2013年11月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

ものの芽の俳句(1)

賢治と般若心経

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2013.11.1
ものの芽の俳句(1)

俳句の勉強を本気でやってみようと考えています。 この文章は、その心覚えのようなものです。
俳句は、老いに向かう道中の道連れという説がありますが、まさにそのとおりだと思うのです。

大岡信さんは、「正岡子規  −五つの入口」という著書の中で、 俳句は「大勢の人に読んでもらう」ことを前提にしていると述べておられます。

「俳句をやっている人は、大勢の人に読んでもらわないと困るのです。自分一人で五七五やっていても つまらないでしょう。俳句というのはある意味では溜息です。自分の溜息をほかの人が聞いてくれることで 成り立つ詩型なのです。その意味で俳句は、類が友を呼ばねばならない形式なのです。」

俳句の場合、なるほどまず句座というものがあって、そので小さい器に溜息を酌み交わす、そういうものと まずは認識しなければならないということなのでしょうか。
そうすると、この俳句というもの、この歳になってやりはじめた私にはうってつけのものだと わかります。
まずは句座、真剣に論じることの少ない老年には願ってもない議論を闘わす機会、それも俳句という実物が ありますから、議論が空転する懸念はありません。
また、おのれの溜息というのは、即ち自己表現の一種です。私としては、これから老年に踏み込んでゆく おのれの自己表現の手段を手にしたことになります。俳句は、小器ながら、その付託にたえる 器だということです。老年に踏み込んでゆくのははじめての経験なので、断言はできませんが、 このことは、老年にとっては、想像以上に貴重なことだと思うのですが、 いかがでしょうか。すでに先を進んでおられる方にご意見をうかがいたいものです。
といって、俳句にあまりに過大な自己表現を期待してはいけないと思います。
そのことについても大岡信さんは、つぎのように虚子の言葉を引用して説明しておられます。

「虚子が示した大事な認識のひとつだと私が考えるのは、俳句形式というのは小さなことを言うしかない、 五七五では大きなことは絶対言えない、ということです。」

そして、そのことを、虚子自身の句、
ものの芽のあらはれいでし大事かな」を例にとって、こんなふうに敷衍しておられます。

「ものの芽が、今までつるっとしていたところから、ちょっぴりと頭を出しているということです。
ものの芽がひょっこりと出てきた、これはたいへんなことだよと言っているのですね。
「大事かな」というのは、大事件だということです。これは俳句というものの存在理由と創作意義と、 それから制作方法とを一句で言っている句です。理屈っぽいから、私はあまり高く評価しないけれど、 俳句というものを説明するには非常に便利な句だと思います。
俳句でなんか理屈を言おうとする人はおおむね失敗します。理屈を言わずに、理屈を背後に感じさせる、 ものの芽のあらわれ出たところだけを詠める人が結局素晴らしい俳人になります。これははっきりしています。 それを実現するのには五十年くらいはかかるでしょう。俳人でいちおう一人前になるのは 六十過ぎてからではないでしょうか。」

この一節は初心者である私が、日ごろ疑問に思っていたところを解き明かしています。
話を具体化するために、句に即して考えてゆくことにします。
たとえば、子規の句、
つきあたるまで一いきに燕かな

「子規句集」の編者である虚子によって辛うじて拾われたこの句、虚子の考えはつぎのようだったろうと、 大岡さんは推察するのです。

「ところが俳人としての虚子の立場からすれば、これは燕の動きというものをただ説明しているだけですから 理屈にすぎない。俳句にとってもっとも大事な詩情というものがここにはないということです。」

そのように言われてみれば、なるほどと納得するところがあります。 燕の動きを説明しているだけで、詩情がない、たしかにそのとおりと頷かざるをえません。
しかし、子規のことであってみれば、納得できるのですが、自分のことを顧みたとき、困ってしまいます。
これまでの私には理屈を詠もうとした句が多く、また説明しているだけで、詩情がない句が 大半であったからです。
こうなると破れかぶれ、自分の句を差し出して、このことを検討してみます。 8月句会の席題が「残暑(秋暑し)」でした。
で、拙句は、

秋暑し大方浄ら虫の死屍

これはやはり理屈ということになるのでしょうか。
散歩して、落ち蝉など虫の死骸を目にすることも多いのですが、ほとんどが浄らかな印象だということを 詠んだのですが、虫の死屍と一般化したところが、どうも理屈の罠におちいってしまっているようにも思えます。 その理屈が、いささか詩情を損ねている嫌いもあるようです。

こんなふうに考えると、理屈ではないものをというのは、たいへんむずかしいことだとわかります。
大岡信さんは、「ものの芽のあらわれ出たところだけを詠める」ようになるには 五十年くらいかかると言われています。
これは大変なことです。私などとても生きている内には、そのような句を詠めないということになります。
でもまあ、そのあたりを注意しながら、 言い回しの後ろに少しでも自分の思いを添わせることができるように、 修練を積んでいくしかないということでしょうか。
−−−〈この稿続く〉


