歴史発見物コラム(20) 纏向遺跡の謎 ―なぜ金属鋳造物が出土しないのか(2009年11月18日)

 11月16日のNHKTVプログラム「クローズアップ現代」にて、弥生時代の大型集落遺跡である纏向遺跡についての報道がありました。

昨今の纏向遺跡の発掘調査によって、神殿や宮殿を想定できる大型の建物群が検出され、この集落が弥生時代の首都としての機能を果たしていた可能性が高まったそうです。日本全国各地の様式の土器、人工運河が検出されていることに加え、2世紀頃に築造された最古の大型前方後円墳、纏向石塚古墳もこの遺跡内にあります。卑弥呼の墓説が有力な大市墓(箸墓古墳)がこの遺跡の領域内といっていい地域にあることを踏まえると、纏向遺跡は、俄然注目されてくることになるのです。

弥生時代の首都は、纏向と結論できそうなのですが、ところが発掘調査は、思わぬ謎を提起しているように思えます。それは、‘これだけ重要な遺跡でありながら金属鋳造物が出土していない’、という謎です。

弥生時代の集落遺跡といいましたならば、九州佐賀県の吉野ヶ里遺跡が想起されますが、吉野ヶ里遺跡からは巴形銅器など、精巧な金属鋳造物が多数出土しています。このことを考えると、纏向遺跡の性格は謎なのです。なぜ纏向遺跡からは金属鋳造物が出土していないのでしょうか。その理由は、二つ考えられます。一つは金属鋳造技術を持っていなかった。もう一つはこの遺跡が放棄された際に、金属器はすべて持ち去られたというものです。

実は、日本の金属鋳造技術の発展にも謎があるのです。巴型銅器や、極めて不純物が少なく、1000度から1200度の高温による融解を必要とするスカイブルーの菅玉に見られるように、吉野ヶ里遺跡を築いた人々の鋳造・鞴の技術には驚くべきものがあり、そのレベルの高さは、世界最高水準に達していたといわれる奈良時代の薬師寺の薬師如来像、日光・月光菩薩につながっていくように思えます。したがって、我が国は、高い鋳造技術を維持していたのかといえばそうではなく、三世紀後半の三角縁神獣鏡や七世紀初頭の法隆寺の釈迦三尊像は、鋳造技術が、むしろ稚拙な段階にあるとの指摘があるのです。この落差はどこに由来しているのでしょうか。

纏向遺跡の復元図を見ますと、神殿や宮殿と想定できる遺跡は、川の中州といえるような場所に築かれています。このような景観は、島の中洲のような場所に住んでいたことから「島大臣」と呼ばれたと『日本書紀』が特筆する蘇我氏を思い起こさせます。そして前出の釈迦三尊像は、蘇我氏とたいへん親しい関係にあった鞍作止利の作品なのです。『日本書紀』は、止利は、もとから仏師であったわけではなく、推古朝に仏師となったと伝えています。このことは、蘇我氏が金属を鋳造する技術者集団を持っていなかったことを意味しているのかもしれません。纏向遺跡の金属器はすべて持ち去られた可能性はあるものの、纏向遺跡の築いた人々は、金属を鋳造することに関心をはらっていなかった可能性が高いように思えるのです。

纏向遺跡の鋳造技術が蘇我氏につながってくるのであるならば、吉野ヶ里遺跡の鋳造技術は、反蘇我氏勢力の物部氏や中臣氏につながってくるのかもしれません。

纏向遺跡の性格は、邪馬台国所在地論争において、九州説と奈良説がいまだ決着を見ていないことに象徴されるように、大きな謎を提起しているのです。


歴史発見物コラム(19)ホメロスの誤解がもよんだ世紀の大発見 ―トロイ滅亡の謎
                           (2009年8月18日)

 2009年8月17日に、日本で「トロイの謎 ギリシャ伝説の都市の真実 トロイの木馬」というBBCのTVプログラムが放映された。最新のトロイの研究段階を伝えるこのプログラムによると、アナトリア(ヒッタイト領域)で発見された粘土板の解読と分析作業から、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイ』に詠われたトロイは、ヒッタイトからは「ミルシャ」と呼ばれていた都市であることがわかったそうである。
 シュリーマンによって発見されたトロイ遺跡は、10年にも及ぶギリシャ側からの猛攻撃に耐えたにしては、城壁に囲まれた範囲が狭いという問題があった。しかし最新の発掘調査と地下埋蔵物のレーザー探査は、この都市国家が、城壁の外にも市街地をひろげ、チャリオットの侵入を防ぐべく、その周囲に外堀(空堀)を巡らしてあったことを明らかにした。人口四〇〇〇人以上の、かなり規模の都市であったのである。
 さらにヒッタイトの粘土板から、トロイはヒッタイトと同盟関係にありつつ、ギリシャのミケーネとは、200年にもわたって紛争を続けていたことも明らかとなっている。このことは、ミケーネ王のアガメムノンをトロイ戦役の総師と伝える、ホメロスの叙事詩の信憑性を補うのであるが、期間については200年と10年とでは、まったく違っている。
 そこで、このように考えることはできるのではなかろうか。すなわちホメロスのいう10年は、トロイ陥落からヒッタイト滅亡までの10年であり、ホメロスの叙事詩は、ヒッタイト滅亡についても詠っているということである。ホメロスは、ギリシャとトロイとの200年戦争と、引き続いて起ったギリシャとヒッタイトの10年戦争を混同したのである。
 ヒッタイトは連邦国家であることから、トロイもまたヒッタイトの一部であったと考えられる。紀元前1200年頃に、ヒッタイトの最西の重要拠点であったトロイがギリシャ側によって陥落し、ここがギリシャ側の橋頭堡となって、ヒッタイトは、その後10年で滅んだのではなかろうか。ヒッタイトを滅ぼしたのは「海の民」であったとされる。海洋民族のギリシャ人が「海の民」であった可能性は高い。ここまでしてギリシャ側が、ヒッタイトを滅ぼそうとした理由は、やはり「鉄」にあったのではなかろうか。
 いずれにしても、ホメロスがトロイ滅亡とヒッタイト滅亡を混同したことから、トロイ滅亡は、『イリアス』や『オデュッセイ』において、よりダイナミックに描かれることになった。ヒッタイトは、アナトリア全域を支配し、一時はバビロニアにまで領土をひろげた大帝国であったのだから。その攻防戦と滅亡には、ホメロスの叙事詩に描かれたような想像を絶するドラマがあったのであろう。

