者の記憶の中に生きる残像ではない。私たちの五感に感じる世界の彼方に実存する者」
ということになります。
本文中に引用されている池田晶子のことばによれば、
「死者/死体の謂いではない/生存ではない存在形式において存在するもの」

本書で若松さんは、死を問題にするのではなく、死者を論じようとしているのです。
上の引用にあるように、死者は、「生存」ではない形式で「存在」していると言います。 それは、打ち消しようのない事実だと断じておられます。
では、死者というのは、現象面でどのような働きをもたらすものとして捉えられているのでしょうか。
「死者の経験とは「見る」経験ではない。むしろ、「見られる」経験である」と言います。
喪失を体験したものはつねに死者から見られるという感覚を持つようです。私の場合もそうでしたから、 これは分かるような気がします。
またときとして「死者は「課題」を残して」ゆく場合がある。それは、生者がその「課題」を引き継いで くれれば、それに向けて共に生きるためです。
「日常生活の中で、自分(上原専祿)や子供を通じて、(死者である)「妻は、自分の意思みたいなもの、 あるいは思考のようなものをフッと出して」きたりすることもある。
そのような事実を踏まえて、「生きている死者」と言っているわけです。
しかし、これはそんなに簡単には認めるわけにはいきません。 「生存」ではない形式で「存在」するという死者、そういった「存在」を信じることができたら どんなに慰められるか、という思いがある半面、ことばだけを弄んでいるのではないか、という不安もまた 揺曳するのです。いくら説得されても私の思いは半信半疑というところにとどまります。
喪失後しばらくは「見られている」という意識につきまとわれることは事実ですが、その視線の源に 「生きている死者」の存在を仮定するかどうかは判断の分かれるところです。 とりあえずは、仮説と考えて読み進めてゆくというやり方をするしかありません。 仏教的に言えば方便ということになるのでしょうか。 自分を見ている視線の向こうに生きている死者を方便として想定するかどうか。
親鸞のことばに「弥陀仏は、自然のやうをしらせんりょうなり」(『末燈抄』・「自然法爾の事」) というのがあります。「自然」は「じねん」と読み、「をのずからといふ」とあります。「りょう」というのは、 「料」のことで、方法とか、方便ということです。 阿弥陀仏というのは、をのずからのありようを知らせるための方便、ということでしょうか。
これに倣うと「「生きている死者」というのは、残されたものの こころのありようを知らせる方便」ということになるのかもしれません。 「生きている死者」の存在というものを、その矛盾した表現を含めて一つの方便ということで とりあえずは保留にしておいて、引き続き若松さんの考え方を追ってみます。

死者は、生者との協同をめざしてさまざまな場面で生者に働きかけてきます。 そこに悲しみがもたらされると、若松さんは一つの仮説を示されます。

「ぼくらは、亡くなった人を永遠に失ったから悲しいのではなくて、その人々が永遠の世界から、 ぼくらが暮らす、この世界に近づいてくるから、悲しいと感じられるのではないだろうか。」

ここは書評などでよく引用されている箇所です。
これだけを読むと、「千の風になって」の歌詞を思い浮かべる人もおられるかもしれませんが、 内実はもっと深いものです。

「死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の 経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある。」

悲しみとともに残された生者に近づいてくる死者、では、その死者はいわゆる魂というものと、 どのように関係しているのでしょうか。

「ぼくらが経験しているのは、死者だ。それは失われた人ではない。肉体が消えた後も、魂と して存在する「生ける死者」だ。」

生ける死者は、魂として存在しているというのです。ここで、魂と死者が重なり合います。
「見えないことと存在しないことは、まったく違う」
魂もまた、見えないけれども存在しているということです。

そもそも副題にある「生ける死者」というのは矛盾を含んだ表現ですが、 著者は躊躇なくそういった言い方を遣っています。 なぜ「生ける」という形容詞を被せるのかというと、それは生者とともに生きているから、 生きて呼びかけてくる存在だからです。

「死者と共にあるということは、思い出を忘れないように毎日を過ごすことではなく、むしろ、 その人物と共に今を生きるということではないだろうか。」

「その人物と共に今を生き」るというのもただ存在しているだけではなく、「死者は、 (中略)「呼びかけ」を行う主体なのである。」

生者が呼びかけるのではなく、死者が向こうから呼びかけてくる、それが本来のあり方だというのです。
これはしかし、私には分からなくもないのです。喪失による虚脱悲から受身になっている生者は、 見るもの聞くものすべてを死者からの呼びかけと感じる時期があるからです。