2013.11.1
賢治と般若心経
宮沢賢治についての伝記とか証言などを読んでいて、法華経を唱えるといった表現にであうことはありますが、 般若心経に出会うことはほとんどありません。
私が読んだ中で、般若心経が顔を出すのはただの一度きりです。もちろん、膨大な賢治関連の書物のすべてに 目を通しているわけではありませんから、探せばもっとあるかもしれませんが、私が目にしたのはただの一つ ということです。
佐藤成著「証言 宮沢賢治先生 −イーハトーブ農学校の1580日」(農文協)という本の中です。
宮沢賢治が稗貫(花巻)農学校教諭であった4年間に関する証言を集めた本で、興味深い証言が たくさん引用されています。彼がどのような教師であったか、どのように教えたのか、 生徒たちとどのように劇を創りあげていったのか、妹のトシさんを亡くした後の様子はどんなであったのか、など 具体的に詳細に分かります。
その中に般若心経が出てくるのです。
トシさんを亡くしたころ、 「この当時生徒であった鈴木操六」さんの証言です。

「大正十一年の秋、宮沢先生の最愛の妹トシさんが二十五歳(数え年)の若さで死にました。
(中略)
トシさんのお葬式がすんで冬も間近だったと思いますが、ある放課後、私は先生が学校の養蚕室で読経しているのを 聞きました。生徒が帰ったあと冬は使わない蚕室に一人で入って何度かやっていたらしく、職員室では、 ああやっているなというんです。私は何かの用事で教室に残っていたんですが蚕室から聞こえてくる読経は思う 存分というか、ハリがあって朗々と響いていました。南無妙法蓮華経ではなく、ギャテーギャテーの般若心経 だったと思います。トシさんのための読経だったんでしょう。」

賢治先生の読経は、なぜ信念とする法華経ではなく般若心経だったのでしょうか。 「無、無、無、無、無……」と否定を重ねる 般若心経がそのときの気分に合っていたのか。お葬式では、 「棺の焼け終わるまでりんりんと法華経を読み続け、そこにいた人々におそろしいような、 ふるえるような感動を与えた」(森荘巳池「宮沢賢治の肖像」)にもかかわらず、学校の養蚕室では、 なぜ般若心経だったのか?
ほんとうのところは分かるはずがありません。ただ賢治先生もまた、おのれを持するために般若心経を唱える ことがあったという事実は、私をほっとさせるところがあります。

原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」の「般若心経」の項目を見ると、 「いまはいざ僧堂に入らんあかつきの般若心経夜の普門品」という歌が引用されていて、
「この歌は1916(大正五)年、盛岡高等農林二年のころのもので、僧堂という語から禅宗の寺での 一場面を詠んだものであることがわかる。おそらく賢治がたびたび参禅した僧堂宗報恩寺のことか。」 とあり、他にも、歌や詩に「般若心経の陀羅尼が引用されている」と触れられています。
このことから、賢治は、高等農林在学中から、おそらく般若心経を唱えることができたのではないかと思われます。

私の家は浄土真宗なので、お寺さんによって般若心経が唱えられることはめったにありません。
どうしてなのかはわかりませんが、真宗では敬遠されているようです。
しかし、私は、この般若心経が大変気に入っているのです。
ほんとうに手軽に唱えることができて、しかし短かすぎるということもなく、 それなりの心の平静を得ることができる、まさに素人にはうってつけのお経だからです。
ほんとうのところを言えば、そもそもお経と名のつくもので、唱えられるのが般若心経しかないのですから、 それを好きになるしかないのですが。
両親や息子に月命日にも、お坊さんにお参りいただいた日を除いて、般若心経を唱えて供養しているほどです。
息子をブラジルで送ったのも般若心経によってでした。

般若心経は、これから老年を迎える私にとっては、俳句と共に強い道連れだと考えています。 しかし、一抹の不安もあるのです。 私はいつまで般若心経を唱えることができるだろうか、という危惧がついて回ります。 般若心経がいつまで私を支えてくれるだろうか、ということでもあります。
私が呆けてしまえば、般若心経は忘れてしまうかも知れません。その可能性は高いのです。 そうなると、般若心経はもはや私の支えではなくなります。
最期の病に冒されたとき、その苦しさのために般若心経に頼る気力も失せてしまうかも知れません。
いろんな場合か考えられますが、それこそ運を天にまかすしかありません。

ちなみに宮沢賢治さんの最期はこうあります。(原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」年譜より)

「1933年(昭8)37歳
九月二一日午前一一時三○分、突然「南無妙法蓮華経」を高々と唱題。容態急変、喀血。父に遺言として 国訳妙法蓮華経一○○○部をつくって配ることを頼む。午後一時三○分息を引き取る。」

若いということもあってか、宮沢賢治さんは立派に法華経を貫いておられます。
法華経は貫かれているのですが、では、賢治さんにとって般若心経はどのようなものだったのでしょうか。


2013.11.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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