 ホメロスの記述に感動したシュリーマンは、トロイの発掘に生涯をささげ、見事に世紀の大発見を成し遂げるのである。


歴史発見物コラム(18)―ダヴィンチの名画に秘められた「
M」の謎 (2009年4月23日)

 フランスのルーブル美術館に所蔵されているレオナルド・ダヴィンチの世界的名画、『モナリザ』には予言が秘められており、それは、女性像の背景として描かれた川、もしくは海のようにみえる水流の図様から、「水」に関するものであるということは、よく知られた説です。
 さて、もう一つのダヴィンチの名画、『最後の晩餐』にも、ダヴィンチによって暗号が秘められているという説が、ベストセラーや映画となった「ダヴィンチ・コード」などを通して、昨今もてはやされています。それは、最後の晩餐のテーブルにつくイエス・キリストと、その画面向かって左側の使徒・ヨハネの二人の姿勢によって、画面上には、Marriage(結婚)を意味する「M」の文字が浮かび上がってくるという説です。画面上に「M」の文字が現われるように描いたダヴィンチの目的は、『最後の晩餐』でヨハネとして描かれている人物は、実はマグダラのマリアのことであって、イエス・キリストとマグダラのマリアは密かに結婚していたということを示すためであった、という実にセンセーショナルな説なのです。
 確かに興味深い説なのですが、『最後の晩餐』のイエス・キリストと使徒・ヨハネによって形作られる「M」については、他にも解釈できるのではないでしょうか。それは、「水water」です。「M」というアルファベットの文字は、水を意味する波線のような線文字を起源としています。この波線形の線文字は、紀元前1500年頃には、既にシナイ半島で用いられていましたが、紀元前750年頃にいたって、フェニキア人や古代ギリシャ人によって、アルファベットの「M」へと発展していったのです(The Bible as History by Werner Keller, 1980, p129)。
 このように考えると、使徒・ヨハネは、「水」で洗礼を行ったバブテスマのヨハネを暗示しているのかもしれません。ダヴィンチの描くバブテスマのヨハネが、なぜか女性的であることとも符合します。ヨハネの『黙示録』によると、最後の審判は「火」によってもたらされるとされています。レオナルド・ダビンチは、旧約聖書に記された最後の審判において「火」と「水」に何を見たのでしょうか。
 『モナリザ』と『最後の晩餐』という二つの傑作に、「水」という暗号を秘めたと考えるほうが、説得力があるように思えるのですが、いかがでしょうか。

歴史発見物コラム(17)「120」をめぐる『日本書紀』・『旧約聖書』・シュメール伝説
(2008年12月8日)


 HP「倉西先生のご学問所」の日本書紀紀年法入門を、ご一読された方々は、日本書紀紀年法において「120」という数字が、辛酉改元問題なども含んで、節目となる大変重要な年数であることをご理解いただけているかと思います。

ところで、この「120」という数字は、『日本書紀』だけでなく、『旧約聖書』や楔形文字の解読を通して明らかとなってきたシュメール伝説においても、重要な年数なのです。

まず、『旧約聖書』「創世記」の第六章のノアの箱船伝説では、神は、人類の運命について、「人類の日々を120年と定めた(yet his days shall be an hundred and twenty years)」と見えます。この一文については、人間の寿命を120年に定めたなど、様々な解釈が唱えられていますが、今日に至るまで謎めいた一文として残されています。

さらに、アレキサンダー・ポリヒストルという人が、ベロッソスというバビロニアの司祭兼天文学者の書物を要約して、シュメールでは、大洪水(ノアの箱船伝説の大洪水)以前に10人の王が、「120シャー」、すなわち、432,000年間統治したと指摘しています(1シャーが3600年で、3600×120=432,000となる)。「120シャー」は、ノアの箱船伝説の大洪水の前後を分ける人類の節目となる重要な年数であったことになります。

「120」をめぐって、『日本書紀』、『旧約聖書』、シュメール伝説のいずれもが、人類にとっての節目の年と位置づけているこのような一致は、偶然なのでしょうか。それとも、大昔に、何らかの歴史的な繋がりがあったことの結果なのでしょうか。興味の尽きない問題です。

歴史発見物コラム(16) −日本武尊は二人いた? (2008年8月19日)

 『古事記』には、研究史上、たいへん不可解とされている記述があります。それは、「又娶倭建命之曾孫。名須賣伊呂大中日子王之女。訶具漏比賣生御子。大枝王」と見え、日本武尊の父帝の景行天皇が、日本武尊の曾孫の須賣伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのおおきみ)の娘の訶具漏比賣(かぐろひめ)を娶り、大枝王(おおえのおおきみ)が生まれているという記述です。この記述からすれば、景行天皇は、自らの五世孫を娶っているということになります。現実には、到底ありえそうにないことは、言うまでもありません。

 しかしながら、この記述。日本書紀紀年法の構造から見てみれば、きれいに説明することができるのです。『日本書紀』には、西暦91年を起点とした日本書紀崇神列と古事記崇神列という二本の年代列が平行しています。日本書紀崇神列は、西暦91年を崇神元年と考えて、崇神紀、垂仁紀、景行紀、成務紀、仲哀紀、神功紀の神功三年までの紀年を、順次、加えていった年代列で、応神天皇の立太子のあった神功三年が、西暦390年に到達して、応神元(390)年と一致する年代列です。

 一方、古事記崇神列は、同じく西暦91年を崇神元年としながらも、『日本書紀』と『古事記』の間に認められる宝算(天皇の享年)の年差を、当該天皇の在位年数と考えて、記歴代天皇の在位年数を算出していった年代列です。

