2013年7月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

菅原千恵子「宮沢賢治の青春」

官報 號外 「日本國憲法」(続々)

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2013.7.1
菅原千恵子「宮沢賢治の青春」

菅原千恵子「宮沢賢治の青春」−”ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって−(角川文庫)を読みました。
賢治にとって、あるいは賢治の文学にとってと言い換えてもいいかと思いますが、 保阪嘉内がいかに重要なキーパーソンであるかということを再認識させられました。
本文は三部構成で、第一部が、第一章「賢治と保阪嘉内の出合い」、第二章「友愛のステージ『アザリア』」、 第三章「激しく揺れた手紙の青春」、というふうに賢治と保阪嘉内の交流が描かれています。
第二部が、第四章「訣別のあとで」、第五章「『春と修羅』の中に生きる保阪嘉内」、第六章「教師から農民へ」、 第七章「晩年」という章立てで、賢治の生涯をたどり、その文学の中に保阪嘉内の痕跡を探って、 保阪嘉内という光源から 賢治の文学を照射したとき、賢治のわかりにくさがどのように解明されてゆくかを論述しています。
第二部も納得するところが多いのですが、私としては、 最後に置かれた第三部の第八章「『銀河鉄道の夜』は誰のために書かれたのか」をもっとも興味深く読みました。
まずは、賢治の生涯について、

「数多くの人がとりあげ、語り尽くしたかに見えた賢治の生涯も「ただひとりの友」保阪嘉内の存在を 縦糸にして織りこんでみると、今まで極めて不鮮明であった模様−表現したかった部分−がくっきりと 浮き彫りにされ、賢治の迷いと悩みの三十七年の生涯が、その息づかいとともに鮮やかに迫ってくる」

とその狙いが記述されています。
第二部で採り上げられていた『春と修羅』など賢治の詩には難解なものがおおくあります。
それらの詩について、

「賢治の最も親しかった僚友藤原嘉籐治にさえ「おれの詩は君にだってわからないだろう」と言い切って いるように、ただ一人の人物を除いた以外には決して理解されないように、用心深く、心の内を隠していた」
というのです。
ここに言う「ただ一人の人物」というのは、もちろん保阪嘉内のことです。

そしてここからが『銀河鉄道の夜』の解明です。
これまで、カンパネルラは、早世した妹トシと重ねて論じられることが多かったのですが、 トシだけではなく、「賢治と嘉内の別れ」が描かれているというのが、著者菅原千恵子さんの言いたいこと のようです。
菅原さんは、 『銀河鉄道の夜』こそは賢治が終生、嘉内に送り続けたラブコール」であり、告白だと言い切っています。

「『銀河鉄道の夜』を支えるテーマが、じつは、人々の幸いを求めて一緒にどこまでも行こうと言いあった ジョバンニとカンパネルラという二人の少年が、旅の途中で、しだいに重なる微妙なズレから結局別れてしまい、 ジョバンニがこころざし高く抱きながらも、一人の孤独をかみしめるところにある」

この経緯が、「賢治と嘉内の青春の姿に奇妙なほど類似して」いるというのです。
賢治と嘉内との交流から『銀河鉄道の夜』に注ぎ込まれたイメージ、ことばを例示しながら、 ジョバンニとカンパネルラの関係を精査してゆきます。
たとえば、「銀河」のイメージ。
『銀河鉄道の夜』では、最初の授業の場面で銀河のことが出てきます。
そこで暗示されているように、賢治と嘉内には、共通の銀河の思い出があったのです。 大正6年二人が盛岡高等農林学校で同人雑誌「アザリア」 を始めた頃、いっしょに岩手山に登っています。
そのときの銀河体験を賢治は嘉内に書き送っています。

