2012年12月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

朗読劇「ザネリの独白」(断片)

団塊世代の逃走

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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今年も「うずのしゅげ通信」をご愛顧いただきありがとうございました。
勝手気ままに書き散らしておりますが、毎号お読みいただいている方もおられるようで、 感謝にたえません。さらにいっそう内容の充実をはかっていきたいと思いますので、 今後ともよろしくお願いいたします。
よいお年をお迎えください。

2012.12.1
一人芝居「ザネリの独白」(断片)

いじめをテーマとする脚本をこれまでに何本か書いてきました。
「学ランの兵隊」「教室の壁は回し蹴りで」三人芝居「銀河鉄道いじめぼうし協会」腹話術台本「星にならなかったよだかと賢治先生」などです。
それらの中でもっとも新しい作品である「銀河鉄道いじめぼうし協会」が、 中学校の文化祭で上演されたということを、 先月号の「うずのしゅげ通信」に書きました。指導いただいた先生のお話では、 校内の優秀賞を獲得したということでした。
「銀河鉄道いじめぼうし協会」で取りあげられているいじめは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に描かれている 主人公ジョバンニに対するザネリのいじめを原型として、さらに過激化したものです。
「銀河鉄道の夜」の中で、中学生のザネリは、「もうすぐお父さんからラッコの上着がくるよ」 とジョバンニを揶揄します。
これはあきらかに言葉によるいじめそのものです。その言葉によるいじめを膨らませて、劇中ではさらに暴力的な いじめ、プロレスごっこを描いています。
「いじめぼうし協会」の劇では三場で、それから数年後、ジョバンニとザネリが対面します。 年を経て大人になったザネリは、 どうしていじめたのかというジョバンニの問いかけに、 「オレ、いじめてないじゃん」と応じます。このザネリの応答はいろんなふうに解釈することが できます。とっさの言葉を信じれば、ザネリにはそもそもいじめていたという 意識はなかったのかもしれません。それとも、当時からいじめているという意識はほとんどなく、 単にいじっているというふうに感じていたということです。これはありえることだと思います。
さらに一歩踏み込んだ解釈をするなら、ザネリも当時はいじめていることは分かっていた。 しかし、この程度のいじめはそんなにたいしたことではないと思っていたので、 年月が経つうちに忘れてしまった。
これまではザネリに虚偽の意識はありません。
しかし、ここからは虚偽の意識が混じってきます。それにつれていじめの陰影は徐々に濃くなっていきます。
ザネリは自分がジョバンニをいじめていたということは覚えていて、後ろめたい思いをもっているが、 有名人になった彼を前にそのことを認めるとまずいので、とっさにそんなふうな嘘が口をついて出た。 これは大いにありえることです。自分だったらこんなふうな振る舞いにでるにちがいない、という気がします。
しかし、それならわざわざジョバンニに会いに来たのでしょうか。そう考えると、この推理も絶対に 正しいとは言えないように思えます。
結局、ジョバンニに追求されて、「オレ、いじめてないじゃん」と応じたザネリの心理の実際のところは、 分からないままです。ただ一つだけ言えることは、ザネリは、ジョバンニに対するいじめを、 彼が思っているほどにそんなに 重要視していなかった、ということだけは 確かなようです。いじめという現象の特徴として、重要度のアンバランスということがあるように思われます。

そんなザネリが、ではカンパネルラのことをどう考えているのでしょうか。
「銀河鉄道の夜」の後半で明らかになるカンパネルラの銀河鉄道の旅の真相はこうです。 カンパネルラは、ケンタウルス祭の夜、舟から転落したザネリを、川に飛び込んで助けます。 そして自分は力つきて亡くなるのです。
それからの生を、ザネリはどのように生きたのでしょうか。 カンパネルラは彼にとってどのような存在であったのでしょうか。
そのことを考えてみたいと、一人芝居の脚本を考えています。
先月号の「車椅子寅次郎」に続いて、今回も、未完の脚本のほんの一部のみです。
自分自身の年齢を考えると、これからどれだけの脚本を書けるかわかりません。 だから、思いつくかぎりの筋書きを残しておこうと思います。そうすれば、それらの断片を発展させることで、 これからもいくつかの脚本を書き上げることができるかもしれないからです。
そんな断片に興味はないというかたは、読み飛ばしていただいてけっこうです。 こういった場で公開すべきものではない、という思いもあります。


朗読劇「ザネリの独白」(断片)

