石牟礼道子歌集『海と空のあいだに』−−短歌から「苦海浄土」へ
                  浅田 洋    『火食鳥』6号掲載(1991.3)

 「苦海浄土」以前の石牟礼道子は、熊本の歌誌「南風」による歌人であった。
「海と空のあいだに」の後書き「あらあら覚え」によれば、「手元に残っている歌稿のうち、もっとも古いのは昭和十九年のもの」であるという。それ以後二十年にわたって、短歌は石牟礼道子の主な文学欲求のはけ口であった。そして「苦海浄土」の熊本風土記への初出(この歌集と同じ「海と空のあいだに」と題されていた)が昭和四十年、そのころに氏は歌を離れたらしい。三十年代後半からは、歌の数がめっきり減っている。つまり氏が、当時奇病と恐れられていた水俣病の患者を訪ね、語弊を恐れずに言えば、「『苦海浄土』の準備段階」にはいったころに、氏の「歌の別れ」があったわけだ。
 もちろん、そのころの歌に、水俣病の影響もなくはない。しかし、氏のなかに占めていたであろう「苦海浄土」の重さに比べれば、実に微々たるものだ。氏は最初から、短歌を、水俣の現実を盛るにたる器とは考えなかった。あるいは「水俣」を詠む試みはあったかもしれない。が、見極めははやかった。歌の数がそれを証している。もっとも歌集は、現在の時点で編集されているから、「苦海浄土」がなったいま、「水俣」にかかわる歌を省いたのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、三十年代後半の時点で、短歌が水俣の現実を盛る器にふさわしくないと、氏が見極めた時期があったと、筆者は信じる。その見極めがいかなるものであったのかに、興味がわく。
 「苦海浄土」は、筆者にとっては、特別に思い入れのつよい書であった。何が「特別」だったのか、詳述するのは、いまとなっては難しいが、敢えて言えば、「苦海浄土−わが水俣病」によって「にんげん」を中心に据えた戦いというものがあることを教えられた、とでもいえようか。筆者の生来の臆病から文学的感動は文学的なままにおかれ、「水俣」が、「わが水俣病」となるまでののめりこみにはならなかったものの、今に至るまでその影響は続いていると言えそうだ。その「苦海浄土」の著者である石牟礼道子が、「水俣」に掛かり合ってゆく過程で、短歌を捨てた。この事実は軽くはない。まして、筆者が短歌にかかわり、その器の容量とでもいったものに関心をもっているのであるから、なおさらこころ穏やかにこの事実を見逃せないのは当然ではなかろうか。
 石牟礼道子の「歌の別れ」の見極めということは、逆にいえば、氏の短歌はどこで「苦海浄土」につながってゆくのかということでもあろう。さらに言葉を変えれば、氏の短歌の何が「苦海浄土」の石牟礼道子を育てたのか、そこにおいて短歌は何らかの働きをしたか。そしてどこに短歌の限界があるのか。形式とからんだ短歌的発想の問題か、それとも「水俣」に比しての短歌の器としての容量の問題か。ここには微妙な要素のからみもあり、この論考の切っ先がそこまで届くとは思はないが、とりあえずは、歌集をひもといてみるしかない。
 ごくあたりまえの話から始めなければならない。将来の「苦海浄土」の語り部、石牟礼道子は、短歌によって、現実をありのままに(もちろん、この「ありのまま」というのが孕む問題もあるが)みつめて、たじろがない目、「まなこ」を研ぎすませていった。

 いちまいのまなこあるゆゑうつしをりひとの死にゆくまでの惨苦を

 この歌は、氏がすでに「水俣」にかかわっていた三十年代終わり頃の作であるから、「ひとの死にゆくまでの惨苦」というのを、「水俣」の患者の「惨苦」と考えて差し支えはない(もっとも、この歌だけを切り離して見れば、そう考える必然性はないが、「廃駅」一連のなかに置いたとき、やはり「水俣」の「惨苦」ととるのが妥当な気がする)。つまり、「いちまいのまなこ」と表現される、あえていえば非情の「まなこ」の獲得があってはじめて「水俣」の断片が、そして、さらに数年をへて「苦海浄土」の世界が描出されえたわけだ。そこに何の変哲もない。しかし、この歌集を見る限り、その「まなこ」に映る情景、情景というより氏が見ようとしているものは、あまりに偏っていないだろうか。
 「水俣」との関連を念頭にいえば、その「まなこ」がうつしているのは「ばばさま(祖母)」あるいは「母」の狂気である。

 泣きじやくるわが老母はあどけなく呆けて観音に近きその貌
 幼友らみな怖がり囲むもの狂ひばばさまなれば掌をも曳きたり
 雪の中より掌を引き起せば白髪をふりつついやいやをなし給ひたり
 雪やみてかがやく夜半に見せられしむごく静かな狂乱のさま
 うつくしく狂ふなどなし蓬髮に虱わかせて祖母は死にたり
 納屋の隅に来たがる母も狂ひしか夕光のなかのほつれ髪