では、そのような死者がなぜこれまでおおっぴらに論じられてこなかったのか。 そのことについては、つぎのように述べています。

「死を論じることに忙しかった近代は、死者論を封じてきたように思える。死は実存的な 経験の極北であり、その彼方に死者を論じることは、科学性を欠いた観念の遊びに過ぎないというのだ ろうか。しかし、少数だが例外的な人物もいた。彼らは、私たちが触れているのは死ではなく、肉体の 終わりであって、人生の終わりではなく、新生であり、亡霊ではなく、死者であると言う。 上原専祿は例外の典型である。」

こんなふうに述べて、死者の存在を肯定する例外的な人物の系譜を辿ってゆくのです。
先に引用した歴史家の上原専祿、哲学者池田晶子、「夜と霧」のヴィクトール・フランクル、 イスラーム学者の井筒俊彦、小林秀雄、柳田國男、鈴木大拙、西田幾多郎、神谷美恵子。

これらの人々が死者の存在を信じるにいたるようになったのは、個人的な事情が関与している場合が 多いようです。
例えば、上原専祿の場合は、次のような事情によるのです。

「彼(上原専祿)の死者論が、「歴史と社会との凝視を通して」得られた帰結だったとしたら、三十年 以上を経てその意味が問われることはなかったかもしれない。上原の死者論にみなぎる 強靱さと真実性は、それが徹頭徹尾、個人的な「事件」に由来しているところにある。それは 「私的体験」だからこそ、学問的世界とは別な、一切の妥協と偽りのない出来事だったのである。」

若松さんの言うとおりです。つまり、上原専祿さんは、妻の利子さんを亡くされた「事件」を契機にして、 その論考を深められていった、そのことがあるゆえに読む者を動かさずにはおかない、 つまりそこに迫力の源、読者が襟を正さざるをえない所以があるというのです。
死者論の多くが、身近なものの死、あるいは己の死を見据えての探求の中に死者を論じているという 特徴があります。
若松さんを、死者論の追求に導いたのは、この書の由来にもなった次のような経験でした。

「魂にふれたことがある、錯覚だったのかもしれない。だが、そう思えないのは、ふれた私だけでなく、 ふれられた相手もまた、何かを感じていたことがはっきりと分かったからである。
……亡くなる二ヵ月ほど前のことだった。がんは進行し、腹水だけでなく、胸水もたまりはじめていた。 ……彼女のからだはやせ細り、骨格が露出し、マッサージをすることすらできなくなっていた。 薄い、破れそうな紙にさわるように、彼女の体に手をおき、撫でることができる残された場所をさがして いたとき、何かにふれた。
まるい何かであるように感じられた。まるい、とは円形ではない。柔らかな、しかし限りなく繊細な、 肉体を包む何ものかである。」

そして、時間を失った中で、「こういうこともあるんだね」と言葉をかわします。
「彼女は少しおびえてたようだったが、 起こったことの真実をいっそう深く了解していたのは、おそらく、彼女の方だった。抱きしめる。 何かを感じるのは抱きしめた方よりも、抱きしめられた方ではないか。魂にふれるときも、 同じ現象が起こる。」

この本は、若松さんのこういった経験に端を発していたのです。

では、これらの死者論の系譜を、私はどのように受け取るべきか。 ここはじっくり考えなければならないところです。 「千の風になって」的な情緒に流されてしまうことだけは避けなければいけません。 書中には、歌詞そのままのつぎのような一節まであるのですから。

「死者は、墓中にはいない。むしろ、彼岸にあって、彼らの仕事に従事している。その一つが、 愛する者の庇護であり、協同である。」

私の場合、息子を失ってから今までを振り返ってみると、宮沢賢治に助けられてきたという感慨があります。 宮沢賢治が、妹のトシさんを亡くしたときに詠んだ「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」といった 詩を読むことで、「銀河鉄道の夜」を読むことで、賢治先生の教え子の回顧を読むことで、 どうにか自分を保ってこられたのです。 その逐一は、この「うずのしゅげ通信」にも書いてきました。書くことによって、 己を支え、喪失の苦しさをどうにか乗り越えてこられたのです。
今年の2月号では、もう少し踏み込んで、魂というものについても考えてみました。 (「(私の魂)は、記憶する」)
若松さん同様、私なりに「君」へのメッセージを込めて書いたものです。

