2013年10月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集
東日本大震災の衝撃
劇雑感
文庫本「賢治先生がやってきた」
「うずのしゅげ通信」バックナンバー
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2013.10.1
東日本大震災の衝撃
東日本大震災を経験して生き方が変わったという人が多くおられます。
家族や友人を失った悲しみの映像に接して、
あらためて大切なものに気づかされたということもあるかもしれません。
私はというと、被災者の悲しみに心をかき乱される一方で、覚めた意識もあって、
「人はこんなふうにして亡くなっていくのか」といった感慨に浸ってもいたのです。
因果とか因縁といった抹香臭い考え方が、あの津波の映像によってきれいさっぱり拭い去られてしまったような
感じがあったからです。
大切な人を亡くしたとき、呵責のあまり、つい自分の過去に因果を探ってしまうのがわれわれの
常なのではないでしょうか。私の場合もそれに近い心の動きに悩まされてきました。
しかし、今回の津波の映像は、遺されたものを呵責する遠い因果やら因縁というものが、
自然の条理からかけ離れた、人間の弱さに由来する、
さらに平時だけに通用するものでしかないことを明らかにしたのです。
「明らめる」ことは、「諦める」ことです。(岩波「古語辞典」)
不謹慎の誹りを免れないかも知れませんが、
そういう意味合いにおいて、私は、あの映像の圧倒的な迫力によって、
罪の意識から解放されたような気がします。
もっとも、私の場合は、それなりの時間が経っているからそう言えるのだろうと思います。
今回家族を失った方々は、まだまだ救いえたかも知れない情況を思い浮かべて、
呵責に呻いておられるにちがいありません。
津波被害から立ち直ってゆく励みとして、「絆」という言葉が世の中に蔓延しました。
また「絆」の現世の形として、村社会、共同体といったものも見直されているようです。
しかし、その見直しは、実は「大震災の前から」はじまっていたのではないかと、内山節さんが
「文明の災禍」(新潮新書)の中で指摘しておられます。
海外からも賞賛された被災者の秩序ある行動にその一端があらわれているというのです。
それは、戦後の社会とその行き詰まりを、つぎのように分析した上での指摘なのです。
「戦後の日本は急速に個人の社会へと移行していった。個人の形成、個人の自立が戦後の基本的な価値基準で
あったと言ってもよい。だがこの個人の社会にほころびがみえはじめたとき、人々は再び関係の結びなおしや、
コミュニティ、共同体の創造について語りはじめた。私はこの変化は、新しいものの発見によって促進された
のではなく、私たちの精神の奥に人間の生き方としてもちつづけられていたものが、
個人の社会のほころびという
現実を前にして、前面に出直してきたのだと考えている。」
そして、「東日本を襲った大災害の前から、私たちの社会は現代文明のみなおしに着手していた。」
と断じておられるのです。
過去の、例えば関東大震災では、大衆は暴発的に多くの在日朝鮮人を虐殺するという過ちを犯しています。
それに対して、今回の場合は、
「実の多くの人々が直接的なボランティア活動への参加を希望し、実に多くの義捐金が集まり、またほとんどの
人たちが応援できることがあるならしたいと考えている。」
そういった情況が見られたというのです。
「日本の社会はすでに変化していたのである。近代的世界の問題点を克服していこうとする模索が、
いろんなところで展開しはじめていた。他者とともに、他者のために生きようとする価値観が、
私たちの社会には芽生えていた。その価値観が新しい共有意識として少しずつ定着しはじめていた。」
「「自利」の虚しさと「自利」によって破壊された社会、このふたつの現実を感じとったとき、高度
成長期以降の世代の人たちを中心にして「利他」への共感が芽生えていったのである。自分のために
生きるとはどうすることなのかはよくわからないが、他者のために生きるということなら、
どうすればよいかはわかる。何かで困っている人には手を差しのべればよい。自然のために自分ができる
ことを考えればよい。これも他者のひとつである町や村のためになることをすればよい。歴史や文化を
守ったり創造したりするためには、自分はどうしたらよいのかを考えればよい。」
現代社会が見直しの時期に来ているというのは、私もそう思います。