「銀河がしらしらと南から北にかゝり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐた。」

「あなたとかはるがはる一生懸命そのおきを吹いた。銀河が南の雲のきれまから一寸見え沼森は微光の底に 眠ってゐる。」

このようにして、菅原さんは、『銀河鉄道の夜』の授業の場面で暗示されている かつてカンパネルラとジョバンニの二人が見た銀河というのは、 じつは、嘉内と賢治が岩手山で見上げた銀河の記憶が反映しているというのです。
その他にも、嘉内と賢治との交友から生みだされたイメージやことばを賢治文学に多く 見いだすことができると言います。

「「ひとびとのさいはひ」や「ほんとうの神さま」や「赤い電信ばしら」や 「天の川の孔」などは賢治と嘉内の間にしか通じない暗号のようなことばであった。」

菅原さんは、そんなふうにそれらのことばやイメージが二人の交流に由来することを実証しておられて、 私もまた深く納得するところがあったのです。
その他には、たとえば、 「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだらうか」とカンパネルラが突然吐露することばもまた、 自身の退学という不始末の渦中で母を亡くした保阪嘉内のことばとして解釈してはじめて 信憑性をもつと、そう言われればそんなふうに解釈するしかないような気持にもさせられます。
この本によって、私の『銀河鉄道の夜』のイメージがより膨らんだような気がします。
それだけ新しい知見の含んだ内容だったということなのかもしれません。

最後に一つ、私の、それでも解けない謎について。
私には、『銀河鉄道の夜』に登場するカンパネルラの父はずっと謎の人物でした。
自分の子どもの生死がわからないという情況で、あの冷静さはないだろうという違和感を拭えないのです。 あんなふうに振る舞う父親のイメージはどこから発想されたものなのかを知りたいと思ってきました。
カンパネルラに保阪嘉内が投影されているとすると、 カンパネルラは嘉内の父親のということになるのですが、嘉内の父親がどのような人物なのか分かりません。 調べてみたのですが、はっきりしません。いくら宮沢賢治については調べ尽くされてきたといっても、 そこまでは及ばないようです。 保阪嘉内の父親は善作という名前のようですが、どのような人物だったか、資料を見つけることが できませんでした。
あるいは、カンパネルラと彼の父親とは、まったくその発想の出自を異にしているのかもしれません。 カンパネルラが嘉内に比定されたとしても、カンパネルラの父親はそれとはまったく関係なく、 例えば賢治の農学校時代の恩師の人物像が切り取られて、 当て嵌められた可能性だってあるのではないでしょうか。
どなたか、賢治の周辺にカンパネルラの父親に似ている人物に心当たりがありましたら、 教えていただきたいと思います。


2013.7.1
官報 號外 「日本國憲法」(続々)

父母の書棚から、官報 號外 『日本國憲法』が出てきた経緯は、 「うずのしゅげ通信」(2010年6月号)に報告しています。
それを受けて、今年の1月号に「官報 號外 「日本國憲法」(続)」を書きました。
「官報 號外 「日本國憲法」が私に向かってしゃべり出して、そこに 紙魚も加わるという奇想天外な内容になっています。
そのときの憲法議論は紙魚の退場で幕を閉じたのですが、 最近、官報 號外 『日本國憲法』を縁側で虫干ししていると、またしても 変色した表紙がかすかに振動して鉱石ラジオのような声が聞こえてきたのです。
「しばらくぶりじゃの、どうじゃ、あれから「日本國憲法」について勉強したかな?」
ファイルからいまにも崩れそうな官報 號外 『日本國憲法』を取りだして、縁側に並べていると しわがれた声が呼びかけてきました。
「いやあ、世の中、ますます憲法改正の議論がさかんなので、それなりに勉強せざるをえないですよ。」
私は、官報 號外 「日本國憲法」をそっとめくってみました。すると、紙魚が冊子の綴じ目から顔を出して、 ちょろっと動きました。
「おい、おい、まぶしいじゃねえか。」
「やあ、しばらく……、あいかわらずここをねぐらにしてるんだね。」
私は、気安く応じました。
「おっと、気安いじゃねぇか。アッシは、官報 號外 『日本國憲法』を住みかとする紙魚(しみ)でござるよ。 もうちょっと口の利き方を考えてもらえないかな。」
「ごめん、ごめん、わかりました。じゃあ、まあ、しばらくまぶしいのはガマンしてもらうとして……。」
「で、どんなことを勉強したのかな?」
「どうして、あのとき、憲法を変えたのかということが、加藤陽子さんの『それでも、日本人は戦争を選んだ』 を読んで、ようやく分かったのです。」
「どういうことなのじゃ?」
「加藤さんは、こんなことを書いておられます。