三人芝居「銀河鉄道いじめぼうし協会」の三場につながる場面からはじまります。
つまり、この芝居は、「銀河鉄道いじめぼうし協会」の三場から枝分かれした もう一つの劇ということになります。
だから最初の場面は、三場と同じように、舞台の背景に簡単なカンバス立てが置いてあり、 そこにジョバンニのポスターが貼られています。ポスターのジョバンニは、にっこりの微笑んで舞台を 見下ろしています。
ジョバンニは、大阪で、おそらくお笑い系の芸人として売れっ子になったらしいのです。
そして今回、地元で凱旋公演が開催されたようで、中学時代の同級生も公演を観にやってきます。 公演が終わった後、彼らが揃って楽屋にジョバンニを訪ねてきたところから、劇が始まります。

(ザネリが登場する。
ふしぎそうに自分の手を見つめる。)
ザネリ 「ジョバンニのやつ、オレが握手しようとすると手をひっこめやがった。そのときおかしいと 思ったんだ。他の同級生のやつらとはあんなに笑って手を握りあっているのに、 オレの順番がきたら、笑いがふっと消えて、 顔がこわばったように見えた。ジョバンニは高校を卒業するころに母親を亡くして、 姉さんを頼って大阪に出て行った。お父さんは、彼が中学を卒業する頃に外国で亡くなっていたから、 頼れる身内は姉さんしかいなかったらしい。 大阪に出てからは、同級生とも音信が途絶えてしまった。オレは同級生にジョバンニがいたということも ほとんど忘れていた。
オレは、高校を卒業したあと、タオルを製造する親父の会社にはいって働いていた。
仕事を覚えるのに忙しくて、ジョバンニのことを思い出す暇などなかった。
しかし、どんなに忙しくてもオレが忘れられないのは、忘れてはいけないのはカンパネルラのことだった。 詳しく説明しないとわかってもらえないと思うが、 オレが中学校三年生のときだ。八月のケンタウルス祭の夜、大川で小舟に乗って灯籠流しをしていたとき、 バランスを崩して川に落ちた。そのとき、同じ船に乗っていたカンパネルラが、川に飛び込んで おぼれかけているオレの腕を引っ張って、船の縁を掴ませてくれた。これでやっと助かったと 縁にしがみついたとき、同じように縁を掴んでいたカンパネルラの手がスッと離れていくのを見たんだ。 オレを船のところまで引っ張って来て、力尽きたんだ。しかし、オレは声で助けを求めることも出来なかった。 オレもほとんど気を失うほどに消耗していたから……。それから数時間してカンパネルラは、 少し下流で発見された。心肺停止、……。病院でそのことを聞いても、オレは言葉がでなかった。 自分のかわりにカンパネルラが死んでしまった。
どうして、そんなことになったのか、オレは自分の置かれた立場がりかいできなかった。
それで、おなじような経験をした人間を捜してみたが見つからなかった。 探し回ったが、すくなくとも身近には いなかった。そんな人間はそうざらにいるものじゃないのだ。
オレは苦しかった。なんでお前が生き残ったのだ。 カンパネルラの方がずっといい人間だった。お前が、川に落ちなければ、カンパネルラを死に追いやることも なかったのに、お前はカンパネルラを殺したようなものだ。 周りのものからそんな目で見られているような意識を拭い去ることができない。被害妄想だろうか。 いや、ちがう。みんなの目がいつもそんなふうな意味を投げかけてくる。
オレは苦しかった。広い世界にはきっとそんな経験をしたものがいるにちがいないと、 図書館の司書の先生に聞いても、どこにもそんな話はなかった。
オレは自分で苦しむしかないのかもしれない。それがカンパネルラの命を継いで行くことになる かもしれないと思った。しかし、そんなきれい事かという思いもまたオレを苦しめたのだ。
オレは、仕事に打ち込んだ。親父の鞄持ちをして仕事を覚え、十年で得意先周りをできるまでになった。 会社での身分は専務になり、従業員にもそれなりに認められるようになった。
そんな中で、カンパネルラのことを忘れたことはないが、 ジョバンニのことはほとんど思い出すことなどなかった。
ジョバンニは、疎遠になった同級生の一人にすぎなかった。
そんなジョバンニの消息が突然全国ネットのテレビ番組によってもたらされた。 大阪に出てからジョバンニがどんな職歴を辿ったかは 知らないが、いくつかの仕事を転々としたあと、吉本のお笑い芸人の養成所みたいなところに入ったらしい。 二十歳代のほとんどは下積みだったらしいが、 突然、去年の暮れあたりにブレイクした。関西だけじゃなく全国ネットになって、こんな地方にも名前は聞こえて 来た。いつも芸名だったから、はじめは半信半疑だったけど、 テレビの登場したあいつは、まぎれもなくジョバンニだった。
高校の同級生はチェーンメールを回して驚きを伝えあった。 あのジョバンニがピン芸人になったということだけでも驚きだ。 まして、全国ネットで売れているというのは、信じられないことだった。 しかし、ジョバンニが同級生と切れていたことは、彼のメルアドを知っているものがいなかった ことからも知れる。
驚きのチェーンメールが回ってから半年くらいして、ジョバンニの公演が地元のホールで開かれるという お知らせが広報誌に載った。同級生が有名人になるなんて、そんなにあることじゃないからね。 さっそく同級生から呼びかけメールが来て、みんなで応援に行こうと誘われた。 ジョバンニとはいつもふざけあったりした仲間だったから、何の躊躇もなくオレも賛成したよ。