 これらの二本の年代列の大きな違いは、日本書紀崇神列の景行紀は西暦258年から317年までを扱っているのに対して、古事記崇神列の景行天皇の段は、西暦152年から182年までの所謂「倭国大乱」の時代を扱っていることです。このことは、景行紀や景行天皇の段に記載のある人物たちには、2世紀の人たちと、3世紀後半から4世紀初頭にかけての人たちが投影されていることを意味しています。

上記の『古事記』の一文は、「倭建命」という人物は、2世紀の人であり、3世紀後半から4世紀初頭にかけて在位された景行天皇が、この2世紀の「倭建命」の曾曾孫を娶ったと考えれば、けっして、不可解ではないのです。換言すれば、『古事記』は、このような矛盾のある記述を載せることによって、景行天皇の段は、2つの異なる時代を扱っていることを示そうとしたのかもしれません。記紀の扱う「日本武尊(倭建命)」は、二人いたのです。

歴史発見物コラム(15) −『日本書紀』の謎の数字「97」(2008年7月30日)

 『日本書紀』は、「97」という数字を重視しています。

1.初代天皇の神武天皇が立太子された年は、紀元前697年です。神武天皇は、東征に向かった「甲寅」年(紀元前667年)には45歳でしたので、立太子されたという15歳の年は、紀元前697年となるのです。

2.崇神元年を西暦91年に置く「日本書紀崇神列」で、西暦97年に相当するのが崇神七年です。崇神七年に、崇神天皇は、三輪山の大物主命を大田田根子に祭らせ、倭大国魂神を長尾市に祭らせています。大物主神は投馬国(出雲)の神ですし、倭大国魂神は狗奴国の神であるかもしれません。崇神天皇が奴国系であるならば、西暦97年は、奴国、投馬国、狗奴国という『魏志』倭人伝にも登場する主要三カ国の統合過程に関連した、重要な年であったと考えることができます。

3.同じく崇神元年を西暦91年に置く「日本書紀崇神列」で、西暦197年に相当するのが垂仁三十九年です。この年、五十瓊敷命が、茅渟菟砥川上宮で、劒一千口を鋳造して、石上神宮におさめ、神宝となしています。

4.同じく崇神元年を西暦91年に置く「日本書紀崇神列」では、景行四十年が、西暦297年に相当してきます。景行四十年は、日本武尊が薨じた重要な年代です。

5.仁徳元年は、西暦397年です(仁徳元年が397年である理由については、本HPの「日本書紀紀年法入門」をご覧ください)。

6.推古五年が西暦597年にあたりますが、この年に、百済の阿佐王子が来日しています。旧札で有名な『唐本御影』は、聖徳太子(厩戸皇子)と阿佐王子が会見した際に描かれたとされています。絵画になったくらいですので、たいへん重要な会見と考えられていたのでしょう。

7.『日本書紀』の末年は、西暦697年です。この年代は、文武天皇が15歳で立太子された年代でもあり、また、持統天皇が文武天皇に譲位された年代でもあります。紀元前・紀元後の両697年に、神武天皇と文武天皇が15歳で立太子されていたことになり、面白いコントラストが『日本書紀』には設定されていることになるでしょう。

 このように、『日本書紀』の編年にあたって、「97」という数字には、何らかの意味があったらしいのです。では、どのような意味であったのか、これについては、まだ結論は出ていません。

歴史発見物コラム(14) ―日本書紀の予言とニュートンの予言(2008年5月28日)

 数字とは不思議なものです。
 三善C行が九〇一年に著した「革命勘文」から、1260年という数字が、日本書紀紀年法において大変重要な聖数(一蔀)として用いられていることがわかっています。C行が「革命勘文」で説明した日本書紀紀年法の論理は、1260年毎にめぐってくる辛酉年には、大きな事件があるという未来予測ですので、「日本書紀の予言」という言葉が相応しいかもしれません(「日本書紀の予言」の1260年の算出式は、7×3×60=1260)。

 
一方、物理・数学者のアイザック・ニュートンは、ある年代から1260年後に、人類史上、大きな事件があるという、「ニュートンの予言」と称される遺稿(ヘブライ大学所蔵)を残しています(「ニュートンの予言」の1260年の算出式は、7×6×30=1260)。
 この2つの予言は、ある年代から1260年後であるという点において、一致しているのですが、他にも以下のような興味深い一致があるのです。
 それは、2と6という数字の重視です(1260にも、2と6が用いられています)。
「日本書紀の予言」は、「二六相乗(2×6)」といって、2と6という数字を特に重視しています(2×6によって求められる120という数字が重要であることについては、本サイトの「日本書紀紀年法入門」をご参照ください)。一方、「ニュートンの予言」に拠る予言成就の年代は、西暦2060年であり、ここにも、2と6という数字が大変重要な役割を果たしているのです。
 日本国が、その存亡をかけた第二次世界大戦中(日本にとってのハルマゲドン?)に、「皇紀2600年」といって、日本書紀に基づいた式典、すなわち、神武天皇の即位元年から数えて2600年目を祝った式典が大々的に執り行われました。この式典の年代の「2600」と、「ニュートンの予言」の「2060」(人類にとってのハルマゲドン?)は、二桁と三桁を入れ替えただけなのです。
 ニュートンは、万有引力の法則を応用して惑星の軌道を研究していました。ニュートンと同時代のハレーは、ニュートンと協力して、ハレー彗星の周期を、凡そ76年とつきとめています。ハレー彗星は、2060年か2061年頃に、再び出現することから、ニュートンは、ハレー彗星が、太陽、もしくは、地球にぶつかることを心配して、「ニュートンの予言」を残したという説があります。一方、神武天皇についても、その紀年数の76年は、ハレー彗星の周期に基づくのではないかという説があります。
 「ニュートンの予言」と「日本書紀の予言」との数字の一致は偶然なのか、必然なのか。なにやら、宇宙の謎とも関連した神秘的な不思議な関係が見えてきます。ちなみに、西暦2060年に、ハレー彗星が、太陽か地球にぶつかりそうになったら、人類は、その科学知識や技術力の限りを尽くして、ハレー彗星の軌道を変えましょう。