しかし、その証しが、ボランティア活動や義捐金にあるというのは、どうなのでしょうか。
日本人は、一方で暴発の方向にも、また他方、こういった共感的な方向にも流れやすい気質を
伏流させてきているようにも思えます。
そのことの真偽は、これからの社会動向を見極めていけばいいとして、
私がひっかかったのは、内山節さんがここで言われているコミュニティとはどのようなものだろうか、という
ことです。
それが、かつて日本にあった村社会そのままであるのなら、私は、いささか疑問をもたざるをえません。
なぜなら、古い村社会に生まれ育った私には、そこに自分には馴染まない多くのものがあるのを
感じてきたからです。
明治以来、早く目覚めた青年たちが苦しんできた村社会との葛藤の歴史といったものは、どうなるのでしょうか。
未来は共同体にあるといわれても、疑問を感ぜざるをえないのは、そういった思いがあるからです。
もちろん内山さんがいわれる共同体は、現存の村社会そのままではないことはわかります。
内山節さんは、その共同体について、つぎのように述べておられます。
「だがこれからの社会をつくりなおしていく上で必要なのは、開かれたコミュニティである。外の
人たちとも結ばれ、お互いに関係を共有しあっているようなコミュニティである。
これは「集団」という言葉で語るより、「集合」という言葉を用いた方がよいのかもしれない。
結びあう関係がひとつの集合をつくる。それは人間たちの集合であるときも、自然と人間の集合で
あるときも、さらには生者と死者と自然の集合であるときもあるだろう。この集合は
関係が失われれば離散する。一人の人間が複数の集合的関係とかかわっている。そういうものを
基盤にしながら、存在の確かさが感じられるような社会をつくっていく。」
しかし、被災地において現実に復活しつつあるのは、古い村社会そのもののように思われます。
それが悪いということではなく、それが現実だということです。
根強い実体を持っているのは、古い村社会そのもの、それしかないのです。
そういった村社会は、確固としてそこにあるのですから、それを復興の過程でどのようにして
「開かれたコミュニティ」に変えてゆくのか、
そういうふうに考えるべきだと思うのですが、どうなのでしょうか。
2013.10.1
劇雑感
秋は文化祭の季節ということで、9月に入って上演の申込みがいくつか寄せられました。
「銀河鉄道いじめぼうし協会」:神奈川県 松田町立寄(やどりき)中学校
「ホームレス、賢治先生」:北海道 小清水町立小清水中学校
「パンプキンが降ってきた」:兵庫県宝塚市雲雀丘学園小学校
下の二つの脚本は、初演ということになります。
生徒会の執行部で演じたり、クラスで取り組むなど、さまざまな形があるようですが、
上演していただけるというのは、何にしてもありがたいことです。
公開している脚本の中には二種類あります。
自分で演出、上演した結果できあがった脚本と、たんに書きおろしただけの脚本です。
前者は、生徒たちに演じてもらう過程で、
不自然なセリフや動きは削ったり書きかえたりしていますので、そんなに無理なく上演できるはずです。
しかし、後者、書き下ろしただけの脚本は、セリフに命が吹き込まれたこともなく、
また実際の動きを確かめたこともないので、いくつものこなれないセリフや動きが潜んでいる可能性があります。
だから、そういったところを生きたセリフや動きに書きかえていただかねばならないと思います。
私自身としては、改稿されることに抵抗はありません。
自分自身、脚本の初稿を、演出しながら、書きかえ書きかえして、上演稿を完成させてきたからです。
いまそれができない私としては、演出の先生や生徒さんにおまかせするしかないのです。
そのようにして少しでもいい舞台ができあがり、演じることが演者に何かをもたらし、
観客もまた楽しめるような劇になれば、
私にはそれにまさる喜びはありません。
閑話休題
教師生活で何か一番楽しかったか? と自問自答することがあります。
特別支援学校(養護学校)での勤めは、楽しいことが多かったのですが、
今でも実感として残っているのが、劇がはじまるときの緊張感です。
体育館の中が暗くなり、
さあ幕が上がるという刹那、緊張の膨らみ、暗闇のわくわく感……。
私が最後に勤務していた高等養護学校の文化祭では、学年全員(50人くらい)で一つの劇を演じていました。
劇の数が少ないので、各学年の持ち時間は50分もありました。
現在の学校では、持ち時間が15分とか聞きますので、
