歴史発見物コラム(21) 『源氏物語』は5世紀史を描いている
『紫式部日記』によると、一条天皇(在位986〜1011)は、『源氏物語』の作者である紫式部を評して、「この人は『日本紀(日本書紀)』こそ読み聞かせるべきである。まことに知識がある」と述べています。天皇のこの言葉から、紫式部は女官のあいだで「日本紀の御つぼね」とあだ名されるようになったそうです。
一条天皇は、『源氏物語』の内容を伝え聞いて、紫式部は『日本書紀』に造詣が深いと判断されたわけですが、このことは、『源氏物語』が、『日本書紀』を土台として成立した文学作品であることを示唆しています。
では、『源氏物語』は、『日本書紀』のどの時代の、誰をテーマに著されているのでしょうか。『日本書紀』は、神代から持統11年(697)までを扱う歴史書です。平安の可憐な王朝文化を描いた『源氏物語』と、日本古代史とは、一見、無縁のようですが、実は密接に繋がっているようなのです。
『源氏物語』では、主人公の光源氏は、絶世の美男子であり、天皇が即位を期待するほど優秀でありながら、臣下に下り(政治をみさせるため)、しかし最後には、准天皇の位にのぼったという設定となっています。『日本書紀』には、これに近い人生を歩んだ人物はいるのでしょうか。
『日本書紀』を紐解いてみますと、一人、絶世の美男子であったと明記されている皇子がいます。それは、木梨軽(きなし かる)皇子です。木梨軽皇子は皇太子でありながら、同母妹の軽大郎女皇女とのスキャンダルによって廃嫡された人物です。この人物には、光源氏との以下のような接点があります。第一に、光は「ひ・かる」と訓じますので、「かる皇子」を想起させます。第二に、『古事記』では、軽大郎女皇女は、木梨軽皇子の父帝である允恭天皇の妃のひとり、衣通郎女のこととしていますので、『源氏物語』の設定に符合してきます。第三に、『日本書紀』は5世紀を多列・並列構造として編年しており(本サイト、『倉西先生のご学問所』の「日本書紀紀年法入門」をご参照ください)、允恭列(C列)の允恭23年(455)から允恭42年(474)までの「天皇」として扱っている可能性があるのです。第四に、倭の五王についての研究からは、「興」は、木梨軽皇子のことであり、雄略天皇として皇位に返り咲いたとする推測も成り立ちます(拙著『日本書紀の真実』をご参照ください)。日本の古典文学は、歴史を土台としている傾向にあります。『源氏物語』を研究することで、謎に満ちた5世紀史を解明することができるかもしれません。
歴史学も考古学も日進月歩です。新たな学説や発見物によって、古代史のページは、日々、書き換えられるようになってきています。「歴史発見物コラム」では、昨今の発見物などをテーマに、倉西裕子の短いコラムを掲載してゆきます。
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