歴史発見物コラム(13) −オデユッセイウスの遍歴譚は製鉄の伝播(2008年5月6日)

 ミケーネを中心としたギリシャ諸都市と、アナトリアの都市国家トロイとの間で10年間も続いたトロイ戦争は、紀元前1200年頃に始まったとされています。
 一方、そのトロイのあったアナトリアには、ヒッタイト王国(ヒッティティ)という、当時、唯一、製鉄技術を保持していた王国がありました。このヒッタイト王国は、紀元前1190年頃に崩壊しています。
 このことは、トロイの滅亡とヒッタイトの崩壊は、実は、紀元前1190年頃という同じ年の出来事であった可能性を示しています。トロイ戦争とヒッタイトの滅亡との間には、何か関連がありそうなのです。そこで、人類史上、ヒッタイトの崩壊を契機に製鉄技術が世界各地に拡がったことに注目してみましょう。
 トロイ戦争を扱ったホメロスの『イリアス』を良く読めば、ギリシャ勢には鉄鋼が無く、トロイ側には鉄鋼があったことがわかります。このことから、ギリシャ勢が、トロイを攻略しようとした目的は、製鉄技術を得るためであった可能性があります。あるいは、トロイというギリシャ人殖民都市が、ヒッタイト帝国の一員となったことによってトロイに製鉄技術が齎され、ギリシャ勢は、そのトロイを攻略することで、製鉄技術を我が物にしようとした、というのが10年にも及ぶトロイ戦争の真相であったのかもしれません。
  さて、トロイ戦争から10年後の世界を扱ったホメロスのもう一つの高名な叙事詩、『オデユセイア』は、その冒頭の第一歌で、オデユッセイウスは、トロイ戦争に出征する直前に、タポス人のメンテスという鉄鉱石商人と会っていたと記しています。当時のギリシャ諸都市には、製鉄技術は無かったはずですので、オデユッセイウスが鉄鉱石商人と面会することはおかしなことなのですが、この点については、以下のようには考えられないでしょうか。すなわち、オデユッセイウスのトロイ遠征の目的は、製鉄技術(製鉄技術者集団)を得ることにあり、事前に、鉄鉱石の輸入ルートも確保していたというものです。
 しかし、トロイの陥落までには10年もの歳月を要し、なぜか、オデユッセイウスのみ、各地を遍歴して、帰国するまでに、さらに、もう10年の月日を費やすことになります。なぜ、オデユッセイウスのみ帰国が遅れたのか、その理由は、オデユッセイウスが目的どおりに製鉄技術を手に入れていたからであると、考えることによって説明ができるように思います。オデユッセイウスは、各地をめぐって、その都度、製鉄技術者集団の幾人かを、その地に根づかせてゆきます。やがて、製鉄技術は普及してゆき、オデユッセイウスは、ようやく帰国したという経緯となるでしょう。

 奇想天外なようですが、神話は、寓意において、一面、史実を語る場合もあるように思います。


歴史発見物コラム(12) ―「トロイの木馬」は薪の山だった?(2008年5月2日)

 ギリシャ神話でおなじみの「トロイの木馬」。神話の語るところによると、アガメムノンを総指揮官とするミケーネやアテネなどのギリシャの諸都市連合側(以下、「ギリシャ勢」)は、アナトリア(小アジア)のギリシャ人殖民都市のトロイを陥落させるために、「トロイの木馬」という計略を用いたとされています。これは、次のような計略でした。
 篭城するトロイ勢に対して、その城門の前に木馬を残して、ギリシャ勢は、一兵残らず姿をくらましてしまいます。この状況を見たトロイ勢は、ギリシャ軍は撤兵したと考え、木馬を城内に引き入れます。ところが、この木馬から3000人ものギリシャ兵が飛び出して、トロイは、あっけなく陥落してしまうことになるのです。
 さて、伏兵が潜んでいるかもしれない「トロイの木馬」を、トロイ勢が、なぜ城内に引き入れるという愚を犯したのか、という疑問があります(現に、トロイの王女のカッサンドラは、危険であると忠告しています)。このことについては、ギリシャ側からのプレゼントであると勘違いしたからである、と説明されています。
 そこで、仮に、プレゼントであると認識されたならば、「トロイの木馬」のどこに、プレゼントとしての価値があったのか、といった次なる疑問が生じてきます。金銀財宝や青銅製の鋳造物ならばともかくも、大きな木馬に、それほど価値があったとは、到底、思われないからです。
 この答えは、薪にあるようです。ギリシャ人の間では、火葬の慣習があり、必要とされる薪の数も、半端な数ではありませんでした。『イリアス』は、薪を山のように積んで、火葬を行ったと、火葬のあり様を表現しています。
 そしてまた、ホメロスの『イリアス』は、トロイ陥落まじかの時期を扱う、その巻末において、トロイでは、当時、木材が不足しており、薪を入手するためには、近隣の山まで取りにゆかねばない状況に陥っていたと伝えています。両軍の熾烈な戦いにおいて多数の死傷者が生じていたことから、トロイにとっては、薪の入手は、緊急でありながらも、困難な課題であったのです。
 トロイ勢が、「トロイの木馬」を ―これが木製であったならば―、トロイ側が戦死者の菩提をきちんと弔うことができるようにと、ギリシャ勢が親切にも置いていってくれたプレゼント、と勘違いしたことは、十分にありえることなのです。
 「トロイの木馬」の謎については、これが木製であったということに、目を向けるべきであるのかもしれません。


歴史発見物コラム(11) ―玄奘と百済観音像(2008年4月29日)

