2014年6月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
今月の特集

平気で生きる

俳句

文庫本「賢治先生がやってきた」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー
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2014.6.1
平気で生きる

正岡子規がおもしろい。
俳句を除いて、彼の言葉でもっとも知られているのは、 「病床六尺」二十一の次の断章ではないでしょうか。

○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。


「如何なる場合にも平気で死ぬる事」というのは、子規の言うように、禅宗の悟りでもあるのでしょうが、 それはまた下級武士の家に育った彼が、日ごろから聞かされてきた武士の心構えと言えなくもありません。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という「葉隠」の思想に通じるものがあるからです。
そんな子規が、若くして結核によるカリエスという病を得て、結局動くこともままならない病状にいたり、 追い込まれてゆきます。晩年は(晩年といってもまだ三十歳半ばですが)、 あまりの苦しさに泣きわめくこともあったと自ら告白しています。 そればかりか、苦しさに追い詰められて 精神錯乱の状態に陥り自殺を図ろうとしたこともあるのです。 しかし、そのときは死に損なうことを恐れて、結局最後の一歩を踏み切れませんでした。 それが明治三十四年十月十三日。そして、上掲の「病床六尺」の 二十一が次の年の六月二日の記事です。亡くなる三月ほど前です。
「如何なる場合にも平気で死ぬる事」という死にむかう表現が、 「如何なる場合にも平気で生きて居る事」と生にむかう表現に転回しています。
「悟りといふ事」となっていますから、そうありたいという目標なのでしょうが、 ようく吟味してみると、一つ事の裏表の表現であることに気がつきます。
しかし、表裏をなすおなじような意味合いを持ちながら、厳然たる違いもあります。
「平気で死ぬる事」という表現には、武士の名残の裃をつけたようなこわばりが感じられます。 それにたいして、「平気で生きて居る事」の方には、裃を脱ぎ捨てた人間子規のリアルさが 見て取れます。
この断章を書いたとき、子規は死が近いことを悟っていました。
当時病気はすでに末期症状で、激しい痛みに泣き叫ぶことも多く、痛みの隙をうかがうようにして、 生きて居る証である文章をしたためるといった、 綱渡りさながらの毎日でした。踏みはずせば転落し死ぬしかない綱の上を、すり足で 渡りつつある子規に、ふとこの言葉が一本の棒のように出現したのではないでしょうか。 綱の上でふらふらしている彼が精神的な均衡を保つためのバランス棒として。
この断章には、ともすれば、こういった言い回しにつきものの、抹香くささがありません。 子規の生き方に根付いたリアルな感覚に裏打ちされた表現だからでしょうか。

そして、三月ばかり後の辞世の句。

糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな

上掲の断章をお守りのようにして生き凌いだ子規の行き着いた先が、 仏の句だったことに粛然たる思いがあります。
筆を手にしたときは、一句だけのはずだったのですが、さらに二句を書き加えます。

痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき


(当時、へちまの水は痰を切るのに効果があると信じられていたようです。)
死の前日、寝た姿勢のまま、色紙を持ってもらい、筆でしたためたのです。
ここにいたって「平気で生きて居る事」を支えていた意志力は、こんなにもすごいものだったのかと 圧倒されてしまいます。

彼が俳句をどんなふうに革新しようとしたのかを知りたくて読み始めた三部作ですが、 俳句のことだけではなく、彼の生き方そのものの魅力にとらわれてしまったようです。
以前、大岡信さんの「永訣かくのごとくに候」という本を読んだときも、彼に興味を惹かれたことが あります。そのことは、この「うずのしゅげ通信」にも書いたことがあると思うのですが、 もう、かなり以前のことで、いつのことかはっきりしません。
だから、子規へののめりこみは、今回で二回目ということになります。
それにしても、彼の文章、一世紀をへだてた今読んでも、なおリアルさを失っていません。 一部の言葉遣いが古びるのはしかたがないとしても、その中身というか、文章を綴ってゆく こころの動き方や、ものを見ての感性の鋭さ、論理の立て方などは、 決して古びていないのです。
一読すれば、 彼の文体は今もなお十分にリアルさを保っていることがただちにわかります。これは驚くべきことです。
それは、おそらく彼の文体が、たんなる技法の問題なのではなく、 彼の生き方から紡ぎ出されてきているからなのでしょう。 一世紀をへてなお子規の文章に精彩をあたえている秘密は、そんなところにあるのだろうと思います。


