2013年6月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

成年被後見人の選挙権

小田実、今こそ旬

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2013.6.1
成年被後見人の選挙権

公選法が改正されて、成年後見制度の適用を受ける被後見人に選挙権が与えられることになるようです。 よろこばしいことですが、考えるまでもなく当然と言えば当然の措置ではないでしょうか。
退職する前、私は高等養護学校に勤務していたのですが、そこでは社会科で選挙のことも教えていました。 知識としてではなく、生徒会の選挙を教材にして、候補者をどんなふうに選べばいいのか、どんなふうに 投票するのか等々、それは社会人になって投票にいったときまごつかないための予行練習そのものでした。 当然のことですが、高等養護学校の卒業生は選挙権があります。 ところが将来、親が高齢になって成年後見制度を受けるようになったとき、 彼はそのために選挙権を失うことになるのです。これはどう考えても理不尽なことのように思われます。
成年後見制度の適用を受ける人間は、選挙権というものの行使がむずかしいだろうから、 選挙権を認めない、というのは官の側からのあまりに傲慢な決めつけではないでしょうか。
公職選挙法第11条「選挙権及び被選挙権を有しない者」の最初に挙げられているのが、成年被後見人 です。他の項は犯罪などにかかわったために選挙権を一時的に失っている場合です。 成年被後見人の場合は、後見を受けているかぎり半永久的に選挙権を奪われることになります。
つまり人間としてのありようによって選挙権を剥奪されているのです。これは 基本的人権の侵害そのもののように思うのですが、どうなのでしょうか。

ことは、彼らだけの問題ではありません。私たちは、たとえば認知症になっていつ 成年被後見人になるやもしれません。 そういった場合、選挙するといった基本的な権利を奪われても甘受するというのでしょうか。

選挙権が民の人権そのものであるということを軽んじて、お上が与えるものであるといったような 錯覚、あるいは思い上がりが官の側にあるのではないでしょうか。
今回の経緯を見ていると、人権侵害があったときにやはり頼りになるのは憲法だ、最後の拠り所は 憲法しかない、という感慨が浮かびます。
その憲法がしっかりしていないとどうにでも解釈されてしまいそうです。

日本国憲法を、いま改正(改悪?)しようという動きがあります。 たとえば、その改正によって人権に条件が付けられたとき、ほんとうにわれわれが頼るべき憲法でありつづける ことができるのでしょうか。
私は、戦後生まれの団塊世代ですが、私たちの憲法への信頼は、ふり返ってみると、 たとえば人権が侵害されたとき、憲法が拠り所になってくれるだろうというところにあったように思われます。 憲法に護られていたわけです。

いまの改憲の策謀は、行き着くところは憲法九条にあるようです。
自民党の日本国憲法改正草案では、自衛隊を国防軍にすると明記されています。 国防軍ということになって戦争に参加するということになれば、 人員を確保できなくなったとき、徴兵制だって考えられます。誰かが言及していたように、 そうなると軍法会議も復活するにちがいありません。
兵隊にいきたくないものにとって、徴兵されることは、ある意味で、最も苛酷な人権侵害と言うことも できます。命まで奪われかねないからです。
では他国に侵略されて命を奪われる方がいいのかと、たとえば北朝鮮を念頭に置いた論理で 攻め込まれるのはわかっています。
そういった論理のもとに九条改正を望む声がかなりの割合であることも知っています。
しかし、そういったパワーポリティックスを踏まえたかにみえる自称リアリストの論理は、 本当にリアルなものなのでしょうか、 それしかありえないものなのでしょうか。
小田実の言うように、軍事力同士の衝突は、現代世界のあちこちで行き詰まっているのではないでしょうか。
それでもなおかつもし九条の改正が過半数を超えて認められるようなことがあれば、 これも小田実のいうように、せめて良心的徴兵拒否の制度は担保されなければならないと思います。

以前にもこの「うずのしゅげ通信」(10年6月号、13年1月号)に書いたことがありますが、 三年ばかり前、書棚を整理しているとき、 父母が遺していった本の隙間に「官報号外 日本国憲法」という薄っぺらな冊子を発見したのです。 かなり古びて変色していて、触ると崩れそうですが、まだまだじゅうぶん読むことができます。

予備役から招集され、結局中国戦線で通算8年も兵役に服したあげく、貫通銃創を手みやげ代わりに 着の身着のままで中国から引き揚げてきた父は、この「官報号外」をどんなふうに読んだのでしょうか。 また、父を迎えて私を身ごもった母は、手にした「日本国憲法」に どんな未来を思い描いたのでしょうか。
残しておこうという意志をもって本に挟んだのだろう両親のそのときの気持を考えると、この古びた冊子、 あだやおろそかには扱えません。 大切に保存してゆきたいと思っています。