 法隆寺西院伽藍には、百済観音像という高名な仏像があります。

文献史料上、以下の元禄十一(一六九八)年の『和州法隆寺堂社霊験并佛菩薩像数量等』の金堂の条が、百済観音像についての記述の初見となります。

 一 虚空蔵菩薩(百済観音像)百済国より渡来 但し天竺の像也 毎夜棒天燈 申伝也
 一 虚空蔵立像 長七尺五分

以降、享保四(一七一九)年の『法隆寺佛閣霊佛宝等目録』には「西正面 虚空蔵 天竺より渡来の像なり 御長七尺」、享保年間の「諸堂絵説草案」には「北正面 虚空蔵菩薩 天竺より渡り給ふ本朝無類の尊像 信心の人に福徳寿命を授け給ふなり」と記されています。本コラムでは、いずれの史料でも「天竺」、すなわち、インドが、百済観音像の故地となっていることに注目してみたいと思います。
 玄奘が、釈迦の生誕した遥かなるインドを訪ね、膨大なサンスクリット語の経典を持ち帰ったのは、西暦645年のことでした。この年、我が国では、国政を専らとしていた蘇我宗家が、中大兄皇子(後の天智天皇)によって滅ぼされるという乙巳の変が発生しています。玄奘によって齎された仏典、並びに、インドについての知識や情報は、ちょうど激動の中大兄皇子の時代に東アジアに広まっていたのです。もちろん、遣唐使船や交易船によって、我が国にも、いち早く伝わっていたことでしょう。
 そして、玄奘は、『大唐西域記』のなかで、「インド」という名称の起源は、サンスクリット語で月を意味する「インドゥ」にあると述べています。玄奘の齎した知識から、我が国では、「天竺」を月の世界であると考えていた可能性があるのです。
 拙著『国宝・百済観音は誰なのか? −実在したモデルとその素顔』(2006年 小学館)において、百済観音像のモデルは天智天皇その人であり、天智天皇は、自らを「天」、すなわち、祭祀王と位置づけ、「月の観音」として百済観音像を造仏したと述べました。
 一方、インドには、バラモン教という仏教に影響を与えていた宗教があります。神祇祭祀を掌る神官のバラモン層と、執政権を行使する王のクシャトリア層が、相互に牽制しながらインド史は、紡がれていたといっても過言ではありません。仏教におけるこのバラモン教の影響は、弁才天など「天」の文字が付く仏教の神様は、みなバラモン教起源の神様であるということに見て取ることができるそうです。
 天智天皇が、自らをインドのバラモンの立場と重ねて、天と位置づけ、百済観音像を造仏していたとしたならば、その伝承が、百済観音像を「天竺」の仏像とする伝説となった、という興味深い推論を提起することができます


歴史発見物コラム(10) −『源氏物語絵巻』は平家によって制作された 
2008年3月20日

 『源氏物語絵巻』という、あまりに有名な絵巻があります。この絵巻、平安時代末期の頃に制作されたとされながらも、誰が、いつ、どのような理由によって制作されたのか、まったく判らない謎の絵巻でもあります。本コラムでは、平清盛によって制作されたという仮説を提起させていただきたいと思います。
 『源氏物語絵巻』が制作された平安時代末期は、後白河法皇の院政期にあたりますが、この時代は、後白河法皇のサロンにおいて、大量に絵巻物が制作された時代でもありました。『源氏物語絵巻』も、後白河法皇の絵巻物の一本ではないか、という説もありましたが、これまでの研究からは、否定的見解が示されています。
 その最大の理由は、『年中行事絵巻』、『伴大納言絵巻』、『吉備大臣入唐絵巻』など、後白河法皇のサロンで制作されたことが明らかな絵巻と較べると、『源氏物語絵巻』は、作風が大きく異なることにあります。後白河法皇の絵巻物は、常盤源二光長の筆になるもので、人物の描き方や様式が近似しています。具体的には、平安末期以来、宮廷貴顕の肖像を描く興味から生じた所謂「似絵(にせえ)」の技法の影響を受けており、人物が写実的、動的に、生き生きと表現されているのです。一方、『源氏物語絵巻』の人物像の特徴は、ひき目、鉤鼻、しもぶくれ、といったように形式化された表現となっています。似絵の要素は無いと言えましょう。
 後白河法皇の絵巻物と『源氏物語絵巻』の間には、このような大きな違いがあるために、『源氏物語絵巻』は、平安時代末期に制作されたとされながらも、誰によって制作されたのかが判らない謎の絵巻となってしまったのです。

 しかし、『源氏物語絵巻』と同じように、形式化された人物像によって描かれた‘絵巻’があります。それは、厳島神社に奉納された平家納経です。このことは、『源氏物語絵巻』は、平家によって制作された可能性を示唆しています。『源氏物語絵巻』の科学的調査から、絵巻には、高価な画材がふんだんに用いられていたことが判っています。当時、これだけ豪華な画材を惜しげもなく使って絵巻を作ることができた勢力は、後白河法皇以外には、平家しかいないのではないでしょうか。
 後白河法皇の絵巻物群には、政治的な意図がありました。このことを考えると、平清盛側が、後白河法皇の絵巻群に太刀打ちできるような絵巻の制作を行ったことは、ありえる推測です。では、清盛は、『源氏物語絵巻』に、どのような意図を込めたのでしょうか。昨今、清盛の白河上皇のご落胤説が有力視されています。このことを考えると、清盛には、光源氏という臣籍降下した人物を主人公とした『源氏物語』を題材に絵巻を制作することで、自らの貴種性をアピールしたいという、思惑があったのかもしれません。


歴史発見物コラム(9)2月1日― 1260年!深遠なる人類史

ヘロドトスの『歴史』巻二は、エジプト人、および、祭司の語ったものとして、エジプトの初代の人間王は、メネスであったと伝えています(但し、最初の人間王のメネス(m*n*)王は、エジプトに限ったものではなく、ギリシャのミノス(m*n*)王やインドのマヌ(m*n*)王とも共通していますので、人類史における初代人間王という位置づけができるかもしれません)。ヘロドトスは、このメネスから最後に王位に就いたヘパイストスの祭司に至るまでを、341世代を数え、その間、11,340年であったと記録しています。