2014.6.1
俳句

先月の「古墳群」句会は十一日だったのですが、風邪の症状が募るような気配があり、 他の人にうつしては申し訳ないと思い、出席を控えることにしました。
しかし、いざ休むとなると迷いがきざします。まだ、 このくらいなら出席できないことはないだろうと、未練な思いがわいてきます。 出不精な私としては、めずらしいことです。このこだわりはどうしたことなのでしょうか。
二十歳過ぎから「火食鳥」という同人誌に属してきました。しかし、四十年以上続いた文学活動も、同人の 高齢化のために雑誌の発行を維持できなくなり、結局昨年解散しました。 回顧特集号を出したことは、この「うずのしゅげ通信」 でも触れました。私にとっては、さびしい出来事でした。 「火食鳥」の集まりは、長きに渡って数少ない楽しみだったのです。
そしていま私にとって「古墳群」句会は、たとえ月一回のささやかな集まりではあるものの、 たしかな楽しみになっていたことを思い知らされました。
あらためて句会を大事にしなくてはならないと考えています。
だからというわけではないのですが、投句だけはしておきました。
以下が拙句です。

衣更風一枚は足裏(あうら)まで
土浴みの蛙ののぞく薄暑かな
手づかみの飯(まま)の荒ひげ武者飾り
案内(あない)するに新樹の光お堂ぬち
ひとり居の太極拳や業平忌
母の日に子のもらい風邪妻も吾(あ)も
草笛の細き音色の遠響き


「衣更え」の句、風の衣を一枚着たという想定です。足の裏まで涼しいと。
「薄暑」の句、野菜に水をやっていると、蛙があらわれて、 土浴みしているのを見かけることがあります。涼んでいるのでしょうか。
「武者飾り」の句、孫がやってきたときのことです。武者飾りの前で食事をしたとき、 ご飯を手づかみにして食べていました。 口のまわりにご飯粒をいっぱいつけて、それがあごひげのようでした。
「新樹」の句、寺のお堂には、新樹の光が一番似合うと思います。 お堂に新樹の光りが射す中、知人を案内したときのこと。
「母の日」と「草笛」は席題で、電話で尋ねて急遽でっちあげたようなものです。


2014.6.1
文庫本「賢治先生がやってきた」

2006年11月、「賢治先生がやってきた」を 自費出版しました。
脚本の他に短編小説を載せています。
収録作品は次のとおりです。
養護学校を舞台に、障害の受け入れをテーマにした『受容』、 生徒たちが醸し出すふしぎな時間感覚を描いた『百年』、 恋の不可能を問いかける『綾の鼓』など、小説三編。
 宮沢賢治が養護学校の先生に、そんな想定の劇『賢治先生がやってきた』、 また生徒たちをざしきぼっこになぞらえた『ぼくたちはざしきぼっこ』宮沢賢治が、地球から五十五光年離れた銀河鉄道の駅から望遠鏡で 広島のピカを見るという、原爆を扱った劇『地球でクラムボンが二度ひかったよ』など、 三本の脚本。
『賢治先生がやってきた』と『ぼくたちはざしきぼっこ』は、これまでに、高等養護学校や小学校、中学校、あるいは、 アメリカの日本人学校等で 上演されてきました。一方 『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、内容のむずかしさもあってか なかなか光を当ててもらえなくて、 はがゆい思いでいたのですが、 ようやく08年に北海道の、10年に岡山県の、それぞれ高校の演劇部によって舞台にかけられました。
脚本にとって、舞台化されるというのはたいへん貴重なことではあるのですが、 これら三本の脚本は、 読むだけでも楽しんでいただけるのではないかと思うのです。 脚本を本にする意味は、それにつきるのではないでしょうか。
興味のある方はご購入いただけるとありがたいです。
(同じ題名の脚本でも、文庫本収録のものとホームページで公開しているものでは、 一部異なるところがあります。本に収めるにあたって書き改めたためです。 手を入れた分上演しやすくなったと思います。『地球でクラムボンが二度ひかったよ』は、 出版後さらに少し改稿しました。いまホームページで公開しているものが、それです。)

追伸1
月刊誌「演劇と教育」2007年3月号「本棚」で、この本が紹介されました。
追伸2
2008年1月に出版社が倒産してしまい、本の注文ができなくなっています。
ご購入を希望される方はメールでご連絡ください。

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