この本を読み終えた今、あらためて顧みると、私の辿ってきた道筋は、若松さんが追跡してこられた系譜とは 少しずれているところがあります。しかし、人はそれぞれ。それは、それでいいのではないか、 という思いもあります。 私は自分なりに模索しながらここまで歩んできたのであり、それをいまさら若松さんの道筋に寄り添わせてゆく つもりはありません。
しかし、私は、「生きている死者」という若松さんの捉え方にかなり説得されたような気がします。 自分のこころがかなり揺らいでいるのが分かるのです。
若松さんの論究が、単なる思いつきではなく、日々の生活がもたらす摩耗にも、 時の経過にも耐えうるものなのかどうか、 そこらあたりをじっくりと検討、見極めていきたいと思います。
前にも書いたように、親しい者を亡くしたとき、精神的に動揺する中で、虚脱から受身になり、 いろんな幻想に曝されます。魂の存在を信じたい、死者の遺志を、死者の視線を感じ取りたいという 思いは切実です。 そんなとき「生きている死者」というイメージが掲げられれば、それに飛びつきたくなります。 「千の風になって」が流行したのもそういった祈念の表れのように思います。 しかし、そこで踏みとどまって考えてみることが大事です。 死者論が、ことばの遊びであってはいけないからです。 これからの人生を、自分をしっかりみつめて、死者をしっかり思い出して、 その上で嘘偽りのない死者とともに生きていかなければならないからです。 若松さんがこの本で開陳された考え方も、その一つの大切な案としてあるべきものだと思います。 「生きている死者」という存在について、私は仮定とか方便とか半信半疑のことばで表現しましたが、 仮定と言い、あるいは方便と言っても、一旦こうと思い定めたらそれは存在するものと見なすことができます。 生存ではない存在形式において存在するものだと思えば思えるわけです。
「生きている死者」という表現については、様々な思いが去来しますが、そこはじっくりと、 その考えが本当に納得できて、自分を支えるものなのかを、 見定めてゆきたいと思います。

死者の存在といったことはしばらく置くとして、 取り敢えず、一つだけ全面的に共感できるところがあったので、最後にそのことに触れておきます。

以前、ある落語家(徳島の落語家、桂七福さん)が、朝日新聞(2010.12.19) につぎのようなことを書いておられました。
自分のいじめられ体験から、子どもたちに次のような話をしているというのです。
「七福さんは、中3の息子と小4の娘にも(学校でいろんなことがあっても)「大体のことは大丈夫やで」、 「大体のことは何とかなる」と言い聞かせている。それでも落ち込んでいるようなら、 親戚を数え上げて、「少なくともこんだけ味方がおるさかい」と励ます。」

いじめの対策の一つとして、親や親戚などを子どもの味方として数え上げることで勇気づけるというのです。 応援団の考え方というか、これは自分を保つためにはなかなか有効な考え方だと思うのです。
これを読んだとき、私の中にふとふしぎな感覚が過ぎったのです。 確かに、いじめのような世俗の問題は、親戚一統による応援団でいいかもしれない。 しかし、我々が苦しむのは、生老病死、特に死の苦しみではないでしょうか。 そのとき、我々を助けてくれる応援団があってもおかしくない。 生きている親族ももちろん応援団の一員です。私のいまわの際には、「だいじょうぶだよ」とか声を 掛けてくれるかもしれません。しかし、彼らは死を経験してはいないから、応援団としては少々頼りない。 その点、もしそこに死者が控えてくれているとしたら、これは心強いかぎりです。彼らは すでに死を体験しているのですから、導き上手なはずです。 向こうから呼びかけて安楽に導いてくれるような気がするのです。それに加えてここを過ぎれば再会できるという 喜びがあります。懐かしい声を耳にして、久しぶりに再会できる期待に 死の恐怖など吹き飛んでしまいそうです。いまわの際にも、私には「少なくともこんだけ味方がおるさかい」 と自分を励ますことができるわけです。
若松英輔さんは、そのあたりをつぎのように書いておられます。