11,340年というこの数字。1260年×9=11,340となり、1260年にを掛けた数字なのです!『日本書紀』では、1260年という数字は、讖緯暦運説の一蔀年数として用いられている重要な数です。厩戸皇子(聖徳太子)が摂政宮の斑鳩宮を興した推古九(601)年から、一蔀の1260年を遡った紀元前660年こそ、神武天皇即位の年、紀元年となのです。

言い換えれば、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年を出発点として、一蔀の1260年毎に、大きな政治的変革があるという1260年周期説なのですが、人類史では、メネス王の即位年を出発点として、1260年周期が9回めぐったという計算になります。ちなみに、「ニュートンの予言」でも、ニュートンは、1260年を人類史の謎を秘めた特別な数字として扱っています。

また、ヘロドトスは、メネス王以前は、神が支配者であったと考えられていたと伝えており、この区別も、『日本書紀』や『古事記』の神代と人代との区別に通じます。これに加えて、この11,340年間において、祭司長と王とが、それぞれ世代と同じ数だけいたと記され、司祭王と執政王による祭政二重統治であったことが窺えます。拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』において、我が国でも、古代においては祭政二重統治であった可能性を論じました。

『日本書紀』と『古事記』から、日本国と人類史との間に流れる深遠なる繋がりが見えてくるかもしれません。


第八回歴史発見物コラム −古事記崩年干支は次帝の立太子年(2007年11月19日)

 『日本書紀』と『古事記』には、同じ天皇を扱いながらも、その在位年数に大きな違いがあるという問題があります。この問題が、研究史上、『日本書紀』の史書としての信憑性に疑問が挟まれる大きな要因ともなってきました。

『古事記』は無紀年ですので、どうして『日本書紀』との間に在位年数に相違があることがわかるのかといいますと、『古事記』の最古写本である真福寺本『古事記』に、分註として天皇の崩御の年代が、干支紀年法において記載されているからです。例えば、A天皇があったとしますと、前天皇の崩年干支の年代からA天皇の崩年干支の年代までの年数が、A天皇の凡その在位年数であると計算することができるのです。

そこで、第十五代仁徳天皇の在位年数を見てみましょう。前天皇の第十四代応神天皇の古事記崩年干支は「甲午」であることから、応神天皇の崩御の年代は西暦三九四年と考えることができます。次の仁徳天皇の古事記崩年干支は「丁卯」ですので、仁徳天皇の崩御の年代は、西暦四二七年と推定することができます。そこで、空位年の2年間と踰年称元法を考慮に入れて、仁徳天皇の在位年数は、三九七年から四二六年、もしくは、四二七年までの30年、ないし31年間であると推論することができるのです。

しかし、一方において、『日本書紀』は、仁徳天皇の在位年数を紀年数において83年と明示しています。したがって、仁徳天皇の在位年数をめぐっては、『古事記』は30ないし31年、『日本書紀』は83年ということになり、実に52〜53年もの差があるのです。

同じ天皇を扱いながら、なぜ、『日本書紀』と『古事記』の間には、在位年数をめぐってこのような大きな違いが生じているのでしょうか。

この疑問は、『古事記』に崩年干支として伝わった年代は、実は、次の天皇の立太子の年代であったと考えることによって氷解します。例えば、仁徳天皇の次帝の第十六代履中天皇の立太子の記述は仁徳三十一年条に見えますが、仁徳元年は西暦三九七年ですので(394年→空位年の395年・396年→397年)、仁徳三十一年は四二七年となって、仁徳天皇の古事記崩年干支と合致するのです。仁徳天皇の古事記崩年干支は、履中天皇の立太子の年代であったことになります。


第七回歴史発見物コラム ―仏教伝来から120年後に起こった壬申の乱

 『日本書紀』では、仏教伝来は、欽明十三年の西暦五五二年のこととされています。すなわち、この年に、百済の聖明王が、釈迦仏金銅像、幡蓋(はたきぬがさ)、経典数巻を我が国にもたらしたのです。

 ところが、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」には、「大倭国仏法、創斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世。蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月度来。百済国聖明王時太子像并灌仏之器一具、及説仏起書巻篋度而言、当聞、仏法既是世間無上之法。其国応修業也」と見えて、仏教伝来の年は、西暦五三八年の戊午年のこととしています。

 このため、研究史上、仏教伝来は、五三八年であるのか、五五二年であるのか、という議論が起こりました。

 そこで、現在、有力視されている説は、仏教伝来は史実としては五三八年であるけれども、『日本書紀』は、編年に操作を加えて、その記述を五五二年に移したというものです。それでは、なぜ、五五二年という年代に移したのでしょうか。この点につきましては、末法思想の影響で、五五二年が末法に入る年であるから、といった説などがあります。

 しかしながら、五五二年という年代の120年後は、何年であるのか、という点は、大いに注目されてきます。五五二年のちょうど120年後は、なんと、壬申の乱の起こった六七二年なのです。日本書紀紀年法において120という数字が、たいへん重要であることは、例えば、本HPの「日本書紀紀年法入門」でも説明しましたように、プラス・マイナス120年構想が設定されていることによっても示されます。『日本書紀』は、壬申の乱から120年を遡った年代を、仏教伝来の年とした可能性が高いのです。

 このことは、仏教伝来と壬申の乱との間には、何らかの関連があったことを示唆しています。大海人皇子(後の天武天皇)が、その前年に朝廷を辞して、出家して仏門に入ったことに関連があるのでしょうか。それとも、大友皇子もまた、同年、内裏の西殿の仏像をあしらった織物(曼荼羅図?)の前で、左右大臣など六卿を集めて盟約を誓ったことと関連があるのでしょうか。それとも、別の理由があるのでしょうか。どのような関連なのか、それは、いまだ、解かれざる謎です。