 「雪やみて」や「うつくしく」の歌は「ばばさま」の狂気を詠んでいるが、ここから「水俣」まではほんの一歩の距離である。これらは、昭和二十年代後半から三十年にかけての作であり、現実にも「水俣」に一歩のところに氏は立っていた。

 おとうとの轢断死体山羊肉とならびてこよなくやさし繊維質
 畦道は雪となり掌にくるぬくみ母はいつくしみおらんその死も

 これらの歌から感じとれるのは、「死」に淫しているといってもおかしくないくらいの、非情さではなかろうか。これほどまでに冷徹な、冷徹ゆえにかえってそこにいとおしみを感じ取ってしまうほどの「まなこ」を、氏にもたらしたものはなにか。それは、おそらく短歌的リアリズムによって、徐々に培われていったというふうなものでは、おそらく、ない。 氏の若いころの歌に、次の一連がある。

 この秋にいよよ死ぬべしと思ふとき十九の命いとしくてならぬ
 線路を離れ分け入りし山に湖水あり死にたき心いよいよつのる
 わが命絶つには安き価なり二箱の薬が五円なりといふ
 呑みがたきもの飲み下したり反抗のごとく唾液のぼりくる
 おどおどと物いはぬ人達が目を離さぬ自殺未遂のわたしを囲んで
 死なざりし悔が黄色き嘔吐となり寒々と冬の山に醒めたり

 二十歳のころの自殺未遂が詠まれている。このとき氏は死をまぬかれた。後になって、ぶりかえすことがあるとはいえ、とりあえずは危機は乗り越えられた。そのときの置土産が、「いちまいのまなこ」ではなかったろうか。氏は死ななかったが「末期の目」ともいうべきものが「いちまいのまなこ」となって残った。そんな気がするが、いかがなものか。
 しかし、「いちまいのまなこ」だけでは「苦海浄土」の、あのような表現はならなかったにちがいない。「まなこ」は、淫する事がないとはいえないが、本質的には、拒み、突き放すものでもあろう。「苦海浄土」にある、憑き物めいた寄り添いはどこからくるのか。乗り移られたような代弁はどこからくるのだろうか。それは、「目」「まなこ」の問題であるより、むしろ「耳」の領域のような気がする。こころの言葉を聞く「耳」とでもいったものがあって、はじめて可能なのではなかろうか。
「いちまいのまなこ」と同じ一連のなかに次の一首がある。

 石の中に閉ぢし言葉をおもふなり「異土のかたゐ」のひとりいま死ぬ

「異土のかたゐ」というのは、直接「水俣」の患者をさしているのではないかもしれないが、その「かたゐ」が「石の中に閉ぢし言葉」を聞き取るこころの耳を、氏はすでにもっていた。それは、いかなる「耳」であろうか、またその「耳」を彼女はいかにして獲得していったのか。もっとも、その耳は「獲得するといったものではなく生来の想像能力、巫女のもつ霊感に似た能力かもしれない。昭和三十四年から三十六年作に次のような歌がある。

 雪の辻ふけてぼうぼうともりくる老婆とわれといれかはるなり
 白髪となりしわが髪いやいやをせねば耳もとにいふ雪の声
 しやがれたる声になりゆくわがうちに棲みつく老婆すこしわらへる

 驚くべきことに、老婆とわれが「いれかはる」というのだ。二首目の歌など老婆になりきっているかのようだ。これはまさしく「苦海浄土」の方法そのものではなかろうか。講談社文庫版「苦海浄土」の渡辺京二氏の解説にある次の一文がそれを証している。
 「(苦海浄土での患者との)対話が、まさか現実の対話の記録であるとは誰も思うまい。これは明らかに、彼女が自分の見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。しかし、それならば……(患者は)いずれもこれに近いような独白を実際彼女に語り聞かせたのであろうか。
 以前は私(渡辺京二氏)はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。……(別の短文についてであるが)私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめて行くと、(短文にかいた)老婆は彼女が書いているような言葉を語っていないということが明らかになった。……『じゃあ、あなたは〈苦海浄土〉でも……』『だって、あの人(水俣の患者のこと)が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの』」
 氏の心のなかでは患者と自身が「いれかは」っているのだ。渡辺氏の表現を借りれば「乗り移られ」ているのだ。でなくてどうしてこんな大胆な発言ができようか。
 そして、より驚くべきことは、石牟礼道子のなかでは「いちまいのまなこ」と、寄り添い、「いれかはり」とが、共存していることである。「まなこ」で突き放しつつ、乗り移られるまでに「耳」を澄ませ、心を寄り添わせている。これこそ天来の性情によるものではないのか。渡辺氏が「おそるべき事実」と書かれていることは、氏の歌にその萌芽はまぎれもなくあったわけである。

 両極をゆかねばやまぬ女なり困つた性よと夫いひたまふ
 ひとの云ふ言葉はいつも半分くらゐ聴いてるくせがつい嘘も云ふ
 何となくついてしまへる嘘なればつきおおせることいつもなきかも