ジョバンニの一人コントは、なかなかのものだった。全国版になるだけのことはあるとオレはねたましい気持ちで 認めざるをえなかった。単なるピン芸のコントではなく、 ちょっと捻ったコントに知的なオチがついていて、1時間ばかりを爆笑しながら過ごした。
たまたま町民ホールの支配人の息子が居て、 彼を通じてジョバンニに連絡したところ、ぜひ楽屋に訪ねてくれという返事をもらったらしい。 公演が終わって、同級生が楽屋を訪ねることになった。
ジョバンニは、公演を終えたばかりの上気した顔で同級生を迎えてくれた。
みんなジョバンニと握手をしていた。オレもジョバンニに近づいて、握手しようとした。 ところが、オレの順番が来るとジョバンニはふっと目を逸らしてしまった。握手をする手もひっこめて、 「ザネリ、お前も来たのか」って、顔を背けながら吐き捨てるように呟いた。おかしいなって思ったんだ。 なぜジョバンニがそんな素振りをするのか、オレにはまったく分からなかった。しかし、オレにはどうしようも ない、オレはただバツ悪く立ちつくしていた。しばらくワイワイやっていて、みんなが帰り始めたとき、 ジョバンニは、オレの体を押すようにして、楽屋の隣の狭い部屋にオレを押し込んだ。 そして、「なぜ、こんなところに来たのか?」って聞くんだ。
「中学生のとき、あんなにオレをいじめていたのに……」 っていうんだ。オレはびっくりしたよ。
「おれがジョバンニをいじめていたって? ぜんぜん、オレ、いじめてないジャン。……」
オレはそんなふうに答えた。そう言うしかない、全然心当たりのないことだからね。
最初は、ジョバンニは有名人になったのをいいことにオレに言いがかりをつけているんじゃないかと 思った。そこで、ふっと思いついたんだ。「ラッコの上着がくるよ」っていう言葉が浮かんだ。 あの、お父さんからラッコの上着がくるよってやつ、あれがいじめだと取られていたのかもしれない。
ジョバンニは、そんなふうに受け取っていたのかもって。それで 「ラッコの上着のことかい?」って聞いてみた。
ジョバンニは、曖昧に頷いただけ……、そうとも違うとも言わなかった。 しかし、あれのどこがいじめなんだい。
あれがいじめだったら、仲のいい友だち同士でいじりの遊びなんかできないってことになる。
友だち同士がからかいあって遊ぶってそういうことなんじゃないか。
ジョバンニはプロレスごっこのことも言い出した。そうだ、思い出した。ジョバンニとはよく 教室でプロレスごっこをして遊んだんだ。中二の頃はほんとうに仲がよかったからな。 ところが、あれはいじめだったとジョバンニはいうんだ。 ぜったいに忘れないって……。
不意に水をかけられたようで、オレは凍り付いてしまった。
……オレにとっては、ぜったいに忘れないことっていうのは、カンパネルラのことだ。
オレは、一度死にかけて、カンパネルラに助けてもらった。そのせいでカンパネルラは命を落としたんだから、 オレはカンパネルラに命をもらったようなものだ。
オレの命はオレのものじゃないんだ。オレの命はカンパネルラの命なんだ。
だから、カンパネルラには感謝しているよ。でもカンパネルラのことはカンパネルラのこと、 ジョバンニのことはジョバンニのことだよ。……そんなふうに思ってたのかって、オレはあいつの 顔を見返したよ。オレはいじめっこだったのか? あんなことを根に持って、ジョバンニはオレを ずっと恨んでいたのかって。
でも、もしかすると、……もしかするとそうだったのかもしれない、オレがあのことを過小評価しているのかも しれない。
その証拠と言っては、何だけれど、……あの事件の後、オレがジョバンニに 「お父さんからラッコの上着がくるよ」ってからかおうとすると、喉のところを 何者かが塞いでくるような気がした。何かが詰まって言葉がでなくなってしまうんだ。オレはふしぎだった。 それまではそんなことを考えたこともなかったが、誰かが口を閉ざそうとするんだ。 ……カンパネルラなのか?……、オレはそんなふうに自問してみた。カンパネルラは、ジョバンニに対して、 そんなことは 決していわなかったなぁ、って考えてしまう。すると、喉のつかえが取れていくような気がした。 やっぱりカンパネルラがオレを支配していたのだろうか。……それからも、似たようなことがままあった。 そして、決まって誰かの声が『ザネリ、なぜ自分が生き延びたのかを考えろ』ってつぶやくんだ。 だから、オレは、そのころから「ラッコの上着がくるよ」って、ジョバンニをいじったことはない。 ……カンパネルラから命をもらって生き延びたっていうことは、そういうことかもしれない。 オレは、カンパネルラには感謝し続けなければならないとは思っていたけれど、それでオレの生き方がどうこう されるってことはないと思っていたけれど、……そんなふうに割り切ろうと考えてきたけれど、 もしかしたら、カンパネルラは、そんなふうにオレの中で生きているのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