第六回歴史発見物コラム(6月26日) − 日本の王朝文学の原風景は『日本書紀』

 奈良・平安時代に、日本では王朝文学として、様々な物語が作られました。『竹取物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』などなど。全文は読んでいないけれど、あらすじぐらいはだいたい知っている、という方も多いのではないでしょうか。
 昨年、拙著『国宝・百済観音像は誰なのか? 実在したモデルとその素顔』を発表いたしました。拙著では、奈良斑鳩の法隆寺の百済観音像にはモデルがあって、それは誰であったのか、という点をメインテーマに論じました。しかし、もう一つ、面白いテーマを扱っています。それは、『竹取物語』の原点は、『日本書紀』にあったというものです。
『竹取物語』に登場する5人の貴公子、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、阿倍御主人(あべのみうし)、大伴御行(おおとものみゆき)、石上麿足(いそのがみのまろたり)は、みな、『日本書紀』持統紀に登場してくる実在の人物たちです。しかも、物語は、単に、登場人物の名を『日本書紀』に求めただけではありません。

 石作皇子は仏教伝来、車持皇子は大化の改新、阿倍御主人は遣隋使や遣唐使、大伴御行は瓊瓊杵尊の天孫降臨、石上麿足はありし日の物部・出雲神道などなど。『竹取物語』は、『日本書紀』に記録される日本史上の重大事件の顛末を、ストーリー展開のモチーフとしていたのです。五貴公子やそのご先祖たちは、『日本書紀』の神代紀から持統紀までのいたる所に顔を出す、日本古代史のいわばエキスパートたちであったことになります。
『竹取物語』を丹念に調べることで、『日本書紀』についても、文章の意味がよく通るようになったり、これまでの解釈とは異なった解釈が成り立つようになってきます。『竹取物語』が書かれた時代は、『日本書紀』の成立期に近いのですから、物語の作者は、現代に生きるわたくしたちよりも、『日本書紀』が記録した歴史的事件については詳しかったはずなのです。
 そして、『日本書紀』にテーマを求めているのは、『竹取物語』だけではありません。『源氏物語』もしかりです。『紫式部日記』には、『源氏物語』を聞き知った一条天皇が、紫式部を評して、「この人は『日本紀』こそ読み聞かせるべきである。まことに知識がある」と述べたとあります。紫式部は、この一件から、「日本紀の局」と渾名されるようにもなったそうです。一条天皇のこの言葉からも、『源氏物語』と『日本書紀』との知られざる繋がりが見えてきます。
『竹取物語』や『源氏物語』のストーリーには、歴史的事件に根ざした深い深い含意や寓意が隠れていそうです。王朝文学を、『日本書紀』の視点から、眺めてみれば、きっと、驚くべき歴史の真相が見えてくることになるでしょう。『日本書紀』の一ページ、一ページには、王朝文学の原風景がひろがっているのです。


第五回歴史発見物コラム(2007年5月17日/改稿2007年5月18日) −高松塚古墳の被葬者は誰か

 一九七二年(昭和四七)、奈良県明日香村にて高松塚古墳が発掘調査され、石室の壁面に男女四名の群像、星宿、四神図が奇跡的に残されていたことは、多くの人々の耳目を驚かせた考古学上の大発見でした。しかしながら、かくも有名な高松塚古墳でありながら、その被葬者については、今日に至るまでまったくわかっておりません。本コラムでは、壁画の保存のために石室が解体されたことで再び注目を集めている高松塚古墳の被葬者について、あらためて考えてみたいと思います。
 まず、被葬者となった人物の条件についてみてまいりましょう。研究史上、高松塚古墳の被葬者は、古墳の様式、副葬品、服制などから以下のような条件を備えた人物と考えられています。

被葬者は王以上で、星宿図や日月図からは、高位の皇族(「治天下」に携わっていた可能性が高い)。
被葬者は五十歳前後の壮年男子。
被葬者の没年は天武九年(六八〇)に近い(副葬品の海獣葡萄鏡の推定鋳造年代)。
被葬者の没年は天武十一年(六八二)から朱鳥元年までの四年間(天武十一年の結髮の詔が適用されている壁画の女子群像の結髮)、もしくは、慶雲二年(七〇五)以降。
被葬者の没年は天武十三年以降(天武十三年の襴(すそつき)・長紐の詔が適用されている男女群像の服制)、朱鳥元年七月以前(朱鳥元年の脛裳(はばきも)の復活についての詔が適用されていない男子群像)。

 これらの条件から、被葬者は、天武十三年(六八四)から朱鳥元年(六八六)までの僅か三年の間に没した人物ということになりますが、『日本書紀』は、該当する人物の薨去について、まったく記しておりません。しかし、壮年であったという条件を除いては、ぴったり条件に適う人物がいます。それは、大津皇子です。大津皇子は、天武十二年条に「大津皇子始聽朝政」と見えて、ちょうど天武十三年から朱鳥元年にかけて最も活躍しています。また、天武十四年には、浄大貳位を授けられており、高位の皇族という条件にもあってきます。したがって、問題は、大津皇子の二十四歳という享年と不整合をきたす被葬者の五十歳前後という年齢です。この点につきましては、『万葉集』の左注に、「移葬大津皇子屍於葛城山二上山之時、…」と見えることが着目されます。大津皇子は、二上山に改葬されていたのです。高松塚古墳は、もとは大津皇子のために築造された陵墓であったではないでしょうか。そして、改葬の際に、別の人物の古墳として再利用されたという仮説を、一つの案として提起することができます。それでは、その別の人物とは誰であるのかといいますと、石川王である可能性が高いと思います。石川王については、壬申の乱の際に、山部王とともに大津皇子と間違われたと記されています。天武八年に任地の吉備で没すると、諸王二位を追贈されています。吉備に仮埋葬されていた石川王が、大和に改葬された際に、高松塚古墳が再利用されたとは考えられないでしょうか。壬申紀は、高松塚古墳に当初合葬されてあったのは大津皇子と山辺皇女で、後に石川王が埋葬されたという経緯を伝えるために、石川王が大津皇子と勘違いされたと記述したのかもしれません。
 天武十三年から朱鳥元年までというわずか三年間にのみ朝廷で用いられた装束を身にまとった壁画の男女群像は、ちょうど天武十三年から翌年にかけて、執政王としてあった大津皇子の華やかなりし日々を描いた歴史絵巻のようにも見えてきます。


第四回歴史発見物コラム(2007年5月3日)  ―紀年法と暦法はどこが違うの?

