2014年2月号
【近つ飛鳥博物館、風土記の丘百景】
今月の特集

狂言という器、落語という器

「蕪村俳句集」

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー

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2014.2.1
狂言という器、落語という器

一昨年あたりから、プチ狂言と銘打って、「ほうき縛り」「豆腐小僧は怖い?怖くない?」「きつねの幻灯会」等、三本の脚本を、また新作落語「還暦赤紙」「地獄借景」、 プチ落語の「原発皮算用」「原発は忍者屋敷!」等の台本を ラインナップに加えました。
もともと狂言も落語も大好きなので、以前から一度新作を書いてみたいという思いはあったのです。
最初のころに書いた脚本「ぼくたちはざしきぼっこ」は、吉本風新狂言と銘打っているように、 狂言の形式を踏まえたものでした。
落語は、学生時代から就寝前に一つ読んで寝るという習慣があったくらいに親しんできました。
狂言も好きで、これまでもテレビで観たり、暇なときに狂言の台本を読んだりしてきました。 落語と同様けっこう楽しめるものです。
そしてある日、「棒縛り」のパロディーでいじめをテーマにした狂言を思いついたわけです。
それがプチ狂言「箒縛り」です。最初はそんな題でしたが、 箒という字がむずかしいので「ほうき縛り」と改めました。
一つ書きあげて要領が飲み込めたのか、そのあと立て続けに二つプチ狂言をものしました。
テレビで豆腐小僧の狂言を観たことを切っ掛けに、食品の放射能汚染をテーマにした 「豆腐小僧は怖い?怖くない?」、さらにもう一つ みんなで楽しい劇をということで、賢治の童話「雪渡り」を河内の狐の話に置き換えて、 「きつねの幻灯会」ができました。
狂言が一段落したところで、落語も書きたいという欲望が湧いてきました。 以前に二、三、落語台本を書きましたが、どうも気に入らないのです。 結局、表に出すのは恥ずかしくて、 脚本のジャンクボックスに放り込んだままになっています。 今でも読むことができますが、とても笑えるようなしろものではありません。
ところが今回、福島で原発が爆発したとき、にわかに落語の器が私を誘っているように感じたのです。 放射能で傷つくかもしれない原発での仕事は、前途ある若者に任せるべきではない。むしろ、原発労働は、 還暦を迎えたわれわれ団塊世代こそが引き受けなければならない苦役ではないのか。 そんな思いに責め立てられて、落語台本「還暦赤紙」が出来上がりました。
また、原発の廃棄物の最終処分場がない、といった議論に触発されて、処分場を地獄に造ればどうなるのか、 といった奇想天外な話を「地獄借景」に仕立てました。 ヒントになったのは、米朝演じるところの「地獄八景」という落語と、ある政治家のことばです。 その政治家は、核廃棄物の量を、 「大した量じゃない、国民一人当たりにすれば、サイコロ一個くらいだ」 と宣うたのです。サイコロ一個なら、六文銭の代わりにあの世に持っていってもらえばいい、 それが現代世代でけじめをつけることにもなる、というのが 私の思いつきで、そこから処分場を地獄にもっていくという発想が導かれたのです。
これらの二つの台本は、落語として演じることはできるか、できないか、という境界線上にあるように思います。 少なくとも、実際に演じるためには、少々手を入れる必要がありそうです。
とは言え、これまでの台本に比べて、それなりに落語の様になっているように 思います。(ほんとうに?……と突っ込まれそうですが)
また、「原発皮算用」「原発は忍者屋敷!」という二つの小咄のようなプチ落語も作りました。 「原発皮算用」は、壺算をパロディ化したもので、壺ではなく原発を買いにでかける話です。 小咄というには少々長くて、 短い落語台本として使えるかもしれません。また、 「原発は忍者屋敷!」は、養護学校の高等部で、 目に見えない放射能について教える授業を想定したものです。
そういった経緯で、この二、三年は、狂言という器と落語という器に、私なりのメッセージを盛り込んだ脚本を 数本書きあげたことになります。
二つの形式をつかってみての感想としては、狂言ははじまり方と終わり方がしっかりしているために、 それなりにまとまりのある劇を作るのに好都合の器であり、 また、落語は、思っていたより以上にメッセージ性を持たせることができるものだと分かりました。 話だけの空想性が、いろんな設定を可能にしているからだと思われます。
これらの器、使い方によっては、まだまだおもしろい試みができるはずです。
しかし、狂言の器がどういった脚本を盛るのに適しているのか、落語の器がどういう題材に相応しいのかは、 いまだに、私にはわかりません。自分が脚本を書く場合をふり返ってみると、 こういった内容の劇を作りたいというとき、狂言の器、落語の器がからの状態で頭の中にあって、さてそこに 何をどう盛りつけるのかを工夫するといったようなことではなく、 最初からごちゃごちゃといくつかのイメージが器に盛られた状態で 脳裏に浮かんでくるような気がします。そうなるとしめたもので、 後はその盛りつけを自分なりに変えるだけですから、 かなり長い脚本でも意外にはやくできあがるのです。

何のかの言っても、一番残念なことは、これらのプチ狂言や落語台本が、まだ一つも上演されていないことです。
どちらかで、どんな形でか、舞台に載せてもらえるとありがたいのですが……。


2014.2.1
「蕪村俳句集」

最近小旅行をしたのですが、その旅に岩波文庫の「蕪村俳句集」を持ってゆき、 帰るまでにほとんどを読み切りました。
これが、なかなか面白かったのです。芭蕉よりも魅せられました。

