2014年9月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
今月の特集

どうにもできなくて

延命

いとうせいこう「想像ラジオ」

「うずのしゅげ通信」バックナンバー
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「賢治先生がやってきた」には、 こちらからどうぞ


2014.9.1
どうにもできなくて

もう20年も前の卒業生から電話がかかってきました。
年に一、二回電話をしてくるので、家内も声を覚えています。 受話器を取ると、こちらの都合などおかまいなしにしゃべりたいことをしゃべりはじめるそうです。 相手が家内と分かると、さすがに「−−先生はおられますか?」と丁寧なものいいになります。 そういった礼儀は心得ているのです。 わざわざ電話をしてきたとはいえ、話の内容はたわいないものばかりです。 しかし、電話が趣味みたいなものらしく、あちこちにかけているようで、 卒業生や先生方の近況について教えてくれます。私などより情報網がしっかりしているのです。
「学校に行っても、二人しか知ってる先生いてへんかった」
「もう、20年もたってるからな……知ってる先生がいるほうがふしぎなくらいや」
「出戻りや言うたはったわ」
「そう言えばそうやな……」
「F先生は、大腸がんになって死なはってんな」
と、突然、数年前に亡くなったF先生のことを言い出しました。
「そうや。まだ若かったのにな」
「大腸がんが、あちこちに転移して、いろいろやってんけど最後にどうにもでけへんから 死なはってん」
「そうか、よう知ってるな。……せやけどおかしい言い方やな」
私は、不謹慎ながら、その言い方に思わず笑ってしまいました。
「まあ、F先生も、−−さんのことやから、許してくれはると思うけど……」
「最後にどうにもでけへんから死ぬ」のか、私は、笑いを納めて、 「死ぬというのはそういうことかもしれないなあ」と考えていました。 奇妙な言い回しに聞こえたのですが、意外に真実を言い当てているような気もするのです。 人間は、どん詰まり、どうしようもなくなって死んでいく。言い方をかえれば、どうしようも なくなっても、まだ死ぬという抜け道が残されている。電話を切ってから、ふとそのことが 救いでもあることにあらためて思いいたったのでした。

F先生といえば、劇にかかわる思い出があります。
「ぼくたちはざしきぼっこ」という劇を上演したときのことです。
文化祭準備の最初の日、脚本はすでに完成していて、まず学年の生徒を集めて、みんなに 劇全体のイメージを掴んでもらうために、適当に配役を割り振って 読みあわせをしました。そのあとで、F先生が、私のところに来て「この脚本を書きながら、 何度も噴き出したでしょう」と笑いながら脚本をほめてくれたのです。
生徒は一人一役、最低一言が原則で、先生方もスタッフとして支えてくれます。
劇の最後のあたりに賢治先生が銀河鉄道で去ってゆく、つぎのような場面があります。

賢治先生 「いつかまた……、君たちがあの星のひかりに見つめられていることを忘れなければ、 いつかきっと……。」
(賢治先生、風の又三郎、よだか、星の王子さまたちが退場する)
生徒たち (口々に)「さようなら、賢治先生、風の又三郎くん、よだかさん、星の王子さま、 さようなら。」
生徒R (背景を振り返って)「あっ、よるー。(と、指さして叫ぶ。すると仕掛けが施されていて、グランドを描いた背景の絵がさっとめくれて星空に変わる)たちまち夜になった。」
生徒S 「白鳥座があんなに高いぞ。銀河鉄道の発車時刻だ。」(汽笛がなる)
生徒T 「向こうだ。やっぱり理科室は銀河鉄道のステーションだったんだ。窓に灯がついた。銀河鉄道が理科室の窓から発車して行く……。」

この劇を上演したとき、F先生は、舞台のそでにいて生徒の出入りの指示をする担当でした。
生徒が「よるー」と叫んだとき、背景がめくれる仕掛けの紐をひっぱる役目もありました。 舞台が進み、生徒Rが「よるー」と叫んだとき、それをきっかけにF先生は紐を引きました。 ところが、めくれるはずの背景が、 一部めくれただけで、ひっかかってしまったのです。F先生は、あわてられたにちがいありません。 舞台下のフットライト脇に座っていた私にもF先生のあわてぶりが感じ取れました。 紐をひっぱってどうにかしようとするのですが、背景がゆらゆらするだけで、どうしてもめくれません。 舞台は薄暗くなって止まったままです。1秒、2秒、3秒、……どれほど時間がたったのか、私にもわかりません。 ところが、何という幸運、ひっかかっていた背景がどうした加減でかはずれてはらっとめくれたのです。
突然、背景が夜空になりました。黒い模造紙に金色の色紙をパンチで打ち出した紙片を無数にはりつけた星が光っています。背景がゆらゆら揺れているために、星や銀河の揺らめきが動いて、いっそうリアルなきらめき です。ほんとうの夜空を見上げているようです。
一瞬客席からため息がもれました。私には、それがはっきりと聞こえました。
あれは、安堵のため息だったのでしょうか、それとも背景がゆれてきらきらする銀河や星の輝き に魅せられたためのため息だったのでしょうか。
おそらくF先生も、舞台の暗闇の中で、ため息をついておられたのではないでしょうか。