〈戦争で膨大な死者が出ると、社会は緊張を強いられ、戦後に大きな変化が生じることになります。 基本的な社会契約が書きかえられなければならない。〉

基本的な社会契約というのが、憲法のことなんですよね。」
「そのとおりじゃろうな。」
「日本は、『大日本帝国憲法』のもとであれだけたくさんの死者を出した上、都市の多くが灰燼に帰しました。 『大日本帝国憲法』の元に国家は、これだけの犠牲を国民に強いたわけですから、戦後「社会は緊張を強いられ」 憲法を書きかえなければならないという風潮があらわれるのは当然のことのように思われます。 その風潮の中から「日本国憲法」が起草されたと考えるのが自然な流れのように思われます。」
「犠牲を強いられた国民の鬱積から、憲法書き換えの要求が出てこなければならんということじゃな。」
「それについても調べました。
ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』にこんなふうな叙述があります。
SCAP(連合国軍最高司令官)は、『1945年10月までには、日本側にたいして、 憲法を改正すべきであると、公式・非公式のルートを通じて伝えていた。』
つまり切っ掛けは占領軍にあったということですかね。ちょっとふがいない気がしますが、あんまり 徹底的にやられたので、すぐにそういった動きをとるまでにはいたらなかったということでしょうか?」
「どうもそうらしいなぁ、それにしても、なんとも情けないことじゃ。」
「日本国政府は、どうしとったんでござるか?」
紙魚が口を挟みました。
「紙魚さんのようにさっさとは動かなかったようです。
ダワーさんの本には、占領軍からの働きかけにたいして、 『民衆がたちまちアメリカの意向を理解したということであった。』
と書いておられます。民衆が、気づいたということですよね。
『私的グループや政党がすすんで憲法草案を作成・公表した。 そのなかには驚くほどリベラルな内容のものもあった。
(中略)
これとはまったく対照的に、日本政府はカメのように動きが鈍く、アメリカ人たちが何度ポツダム宣言 の文言をくりかえしてもその意味を理解しなかった。』
民衆は、変わり身が速かったけれど、政府は、そうもいかなかったと……。」
「民衆が、機敏に反応したということは、そういう機運があったということじゃろうなぁ。」
「おそらくそうでしょうね。あれだけの犠牲者をだしたんですから、そのままですむはずがなかったということ でしょうね。」
「政府は、右往左往するだけで、何にもできなかったということか。ちぇっ、なさけねぇ。」
「おまえとおなじじゃのう。」
紙魚の偉ぶったことばを官報 號外 『日本國憲法』がたしなめました。
「でも、最近(2013.6.8)毎日新聞に載った保阪正康さんの論文によると、当時の首相であった幣原喜重郎が マッカーサーと懇談して、その結果マッカーサーが戦争放棄や象徴天皇制を提言したというから、 あながち右往左往していただけとは言えないようにも思います。」
「政治家個人の動きはいろいろあったじゃろうが、いちばんの要諦は、国民があたらしい憲法を望んで いたということじゃ。それを押しつけられたと言ってはいささか語弊があるように思うのじゃが……。」
「私もまだまだ不勉強なので、もっと調べておきます。また、つぎに虫干しするときのは、 そのことを報告します。」
私は、官報 號外 『日本國憲法』をそっとファイルに挟みながら、変色した號外冊子に約束しました。
「あーあ、それまで、オレはこの『日本國憲法』を住まいにして、少しずつかじりながら、 番をしておいてやらぁ。」
ファイルの中から、そんな紙魚の声もかすかに響いてきました。
(この稿、続く)


2013.7.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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