「うずのしゅげ通信」
2014年11月号
【近つ飛鳥博物館、河南町、太子町百景】
今月の特集
寛容の精神
雑詠
顔鏡
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2014.11.1
寛容の精神
最近の風潮を見ていると、世の中に不寛容がはびこっているように思われます。
領土問題に端を発する嫌中、嫌韓の風潮、ヘイトスピーチのデモ、
あるいは従軍慰安婦問題や原発事故の吉田調書にかかわる朝日新聞の誤謬をあげつらい、執拗な批判を
繰り返す朝日たたき、元記者の勤務する大学への脅迫等々、
まさに不寛容が瀰漫しているとしかいえない様相です。
もちろんそういった批判にはそれなりの理由があるのでしょう。しかし、程度を超えているとしか
思われない執拗さがあります。不寛容が世の中を覆いつくしている感があります。
どうして、そんなことになったのでしょうか。不寛容が醸成されるのは、庶民の生活に
余裕がなくなったからだとも考えられます。派遣労働が全労働者の三分の一以上を占めるようになり、
若者の生活が苦しくなっていることもたしかです。また、いろんな災害が頻発して、
不安を醸しだしています。そういった傾向は温暖化が進むにつれてますます酷くなるかもしれません。
また東西冷戦構造が崩れたあと、
世界は無秩序の様相を強めているかにみえます。宗教が火種になって、世界をかく乱しているかのようです。
そういった種種の原因がもたらす不安が暗雲のように頭上に垂れ込め、閉塞感をもたらしているようです。
人々は不安に追い詰められています。そんな雰囲気の中で、人々に寛容な気持を
求めるのはむりなのかもしれません。寛容な気持を持つ余裕がなくなっているのです。
しかし、ここが踏ん張りどころではないでしょうか。ここで不寛容に流されてしまうと、
世の中がますます不安定になっていくように思われます。
そんなふうなことを考えていて、思い出すのは、E.M.フォースター(1879〜1970)のことです。
これまでにも、「うずのしゅげ通信」で何度か触れたことがあります。
フォースターはイギリスの保守的な小説家、思想家ですが、多くの学ぶべき文章を残しています。
大学の教養課程で英語の教材として学んで以来、私は、E.M.フォースターの
思想の真髄とでも言うべきものを、ことあるごとに思い出し頼ってきました。
彼の著作で手に入りやすいものとして、岩波文庫に「フォースター評論集」(小野寺健編訳)があります。
その中に、「寛容の精神」という文章が収められています。そこから少し引用してみます。
「寛容という美徳は、まことに冴えません。たしかに、おもしろみはなく、愛とちがって昔から
マスコミには人気がありません。これは消極的な美徳なのです。要するにどんな相手でもがまんする、
何事にもがまん、という精神なのですから。
寛容を讃える詩を書いた人は誰もいませんし、記念碑を建てた者もいません。ところが、これこそ
(第二次世界大戦の〈筆者注〉)戦後にもっとも必要な美徳なのです。
これこそ、われわれの求めている健全な
精神状態なのです。各種各様の民族を、階級を、企業を、一致して再建にあたらせることができる
力は、これ以外にありません。」
「寛容の精神は,街頭でも会社でも工場でも必要ですし、階級間、人種間、国家間では、
とくに必要です。冴えない美徳ではあります。しかし、これには想像力がぜったいに必要なのです。
たえず、他人の立場に立ってみなければならないのですから。それは精神にとって好ましい
訓練になります。」
とくに、民族、国家の軋轢に際して、寛容の精神が肝要だと言います。国家同士が国境線を接して、
つねにつばぜりあいを繰り返してきたヨーロッパにおいて、
永い歴史から抽出されてきた知恵なのでしょう。
そうでなくてはやってこれなかったという確信が、この文章から読み取れます。
E.M.フォースターは、また、それが「民主国家のとる方法」だと断言しています。
「ある民族が嫌いでも、なるべくがまんするのです。愛そうとしてはいけない。そんなことはできませんから
無理が生じます。ただ、寛容の精神でがまんするように努力する」ことが必要だと断じています。
上述のような現状にさらされている現代の日本人に求められているのは、まさに
こういった寛容の精神なのではないでしょうか。われわれ日本人ははじめて対等に隣人と付き合わなければ
ならない状況に、歴史上はじめて置かれるようになったのですから。
寛容の精神をおのれの信条とするフォースターの徒が増えてほしいと願うばかりです。
2014.11.1
雑詠
今月は忙しくて、句会に参加できませんでした。
残念に思っていたところ、参加者がすくないということで、句会そのものが
中止になってしまったのです。
責任の一端が自分にもあるようで、なんだか申し訳ないような気になりました。
そういうことで、句会に出せない分、せっせとフェイスブックに句を投稿しました。
〈10月11日投稿〉
今月の句会の兼題の一つが柚子でした。
合掌に柚子(ゆず)のかすかな香りたつ
馬鹿のつく柚子にしてこの面がまえ
(「柚子の大馬鹿18年」)
「古墳群」の句会には参加できないのですが、せめて兼題の句だけは作っておこうと考えていろいろ
練っていたのです。ところが、今日偶然主宰の内田さんにお会いしたら、
結局句会は中止になったと聞かされました。たまたま休まれる方が重なったらしいのです。
残念なことです。
〈10月13日投稿〉
「古墳群」の今月の兼題に登高と草虱(くさじらみ)がありました。