2013.6.1
小田実、今こそ旬

先月号の「うずのしゅげ通信」に小田実について、「小田実、今でしょ」 という文章を書きました。
あまり考える時間がなくて、引用でごまかしたような文章になってしまったので、あらためて 小田実について考えてみようと思います。
小田実は、「生存の条件」(「市民の文(ロゴス)」所収)の中につぎのようなことを書いています。
二十一世紀はじめのころ、西宮市での公演を依頼された小田実は、 集会の名称に添えられた「憲法は今でも旬です」という 言葉にひっかかります。彼の思いとしては、 「今でも旬」ではなく、「今こそ旬」というべきだろうと言うのです。 私もまた彼の言うとおりだと思います。憲法は「今こそ旬」です。
そしておなじような意味合いにおいて、小田実はすでに亡くなってはいるのですが、 彼もまた「今でも旬」ではなく、 「今こそ旬」というべき存在であるように思います。
そういう意味を込めて、先月号では 「小田実、今でしょ」という文章を書いたのです。彼は、今後ますます重要性を増してゆく作家、 思想家であると、私は信じています。
では、なぜ、小田実亡き後数年が経とうとしている現在、なお「今こそ旬」だと考えるのか、 そのことを現在の二つの問題に彼の思想を応用することで考えてみたいと思います。
一つは尖閣列島の問題です。もし仮に日本が、国防軍という形で武装力を強めて、力で中国に 対峙しようとしたとき、どのような事態が起こるでしょうか。 たとえば、パレスチナとイスラエルのような武力対立の泥沼に陥らない保証はありません。
小田実は、この問題についてつぎのように書いています。

「今、世界では二○○一年九月一一日のアメリカ合衆国での「同時多発テロ事件」以来、 それにわる乗りしてのテロリスト、テロリスト国家撲滅の大義名分をかかげて、 ブッシュ政権のアメリカ合衆国がアフガニスタン戦争、イラク戦争と二つの「正義の戦争」 をやってのけたあとの泥沼情況、あるいはまた昔年のパレスチナ・イスラエルの対立関係が イスラエルのアメリカに強力に支持された力のゴリ押しで破局にまで来た事態−−というぐあいに 武力衝突、殺し合い、戦争がつづきにつづいて、武力、暴力の行使では問題の解決はできない、 非武力、非暴力によってしか、つまり、「平和主義」に基づいてしか解決できないところまで事態が 来ている。とすると、その「平和主義」を基本の原理としてできあがった「平和憲法」は「今こそ旬」 のときに来ている。」「生存の条件」(「市民の文(ロゴス)」)

尖閣が、パレスチナ・イスラエルになるとき、多くの犠牲をともなった 武力衝突の泥沼化をもたらすことは想像に難くありません。
現在の世界を見まわしても、暴力でカタがつかないような紛争があちこちにあります。
そういった情況に業を煮やして、小田実は、日本は「平和主義」を掲げて、たとえば「ノルウェーが仲介して成立した 「オスロ合意」」のような「東京合意」をどうして斡旋できないのか、という提言をしています。 憲法の「平和主義」によって前例の「ない」ものを「ある」ものにする気概をもてと。
そんな小田実の想像力の射程が、 尖閣の問題にまで及んでいることは確実です。

もう一つ、福島の原発事故について考えてみたいと思います。
小田実は、「市民の文(ロゴス)」の「始めに」という文章の中で阪神・淡路大震災に触れて つぎのように書いています。

「人間を殺し、住居であれ橋梁であれ高層建築であれ工場であれ、人間のいとなみを根こそぎ 破壊することにおいて、空襲と震災は似ている。どちらもが一方的な殺戮と破壊だ。震災の被災 体験のなかで、私の戦争体験−−空襲体験の記憶はよみがえって来た。(中略)
しかし、よみがえって来たのは、殺戮、破壊そのものの記憶だけではなかった。殺戮破壊に対する 日本の政治の対応において、戦争と震災はよく似ていた。その酷似を一言でまとめ上げて言えば、 「棄民」だった。「阪神・淡路大震災」の被災者に対して、政治は「自助努力」による復興を しきりにうたい上げたが、復興に必要な資金の援助は市民が拠出した「義捐金」に頼るだけで、 アメリカ合衆国を始めとして他の「先進国」ならどの国もやっていた公的援助は一切しなかったし、 しようともしなかった。
私は戦争中の事態を思い出していた。日本政府は空襲にそなえて防空壕を掘れと言ったが、 そのために必要な資材はショベルもスコップも、釘も板も何ひとつ供与しなかった。(中略)
後年、ドイツで暮らすようになった私は、各地で、「ブンカー」と称する鉄筋コンクリート製の巨大、 頑丈な防空壕ならぬ防空建物に出会った。「ナチ・ドイツ」政府はユダヤ人や「反ナチ」のよからぬ ドイツ人を殺したあと、その強固な建物をつくり、「善良」な市民をそこに入れて、彼らを空襲から 護った。日本政府は「善良」であろうとなかろうと、市民を一切護ろうとしなかった。」 (「市民の文(ロゴス)」(岩波書店))

私はこの一節を読んで、自分たちの村から追い出された福島の人々のことを連想せずにはおられませんでした。 彼らには、あのとき、放射能を防いでくれる「鉄筋コンクリート製の巨大、頑丈な」建物もなく、 そのために放射線に曝され、内部被曝し、また住み慣れた家を追われ、村を追われ、不自由な仮設住宅に住むことを余儀なくされ、 そのあげく、生活を再建するにはあまりに些少な保証金でもって、 見捨てられようとしているように見えます。まさに小田実の言う「棄民」そのもののような気がします。 空襲や原爆で焼け出された人々と同じように、原発の被災者もまさに「棄民」されて泣き寝入りする しかないのでしょうか。

一方、政治の世界では、福島をそっちのけで(いつも福島に寄り添っていますよという ポーズはとりつつ)改憲に奔走しているようすなど、まさに棄民されたとしか言いようがありません。

小田実亡き後、小田実の応用問題として現代の問題を考えようとしたとき、その手応えの確かさに、 まさに「小田実、今こそ旬」との思いを強くするのです。
そんな思いもあって、このふた月ばかり、小田実の九十年代以降の著作を読み続けているのです。


2013.6.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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