恵まれていたのでしょう。
50分もあると、かなりの内容を盛り込むことができます。というより、
内容のしっかりしたものを計画しないと持ちこたえることができないのです。
私のように劇好きの教師にとっては、それだけやりがいもありました。
文化祭の準備期間は一週間ほどで、生徒たちは、その間、劇の練習、展示と模擬店の準備など一人で
何役もをこなします。
練習がはじまる最初の日に、生徒を集めて台本の読み合わせをします。
生徒を何人かピックアップして役を振り、その他に教師にも適宜役を割り当てて、みんなの前で
台本を読んでいきます。
読み合わせで印象に残っているのは、吉本新喜劇風どたばた劇、
パロディ「モモ」を読んでいるときのことです。
日ごろまったく口をきかず、ほとんど感情を表すこともない緘黙の生徒が、
モモが時間泥棒と戦うどたばた場面で笑いをかみ殺しているのに気がついたのです。
思っても見ない僥倖でした。
彼の笑い顔を見られるなどということはめったにないことだからです。そのことだけで、
この脚本を書いた意味があると思いました。他の先生も気づいておられて、
後の打ち合わせで話題になっていました。
生徒たちには全員にセリフが割り当てられます。みんなが舞台に立つ、というのが私の鉄則でした。
一言だけのセリフしかないものもいますし、また
主役は数十のセリフを覚えなければなりません。
上の緘黙の生徒にも何とか一言とねばったあげく、セリフを声に出すのはあきらめて、
マンガの吹き出しのようなプラカードを持って、
演じてもらうことにしました。
セリフが多くなると容量を超えてしまう生徒が出てきます。そんな場合には、ズルも認めていました。
「ぼくたちはざしきぼっこ」という劇の主役、ざしきぼっこは、
箒にセリフを書いたカンニングペーパーを何枚も
貼り付けてめくりながら練習していました。ところが本番が近づいても覚えきれていないということが分かり、
結局本番の舞台でもその紙を付けたままでやることになりました。
もちろん客席からカンニングの様子が見てとれたのですが、それもまた愛嬌でした。
最初の数日は、台本を持ちながら動きの練習、後半は台本なしで、できれば覚えた
セリフと動きを合わせていきます。
ほとんどの生徒は、わずかなセリフでも苦労するのですが、まったく苦もなく覚えてしまう生徒もいます。
「寅さんの『実習生、諸君!! 戦後五十年だよ』」を上演したとき、
主役の寅さん役は自閉的傾向のある生徒が抜擢されました。すると、彼は、練習がはじまる前から
台本を丸暗記してきたのです。そして、
練習では他の生徒にセリフの指示を出しはじめました。練習の過程で繰り返し禁止していたのですが効果がなく、
本番でもそれをやってしまったのです。
もちろん、お客さんは寛容で、それがかえって笑いを誘い出していました。
そうして、前日のリハーサル。リハーサルが絶好調で、本番は緊張してもう一つということもありました。
文化祭本番は、生徒も緊張していますが、舞台の前、フットライトの操作盤のところに坐っている
私も緊張します。はじまりの合図を出したり、
フットライトの操作をしたり、といった役割のほか、舞台上で
生徒がセリフに詰まったとき小声でささやく、いわゆるプロンプターが私の主な役目です。
生徒たちは、舞台上手、下手の控え室と、客席からは見えないように遮蔽された階段に、すし詰め状態で
待っているはずです。舞台袖には、幕を引いたり、生徒の出番を指示する先生方もそれぞれの位置についています。
そうやって準備が整うと、私の合図でサイドスポットが司会者を照らして、劇のはじまりが宣せられます。
引き幕が開いていき、ピンスポットが舞台中央に登場した生徒を射抜くように浮かび上がらせます。……
あのときのドキドキ感は、私の教師生活のもっとも楽しい瞬間だったと今にして思います。
あのドキドキ感を味わったものは、劇というものから離れられなくなってしまうのではないでしょうか。
私の場合、あの感覚がこのホームページを運営するところまでつながっているように思います。
今回、脚本を上演してくださる生徒さんや先生方にもそんな記憶が刻まれますようにと
祈りながらこんな文章を書いてしまいました。
又又閑話休題
上で触れた「ぼくたちはざしきぼっこ」を上演したときのことです。
劇の最後のあたりにつぎのようなセリフがあります。
生徒R (背景を振り返って)あっ、よるー。(と、指さして叫ぶ。
すると仕掛けが施されていて、グランドを描いた背景の絵がさっとめくれて星空に変わる)