2012.12.1
団塊世代の逃走

「うずのしゅげ通信」10月号に掲載した落語台本「還暦赤紙」の主なメッセージは、 団塊世代は逃げおおせるか、 という自分なりの強迫観念のようなものを伝えることにありました。
何から逃げおおせるかというと、たとえば日本経済の破綻から逃げおおせることができるか、そして 現在の年金生活を全うすることができるかどうか、という危惧であり、 また、医療制度の破綻から逃げおおせることができるか、そして幸せな最期を迎えることができるか、 という怖れであり、 また、戦争を知らない世代として育って暴力的なものから逃げおおせることができるか、そして 平和ボケとまで言われる安穏な生活を最後まで全うすることができるか、といったような危機感なのです。

(もっとも、この強迫観念を文字通り取ってもらっては困るのです。こういった言い回しの中には、 自分自身も属する団塊世代を少々揶揄(?)する思いがあってのことなのですから。)

多田富雄「わたしのリハビリ闘争」を読むと、医療破綻から逃げおおせることはなかなかに難しそうだと 観念せざるをえないような気にもなります。
2006年の小泉改革によって、リハビリの上限が180日と限定されたのです。
多田富雄さんは、晩年、脳梗塞に襲われれ、右半身麻痺、言語障害、 嚥下傷害などのためにリハビリを受けておられたのですが、 期間の限定により、リハビリを打ち切られてしまったのです。

「二○○六年(平成一八年)四月の厚生労働省による保険診療報酬改定によって、 保険診療で受けられるリハビリが、一部の例外を除き、最長でも一八○日(六ヶ月)で打ち切りにされる。 傷害を負ったものの最期の頼みを打ち切る乱暴な改訂である。
これは患者負担の増加といった生易しい問題ではない。治療を必要としている患者を、直接に 保険対象から外すという、保険制度始まって以来初めての患者「切り捨て」が行われたのである。 治療を拒絶され、行き場を失った患者は、医療難民と呼ばれる。
これを契機として、今後さまざまな慢性疾患の保険診療に、日数制限が設けられることは必至である。 高騰する医療費を削減するのが目的というが、リハビリの報酬は、全医療費の一・四パーセントに過ぎない。 国は訴えることのできない障害者を、狙い撃ちしたのだ。」

多田さんの怒りや思い知るべし。朝日新聞への投稿を契機に賛同者によって署名運動がはじまり、何と 二ヶ月で四十八万もの反対署名を集めたのです。 署名は、厚労省に提出されましたが、めぼしい変化はないようです。
このリハビリを制限する診療報酬制度反対を、多田さんは、病状によっては死の宣告に等しいものであり、 それゆえに医療制度を破壊に導くものであり、また人権侵害そのものだと断罪されているのです。
医療費削減といった名目で、患者切り捨てが始まっているのです。
(医療のリハビリから介護のケアへ、という方向が受け皿として残されていますが、 リハビリの質が違っているのは明らかです。)
団塊世代が還暦を迎える前でさえそんなありさまですから、彼らがほんとうに医療が必要になる 2020年から30年には医療費がかなり膨らむことが予想されます。そこで、医療費を破綻させないために という立て前で、どのような老齢患者の切り捨てが行われるのでしょうか。 想像すると身震いするほどです。
団塊世代は、そのような医療切り捨てから逃げ切ることが出来るのでしょうか。 とても、不可能な気がします。なぜならこれらの改正はすべて団塊世代をターゲットにしたものだからです。
このまま放置すれば、団塊世代は、病院から閉め出され、家庭介護を余儀なくされ、 そこで十分な緩和医療も受けられないまま 最期を迎えなければならない、そんな未来をリアルなものとして思い描いてしまうのは私だけでしょうか。


2012.12.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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