F先生が亡くなられたのはもう数年前ですが、今は、あの夜空に逝ってしまわれたような気がしています。 残念というしかありません。冥福をお祈りいたします。


2014.9.1
延命
例によって、拙句です。
亡き父の延命七日遠花火

父が亡くなって、もう十数年。
その最期のころ、余命幾ばくもないということが分かっていましたが、病院の都合もあり、家に帰されて いました。
酸素吸入装置やベッドを借りて、家族で介護していたのです。
父は、肺がんの末期であり、少し動くだけで息切れしてしんどそうでした。
日曜日の朝、父の様子を見にゆくと、枕から頭をはずして、呼吸が止まっています。 うろたえましたが、体に触ると、まだ少し体温があるように思われました。 私は、家内を呼んで、あわてて蘇生措置を試みました。 職場で毎年訓練していたのが役にたちました。しばらくすると、のどがごろごろとなって、 呼吸が戻ってきたのです。心臓も動き始めたのか、体がにわかに暖かくなってきました。
そのころ救急車が駆けつけてきて、ボンベで酸素吸入して、病院に搬送してくれたのです。
結果的に見ると、私の蘇生措置によって、父は一命を取り留めたということになります。 しかし、意識は、はっきりもどったとはいえませんでした。たよりない反応があるだけでした。
もう十数年以前の盛夏のことです。全国的に有名な花火大会が近づいていました。 病院のベランダに出ると蝉の鳴き声が聞こえ、 花火大会のために設えられた観客席が見下ろせました。
私たちはそれどころではなかったのですが、病室から花火が見えるというので、 看護婦さんが付き添いの弁当の予約を聞いて回っていました。
結局、父はしずかに一週間を生き延びて、花火を見ることなく逝ってしまいました。
あれでよかったのだろうか、という惑いだけが残りました。
延命措置をしているときは、とっさのことで考える余裕などなかったのですが、 果たしてそれが父にとってよかったのかどうか。
最初のとき、死なせてやったほうがよかったのではないか。 もう一度苦しめることはなかったのではないか。 という思いがあるのです。確かに蘇生して一週間を病院で生き延びたことで、孫たちに交代で介護するという 恩恵をあたえた、ということはあるかもしれません。そのことに意味はあったと家内などは言ってくれます。 それでも、なお私には腑に落ちないところがあるのです。無駄なくるしみを与えてしまったのではないか。
もし自分だったら、死なせてほしかったという思いがあるからかもしれません。


2014.9.1
いとうせいこう「想像ラジオ」

いとうせいこう著「想像ラジオ」を読みました。
分かりにくい構成なのですが、三日で読了しました。
語りの視点の一つは、DJアークという音楽事務所の仕事をしていた男にあり、彼は津波によって樹の てっぺんにひっかけられて亡くなっているのですが、そこで想像ラジオのパーソナリティをはじめるのです。
もう一つの視点は、ボランティアの男にあり、彼は仲間とともに震災のボランティア活動を しています。
章ごとにこの二人の人物の視点が交互するのですが、私は、DJアークの語りになじめなかったため、最後までこの物語に入り込めませんでした。紹介される音楽に疎いということも原因しているかもしれません。
また、読み進むうちに、この小説にたいする本質的な疑問に取り付かれたということもあります。
いとうせいこうさんの「想像ラジオ」という発想のもとには、二つの種があると思います。 一つは、死者のたましいが近くの野山にさまよっているという 古来の考え方です。もう一つは、震災後にあちこちの地域で地元の情報を伝えるために FM局が叢生したという事実があります。
これらのFM局が、地域の人たちにかたりかける限定されたことばを発しているのなら、 それと似かよった死者によるFM放送があってもおかしくない、という発想によって、 津波のために樹上にうちあげられた一人の死者が「想像ラジオ」のパーソナリティをはじめます。 リスナーはもちろん地域にさまよっている死者たちです。
実に興味深い発想です。しかし、私は、そこで躓くのです。
死者は、死者にむかって何を話しかけるのでしょうか。小説の中にも出てきますが、 死者が話しかけたい相手は、 さまよえる死者などではなく、生者なのではないでしょうか。
そんなふうに思いをめぐらしていると、 ますます、小説の世界に入り込めなくなってしまうのです。
結局、発想の妙に引かれるようにして読みはじめたものの、読み終えた後の感動は中途半端なものでした。