たちまち夜になった。
生徒S 白鳥座があんなに高いぞ。銀河鉄道の発車時刻だ。(汽笛がなる)
そこのところは、背景の絵二枚が真ん中を折り目にして重ねられていたのがパタンとめくれると、
昼間の学校の場面から一瞬で夜空にかわり、満天の星が輝いている、そんなふうな仕掛けになっていました。
夜空の背景は、美術の先生のアイデアで、何十枚もの黒い模造紙を貼り合わせて大きくし、
そこに金紙をパンチで刳りぬいた無数の丸い紙片を、
生徒たちが協力して
貼り付けたもので、背景をちょっと揺するだけで、
天の川も星もリアルに光を発するように工夫されていたのです。
ところが、生徒Rが「よるー」と叫んでも、模造紙の一端がはがれただけで、バタンとはめくれてくれないのです。
生徒たちは、どうしようもなくじっと立ちつくしています。
模造紙を引っ張る紐がひっかかったのです。私は舞台を見上げながら
やきもきしているだけで、どうしようもありませんでした。
舞台の袖で紐を操作していた先生は、もっと焦っておられたにちがいありません。
どれほど空白の時間があったのかはわかりません。
生徒たちは立ちつくしたままです。みんなの視線が背景に集中していて、何の指示も出なかったからです。
そのことに気づいた私が、つぎのセリフに移るように指示しようとしたとき、
どういう加減か、ひっかかっていた紐がはずれて、突然背景がバタンとめくれてくれたのです。
背景が揺れて黒い夜空にちりばめられた金紙がスポットライトの光を反射してきらきらと光りました。
観客の中から「ホォー」という安心のため息とも賛嘆ともつかない声が洩れました。私にはそれが聞こえました。
舞台上の生徒たちも、先生方も、私も感激していました。かろうじてうまくいった分、
すんなりといった時より感動が大きかったのだと思います。
そういったことも楽しい思い出の一つです。
しかし、あのとき舞台下手で焦りながら、おそらく十数秒間紐と悪戦苦闘しておられた先生が、
そんなお歳でもないのに、昨年、お亡くなりになりました。
ほんとうに残念なことです。
冥福をお祈りいたします。
2013.9.1
文庫本「賢治先生がやってきた」
2006年11月、「賢治先生がやってきた」を
自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、
生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、
恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、
また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』、
宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で
広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、
三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、
アメリカの日本人学校等で
上演されてきました。一方
『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか
なかなか光を当ててもらえなくて、
はがゆい思いでいたのですが、
ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、
これら三本の脚本は、
読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。
脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、
一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。
手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、
出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)
追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。
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