現代的で印象深かった句を次に抜き出してみました。
かなりの数ですが、自分の心覚えのために認めておきます。

「蕪村句集」より

二もとの梅に遅速を愛す哉
うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉
甲斐がねに雲こそかゝれ梨の花
菜の花や月は東に日は西に
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
寂として客の絶間のぼたん哉
牡丹切て気のおとろひし夕かな
鮎くれてよらで過行夜半の門
みじか夜や毛むしの上に露の玉
不二ひとつうづみ残して若葉かな
さみだれや大河を前に家二軒
学問は尻からぬけるほたる哉
涼しさや鐘をはなるゝかねの音
朝がほや一輪深き渕のいろ
夜の蘭香にかくれてや花白し
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏
月天心貧しき町を通りけり
人の世に尻を居へたるふくべ哉
おのが身の闇より吼て夜半の秋
きくの露受て硯のいのち哉
楠の根を静にぬらす時雨哉
我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花
蕭条として石に日の入枯野かな
痩脛や病より起ッ鶴寒し
らおそくの涙氷るや夜の鶴
霜百里舟中に我月を領す
斧入て香におどろくや冬こだち
愚に耐よと窓を暗す雪の竹
我を厭ふ隣家寒夜に鍋鳴ラす
寒梅を手折響や老が肘

「蕪村遺稿」より

温泉(ゆ)の底に我足見ゆる今朝の秋
染あへぬ尾のゆかしさよ赤蜻蛉
門を出て故人に逢ぬ秋のくれ
蘭の香や菊よりくらき辺りより
訓読の経をよすがや秋のくれ
限りある命のひまや秋の暮
水仙に狐あそぶや宵月夜
鍋敷に山家集有り冬ごもり
桃源の路地の細さよ冬ごもり
いざや寝ん元日は又翌の事

これらの句、現代の句としてもおかしくないくらいの新鮮さを保っています。 古びていません。これはおどろくべきことです。与謝蕪村が亡くなってからでもすでに二百年以上たっているのに、 これだけの命脈を保っているのです。
私の父は、俳句を作っていました。若いころの私は、父の句作を軽んじていたように思います。
その根拠は桑原武夫の「第二芸術論」にあります。俳句を読まず嫌い、詠まず嫌いになっていたのです。 あんなちっぽけな俳句で自分の何を表現することができるのか、という思いがありました。 いやしくも芸術たるもの、そんな断片表現であってよいはずがない、そう考えていたのです。 桑原武夫の芸術に対するハードルは非常に高く、私もその考えに傾倒していたからです。

「近代芸術は全人格をかけての、つまり一つの作品をつくることが、その作者を成長させるか、 堕落させるか、いづれかとなるごとき、厳しい仕事であるといふ観念のないところに、芸術的な 何ものも生まれない。また俳句を若干つくることによつて創作体験ありと考へるやうな芸術に対する 安易な態度の存するかぎり、ヨーロッパの偉大な近代芸術のごときは何時になっても 正しく理解されぬであらう。」

若いころの私には、ここに見られるような芸術感が当然のものとして身についていました。
そのために俳句というものを疎んじていたのだと思います。
しかし、齢を重ねて、かつて父が籍を置いていた句会に入って句作を始めると、 考えが変わってきました。
芸術というものを、そんなに厳密に高尚化する必要はないのではないか。 ヨーロッパでは「民衆は芸術を味はう、しかしこれを手軽に作り得るものとは考へてゐないのだ。」 という捉え方、それはそうとしても、われわれは、俳句を老年の自己表現と捉えても一向にかまわないのでは ないかと考えるようになったのです。 老後の旅の道連れという考えをされる方もありますが、それでいいのではないかと思うのです。
和歌の文化の中から源氏物語が、俳諧の中から芭蕉の紀行文が生み出されたことを思いみよ。 夏目漱石も然り、宮沢賢治然り、寺山修司然り。俳句や短歌から出発した偉大な作家も多い。 短詩もあながち疎んじる必要はないのではないか。
俳句は俳句、第二芸術、疑似芸術でけっこう。決して卑下する必要はない。 そこから偉大な作品が生まれる土壌をなし、またその土壌の堆積は、 日本文化の基底に、ある意味すばらしい地層をなしているのではないか。そんなふうに思えるようになりました。 歳をとって、芸術のありかたに寛容になったのかもしれません。
もう一つ、言わずもがなのことかもしれませんが、一流の俳句は、決して第二芸術と貶めることなどできない ということ、これは事実として認めなければならないと思います。 歴史に残るほどの名句は、第二芸術論など吹っ飛んでしまうほどの言葉の威力を、 その小さな器の中に秘めています。短いドスのような言葉が錆びることなく、 百年以上、その切れ味の鋭さを保持しているのです。
「蕪村俳句集」を読んで感じたのは、ことばの鮮度の発見でした。これは、散文では困難な、 小さい器ゆえに可能な希有なことのように思われます。

追補
「蕪村俳句集」を読みながら、個人的に興味を惹かれたのは、 私が住んでいる河内を詠んだ句がいくつかあったことです。

河内路や東風(こち)吹送る巫女が袖
狐火やいづこ河内の麦畠
むし啼(なく)や河内通ひの小でうちん(ちょうちん)
河内女の宿に居ぬ日やきじの声

以前にも書いたことがありますが、河内とくれば何故か狐火、そういったイメージがが よほど普及していたことが窺われます。


2014.2.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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