私は大震災の後でボランティアにも行きませんでした。年齢のこともあり、足手まといになってもと 逡巡する気持があり、また、物見遊山では申し訳ないという思いもありました。
そのかわりに、震災直後、「うずのしゅげ通信」に震災についての特集記事として 「宮沢賢治インタビュー」を掲載しました。
また、一人芝居「雨ニモマケズ手帳」という脚本もラインナップに加えました。 (兵庫県立星陵高校演劇部によって上演(2012.5))
私としては、被災者に寄り添う気持で書いたのですが、 現地を見ていなくてどうしてそんなものが書けるのかと批判されるかもしれないというおそれも 感じていました。結局、かなり読まれたと思うのですが、そういった批判はありませんでした。 もっとも批判のあるなしにかかわらず、自分の立ち位置というものについて 考え続けていたのは事実です。
そんなふうに表面的には迷うふうであったのですが、一方心の底にはひそかに確信するところが あったのです。
大切な人を亡くしたときの喪失感の総体を 十全の激しさで体験したものとして、 その喪失感という一点において、自分は確かに被災した人々、あえて言えば震災で 身近な人を喪った人とつながっているという 確信です。
この確信が、遠く離れた自分でも、ボランティアに行けなかった私でも、 震災のことを書いてもいいのだと背中を押してくれたのです。

さて、「想像ラジオ」です。
しかし、ここからは実に私的な感想ということになります。そんなものは、読みたくないとおっしゃる 方は、ここで読むのをやめていただいても結構です。
この小説を読んで、DJアークの語り口にどうしてもなじめなかったということは、上に書きました。 小説の趣向としては、興味深いものでしたが、死者を扱う文章としてこれでいいのかどうかという ところに違和感をもったことが、物語に入ってゆけない原因だったようにも思います。

しかし、一ヶ所だけ衝撃を受けたエピソードがあったのです。私にとっては、それのみでこの物語を読んだ 意味があると思えるほどの衝撃でした。
ボランティアの男に視点を据えた章の一節です。
男が妻と、ある昔の経験について話している場面です。

「……あなたがいつだったか、あれほど悲しそうな人を見たことがないって言ってた昔の話、 覚えてる?」
「わかってる。地下鉄で見た人。もう何年も前のことだね」
(中略)
「……ともかくその日、あなたは一人で電車の窓際に立っていて、女の人は向かい側のホームのベンチにいた」
「いや、ちょうど座っていたのを、停車した車両から見たんだよ。彼女は体をそこに落とすように浅く腰かけた。めがねをかけていて色の白いきれいな人だった。細い両腕の先に小さなバッグがあって、それをスカート から飛び出た膝の上に乗せたまま少し先の下の方をじっと見た。なんとも言えない表情だった。虚ろな、体が 空洞になっている人のような。泣いてもいないのに、その人が心の底から悲しいのがわかった。瞬間、恐ろしいくらいの悲しみがあたりを覆って、駅の構内をその感情が支配したように感じた」
「あなたは、ゆらゆらした透明な物質がトンネルの中に満ちてたって言ってた」
「そうだった。僕から見た彼女は透明度の高い海の底にいるようだった。少し黄緑がかった光が目の前を漂った。 彼女に何があったのか、僕には想像すら出来なかった。僕はほとんど雷に打たれたみたいになって、 電車が動き始めても彼女から目を離せなかった」
「まあ、聞く人が聞けば考えすぎだけど」
「ほんとにね。僕の悪い癖だね。だけどあれほど他人の感情に確信が持てたことはないし、今も忘れない。 時々、あの女の人に何があったんだろう、何があれば人はあそこまで静かに悲しむことができるんだろうと 考えてきた」
「わたしはわたしで、そのゆらゆらした透明な物質って、一体何だろうってふと思うことが何度か あったのね。どんな比喩なのかなって」
「言葉足らずで申し訳ない」
「いやいや、他人の悲しみがそう感じられる体験ってどういうことだろうって思ってて、……」

この一節を読んだとき、私は衝撃を受けました。
このホームにたたずんでいた女性は、私だという思いがひらめいたのです。
女性が私であり、その私が、誰か第三者に見られている、という構図が浮かびました。
そうです、それはあの直後のころです。
私は、一連のなすべきことを済ませた後、勤めに出るようになりました。 同僚に迷惑をかけて申し訳ない、という思いが少しずつ戻ってきつつありました。
定年まで二年を残すのみで、「もう辞めてしまおうか」という思いもありました。
しかし、それでも、出かけなければなりません。
私は、いつものように通勤電車に乗って出かけました。
そのころのことは、別の文章に書いたことがあります。
毎日、苦行の思いで出かけていったのです。
当時、向かい側のホームにいた人から見れば、私はきっと上の女性のように見えただろうと 思い当たったのです。
「あのときの自分だ」と、思いました。
ここで描写されているホームのベンチに座っている女性が、あのときの私でした。
この一節によって、私は、当時の自分を目にすることができたのです。
そのことに関しては、この「想像ラジオ」に感謝するしかありません。
分かりにくい文章になってしまいましたが、個人的な感想ですから仕方ないかもしれません。
ここまで、お読みいただいた方には、お許しを請うしかありません。


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