 これらの歌に表現されている石牟礼道子は、渡辺氏に「例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめ」られて、「いたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった」り「『みんな私の本のことを聞き書だと思っているのね』と笑っていたり」する石牟礼道子に通じている。「ひとの云ふ言葉はいつも半分くらゐ聴いてるくせ」の残り半分に何を聴こうとしているのか、それが「水俣」の患者にむきあったときの「石の中に閉ぢし言葉」でないと、どうして言えようか。「何となくついてしまへる嘘」、それが「苦海浄土」の方法の萌芽でなくてなんであろうか。それをしも「嘘」というべきだろうか。「嘘をつきおおせる」ということが、文学的な虚構ということであれば、「苦海浄土」においてはじめて、氏は「真実の嘘」をつきおおせたのだ。「石の中に閉ぢし言葉」を引き出すには、それしかなかった。主情、私性のしがらみをもつ短歌に、そういった虚構はそぐわないのかもしれない。もっとも石牟礼道子の虚構は、一般の文学における虚構とは趣を異にしている。一般に虚構とはひとの言葉を借りて己を語ることであろうが、「苦海浄土」の仕掛けは己が言葉で患者を語らしめることにある。「水俣」の患者の主情に語りの眼目がある。「嘘」の主体は、己にではなく、患者にある。ここらあたりが、短歌にそぐわない事情ではなかろうか。しかも、石牟礼道子のなかでは、己に主体を据えて、己が「まなこ」が映しとった「水俣」の惨苦と、己が言葉によって語らしめた患者の主体といったものが、矛盾なく共存しているらしいことはすでにのべた。そこから「苦海浄土」という虚構の真実が生まれたと考えられないだろうか。
 結論を言えば、彼女は短歌において十分「苦海浄土」を準備していたのだ。あとは聞き書きという手続きさえあればいいところまで達していたかに思われる。聞き書きといっても、聞いた通りを記録するのではないということは、先程書いた。患者の家を訪問して、寄り添い、かれらの言葉に思いをひそめるのだ。「石の中に閉ぢし言葉をおもふ」位置から、「続・苦海浄土、天の魚」にあるように「あのひとたち(患者)の死にぎわのまぼろしを、ぜんぶ見終えるために生者たちから、孤立しなければ、したい、とわたくしはおもう。死者は死者としてしか甦ることができないゆえに。」という位置までの距離は、どれほどのものだろうか。  「苦海浄土」にいたる道筋を追うのに急ぎすぎた感はあるが、結論は、筆者にとって悲観的なものとはならなかった。短歌は石牟礼道子を「苦海浄土」の一歩手前まで連れて来ていたのだ。すくなくとも、短歌は、氏に語り部たる己の資質を悟らせた。これは短歌にとって、光栄ではあれ、決して恥ずべきことではない。もっとも、とはいえ、その地点で、氏は短歌を捨てた。短歌から離れていった。このことは、いかにかんがえるべきか。
 「歌は本来憎しみの声ではなく、やや口籠る言葉ではあるけれども、愛の声であり、怨念ではなく、浄念だと思ってきた。憎悪の生む告発の文学、抵抗の文学、革命の文学−散文や長詩なら有効に作動するかもしれないこれらの文学の系譜に、私の念持する歌はつながらない。」(上田三四二「たまものとしての四十代」)  上田三四二が述べた「憎悪の生む告発の文学」の範疇に、「苦海浄土」がはいるかどうかは、意見がわかれるところだが、たとえそうだとしても、すくなくとも、その「怨念」に短歌がふさわないゆえに石牟礼道子が短歌をすてたとは思わない。氏の短歌は、そもそもの出発から「怨念の文学」とも言えるものだったからである。ことは一個の内面の問題ではなく、また短歌の伝統に規制されてのことでも、まして器が小さいといったことでもなかったにちがいない。筆者の直観でいえば、先述したように、おそらく「苦海浄土」の虚構の異質なこと、それが短歌にそぐわなかったため氏は短歌を捨てた。

 わが過去も常にさびしく願ひ来しただ一つみづからの言葉もつこと 高安国世

短歌は、その形式に深くかかわって、「みづからの言葉」の獲得をめざすものであり、「みづからの言葉」の範囲を出ることが難しい小詩形であるらしい。それゆえに、「患者」のまぼろしの声にみちた「水俣」を盛ることができないと、石牟礼道子は考えたのではなかったか。もちろん氏の判断は正しかった。それは「苦海浄土」のありようが証していることだ。短歌の限界といったことを考えるとき、見極めるべきはこのあたりにあると思うがどうであろうか。
 ともあれ、論にならない論考はこれくらいにして、以下、心に残った歌の幾つかを、書き抜く。

 灯ともさぬ海底の船夜もすがら縁どれば夜光虫の死もおびただし
 めしひたる少女がとりおとす鉄の鍋沈めば指を流るる冬の川
 墓碑銘のなき死つぎつぎよみがへる海へきざはしふかき月かげ
 癒着せぬわが傷口にまたなにか棲めりふれあふは魚族らのひれ
 月かげに樹芯を浮かすさるすべり未知なるものら迫りゐるべし


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