登高や句種ひとつをとつおいつ
草虱百とむしれば無想にも
台風のために家に閉じ込められて、上の句ができました。
登高(とうこう)は、「日本大歳時記」によると、「高きに登る」のところにあって、
中国では陰暦9月9日に行われた行事のようです。高いところに登って災厄を払ったとあります。
この季語、なかなかそういう意味を踏まえてとなると難しいですね。
草虱(くさじらみ)というのは、いわゆるひっつき虫のこと。
もう一つ色鳥という兼題があるのですが、これはできませんでした。
〈10月10日投稿〉
漱石は夜寒にかぎる大活字
今月の句会は用事があって参加できないのですが、兼題に「夜寒」があったので、一句考えてみました。
夜寒のころになると、なぜか漱石が読みたくなるのです。
読むと言っても、小さい活字は読みにくいので、大活字本で。
〈10月9日投稿〉
東(ひんがし)に蝕の月あり老いの声
前夜の月蝕を詠んだものです。
フェイスブックを見ていると、さまざまな月蝕の句が載っていて、私も触発されて詠んでみました。
万葉集にある柿本人麻呂の歌「東(ひんがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」を踏まえています。
〈10月4日投稿〉
わが師はも呆(ほう)けたまひしか昼の月
あれだけかくしゃくとしておられた師の、精神の崩れとも言うべき症状は痛ましいばかりです。
中八はまずいので「呆(ぼ)ける」でいいのではないか、という意見もいただいたのですが、
師のことでもあり、
せめて「呆(ほう)ける」という婉曲に表現にしたかったのです。
〈9月30日投稿〉
わが嗚咽(おえつ)霜降る通夜の母の辺(へ)に
母を二十年ちかく前に亡くしました。
母にはどうしても謝りたいことがあって、枕辺で思わず嗚咽を漏らしてしまったのです。
父の最期を詠んだ句「亡き父の延命七日遠花火」が載った「文化部だより」が今日とどけられ、それを読んでいたら、母の句も添えたくなって詠んだのがこの句です。
〈10月24日投稿〉
枯山水砂の汀(みぎわ)の石蕗(つわ)の花
時雨(しぐれ)して遺影の翳(かげ)り移ろひぬ
今年は村祭りの頭屋(当屋、あるいは年行司)が回ってきて、この2週間ばかり忙しくしていたので、
まったく投稿できませんでした。ひさしぶりの投句です。
石蕗(つわ)は、つわぶきのこと、この句は以前詩仙堂を訪れたときに詠んだものです。
二句め、時雨は来月の兼題のひとつです。
〈10月29日投稿〉
卒寿兜太スクワットする文化の日
賢治の忌逝かれし父母の嘆きはや
原発に蹲られて秋会津
川柳まがいのものから、ちょっと変り種を並べてみました。
俳句と言えるのかどうかもわかりませんが。
三句め、原発の事故を「原発に蹲られた」と表現してみました。大震災の直後、「うずのしゅげ通信」
に「原発がうずくまる」という詩を書いたことがあり、同じ表現を俳句に
はめ込めばどうなるかを試してみました。詩ではそんなになかった違和感を感じてしまうのは、どうして
なのか。やはり、詩と俳句という器の違いが反映しているのでしょうか。
ちなみに、「蹲られる」という表現は、いわゆる迷惑の受身といわれるものです。原発事故は、
まさに迷惑の最たるものですから。
2014.11.1
顔鏡
顔鏡(かおかがみ)というのは、変な言葉ですが、私が作ったものです。
経験から造語したのです。
自分の顔の表情が相手の顔の表情に映される、ということを表現したものです。
高等養護学校に勤めていた五十台のはじめから、私は、
目が悪くて常にまぶしさに苦しめられてきました。
眼科で診てもらっても角膜に変性が見られるというだけで、いっこうによくなりません。
まぶしいためについ目に力が入り、眉をしかめたような表情になります。
まぶしさを抑制するために、眼鏡に薄いカラーコーティングをするようになりました。
ある日、生徒と話しているとき、彼が、私と同じように眉をしかめた表情で、
私の目を覗き込んでいることに気づきました。その生徒は自閉傾向のある生徒で、
じつに素直に、何のはばかるところもなく私の表情を無意識に真似ようとしていたのです。
最初は、自閉症児に特有のオーム返しもあり、それと同じような反応だと思いました。
他人のこころを推し量ることが苦手だから、それが失礼にあたるということもわからなくて、
目の前で真似たのだろうと考えたのです。
しかし、自分の表情を真似られるという経験をしてから仔細に観察してみると、
生徒たちばかりではないのです。
私と面と向かいあった大人にも、ちょっとしたしかつめらしい表情がふっときざすことがあるのに
気がついたのです。もちろん、ぶしつけなほどあらわに示すことはありませんが、自閉傾向の
生徒と同じような表情が浮かぶことがあるのです。
私は、それを顔鏡と名づけました。
人は表情によってもコミュニケーションしていますから、
そういうふうに相手の表情を反映する本能のようなものがあるにちがいありません。
私の場合は、しかつめらしい表情ですが、笑顔の場合も同様なことがあるだろうと想像できます。
自分が笑顔であれば、相手も自然に笑顔になる、ということは確実にあるようです。
そのことが和顔施(わげんせ)の功徳といわれているものだろうと思います。
和顔というのは笑顔のことです。笑顔が笑顔を誘い出すということなのでしょう。
そうすると私など渋面によって悪徳を振りまいてきたことになります。
申し訳ないことです、ほんとうに。
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