「先立つことは、おそらく人間が行ない得る、もっとも貴い愛の表現である。それは、残された 生者への永遠の愛を誓うことに等しい。死者の愛を受けた生者は、依然苦しみを恐れ、死への不安からは 解放されない。そうだとしても、死者との再会は、生者が眼前の怖れをのり越え、苦痛に耐えるのに 十分な動機となる。」

(※ この応援団という考え方で短い童話風の物語を書いたことがあります。
   興味のある方は読んでみてください。)

「部活・元気印」
 養護学校の変な部活物語

もう一つ、この本から考えさせられたことがあります。
それは、回向ということです。
親鸞さんは、二種回向ということを言われています。 浄土に向かう往相回向と浄土から還ってくる還相回向です。 この二種の回向について考える切っ掛けが、ここにはあるように思います。
しかしすでにこの文章は長くなりすぎました。回向については、後日を期すということにします。


2012.6.1
俳句

4月の「古墳群」句会の兼題の一つに「しゃぼん玉」がありました。
私の句は、つぎのようでした。

たまゆらを息ふきこみししやぼん玉

「たまゆら」というのは、漢字で「玉響」と書かれることもありますが、「ほんのしばらく」という意味です。 しゃぼん玉に息を吹き込むというのは、命を与えるということでもあります。 旧約聖書の創世記に、ヤハウェの神が「地の土くれから人を造り、彼の鼻に息を吹きこまれた。 そこで人は生きた者となった。」(関根正雄訳「創世記」)とあります。しゃぼん玉もそのように命を吹きこまれ、 しばらくの間空中を浮遊して、やがて弾けて消えてしまいます。 そういった風景を詠んだものです。
しかし、そのような観念的な思い入れは、どうも俳句表現には向いていないのかもしれません。この句、 句会においては、一人しか採ってもらえませんでした。 やはり俳句という器には似つかわしくない話題だったような気がしています。
それとも、類句があるのかもしれません。私だけが知らないだけ、ということもありえますね。 無知というのは、おそろしいもので、要注意です。
他の兼題に、「春光」があり、私の句は

蜘蛛の囲の春光滑る太さかな

蜘蛛の囲というのは巣のことです。強い春光に輝いて蜘蛛の巣が太く見え、それが風に 揺れると糸の上を輝きが移動して光を滑らせているように見える、といったようなことです。 これは話題にはのぼりましたが、採ってくれた人はいませんでした。 あとの好評の中で、蜘蛛の囲というのは、夏の季語だということを知りました。だから、 一つの句の中で春と夏二つの季が競い合っているということになります。
初心者の間違いです。それにしても蜘蛛の巣までが季題になっているとすれば、油断も隙もありません。 俳句、恐るべし。

席題は、花一般。
主宰の内田さんが一人静の花を持ってきて、花瓶に活けてくださっていました。
会場の外にでると、満開の桜。三々五々、外に出て行って桜の句を案ずる人も。桜の下では、光までが 色づいているかのようでした。
で、私の句。

白髪も桜の色に染まりけり

風のなぶる一人静の心揺れ

白髪の私としては桜の句に思い入れが。
一人静はいかにも空想の句で、われながら駄目句だなあと……。
いろんな工夫を凝らしてはいるのですが、相変わらず低い打率に低迷しております。

ついでに、5月の句会も紹介しておきます。
兼題に、「蛸」があり、

一人居(ひとりゐ)を蛸も好むや壺いびつ

「壺いびつ」というところに、一人居というものの持ついびつさを表現したつもりでしたが、 これも採られたのは一人。「壺いびつ」が一つの発見かと独り合点していたのが、通じませんでした。

席題に「母の日」が出て、

母の日や与謝野源氏の黴匂ふ

ところが、またまた同じ間違いを犯したのです。「黴匂ふ」も夏季語ということで、季重なりが指摘されました。 ふとそんな気もしたのですが、この俳句という器、何とも不自由なものですね。
ところで、この句、本当のところは、母の遺品にあったのは谷崎源氏の一揃いだったのですが、 語数が合わずに与謝野源氏としたのでした。


2012.6.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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