HP「倉西先生のご学問所」では、日本書紀紀年法について論じています。紀年法と暦法の違いがわかるようになると、日本書紀紀年法は、よりよく理解できるようになります。
 年代を時系列的に表現するには、歴史上の一定の年(紀元、Epoc Year)から始めて、太陽のまわりを地球がちょうど一周する一公転を1年として、年数を数える方法が採られます。最もわかりやすい例を挙げますと、西暦(グレゴリウス暦の紀年法)では、伝・キリスト生誕年の西暦1年が紀元となり、そこから通し番号で年数が数えられます。今年が西暦2007年であることは、紀元年から2007年目にあたるからです。「紀年法」とは、このように基準年から年数を数える方法のことです。
 そして、紀年法と暦法は違います。違いを平易に整理すれば、紀年法は「年代」の数え方であり、一方、暦法は、公転や自転によって変化する天球を精緻に観測して、一年の日数や月の日数を推算した暦日、すなわち、「月日」の配分法(計算法)です。紀年法は「年代」、暦法は「月日」を扱っているのです。
 重要なことは、紀年法と暦法を結びつけて「年月日」算出し、暦(Calendar)とする場合もあれば(例えば、グレゴリウス暦=グレゴリウス紀年法+グレゴリウス暦法)、起源が夫々異なる紀年法と暦法を持ち寄って用いる場合があることです。その顕著な例は、元号制です。
 元号制では、「年代」は元号、「月日」は天文学者によって編まれた天文暦によって算出されます。例えば、現在、我が国では、紀年法は元号制(代始改元)を採用し、一方の暦法にはグレゴリウス暦(西暦)を採用しています。平成19年5月3日=元号紀年法(平成19年)+グレゴリウス暦法(5月3日)となります。『日本書紀』もまた、同様です。紀年法には日本書紀紀年法、暦法には元嘉暦と儀鳳暦が用いられています(江戸時代には、渋川春海や中根元圭が、『紀』の暦日も日本固有の暦法によって算出されていたのではないかと考え、『日本長暦』や『皇和通暦』などを編んで復元を試みています)。
 また、紀年法と暦法が結びつかないその他の典型的な事例は、干支紀年法です(「えと」といった方がわかりやすいかもしれません。干支は殷代には用いられていたようですが、ある歴史的な年を紀元とする通し番号型ではなく、60年で一巡する循環型の年代表現法です。「紀年法」が、「年をす」という意味の熟語であることに、紀年法の性格が端的に表されています。
 英語でも、紀年法はYear Numbersと表現されています。日本書紀紀年法研究とは、日本書紀に用いられている紀年法の研究、つまり、どのように年代が構成されているのかを、探求する研究領域であると言えるでしょう。


第三回歴史発見物コラム(2007年4月15日) −日本書記紀年法の不思議

第三回コラムでは、日本書紀紀年法の不可思議な編年の謎について述べてまいります。
 日本書紀では、巻三の神武紀から、実年代を示す紀年法が用いられるようになります。すなわち、日本書紀の編年は、神武紀からはじまっているのです。

 それでは、日本書紀において、最も年代を遡ることのできる歴史的事件とは何でしょうか。これは、彦火火出見(後の神武天皇)が、15歳にして立太子した、という事件となります。その理由は、日本書紀は、神武天皇が45歳にして日向から東征に出立された年代を、干支紀年法で甲寅(紀元前667)年であった、と記しているからです。紀元前667年で45歳ですので、立太子年は、逆算して紀元前697年に位置づけることができるのです。
 このことから、日本書紀は、編年の構想として神武天皇の立太子をたいへん重視していたことがわかります。言い換えれば、日本書紀の編年のはじまりは、神武立太子なのです。
 一方、日本書紀の編年の終わりは何年かといいますと、これは持統十一(697)年です。それでは、この年に、どのような事件があったのでしょうか。『続日本紀』は、持統十一年に軽皇子(後の文武天皇)が立太子されたと記しています。そして、日本書紀の持統十一年条の末文は、「天皇定策禁中天皇位於皇太子」です。すなわち、日本書紀の編年の最後の年の西暦697年もまた、天皇の立太子の年であることになります。
 日本書紀の編年は、最初と最後に“立太子”という事象を置くという構想となっているのです。また、神武立太子年が紀元前697年で、文武立太子年が697年であることは、注目されます。このことは、日本書紀が成立した720(養老四)の頃には、西暦1年を紀元とする紀年法が伝わっていた可能性を示すことになるからです。
 日本書紀紀年法には、歴史を伝承するという役割と政治倫理思想を讖緯暦運説などの天数を用いて具現化するという2つの目的があったようです。最初と最後の年を、西暦1年を折り返し点に立太子という事象で括り、また、プラス・マイナス構想が、西暦390年を折り返し点として構築されているように、両目的は、日本書紀紀年法に複合的な数学的構築物としての性格を与えているのです。
 日本書紀紀年法の構想を探求してみますと、立太子の重視(日本書紀が撰進された720年は首皇子(後の聖武天皇)が皇太子であった時期となることと関連があるのかもしれません)、西域からの文化的影響など、さまざまな研究課題が見えてくることになるのです。

第二回歴史発見物コラム(2007年4月12日) − 日本書紀の非現実的紀年数を説明する諸説

 “日本書紀に見える非現実的紀年数を説明する説には、どのようなものがあるのか?”という問いがあるかと思います。第二回コラムでは、研究史上における代表的な説の幾つかを紹介します。但し、本コラムで紹介する諸説は、歴代天皇紀それぞれの非現実的紀年数を説明するための説に限るものとし、また、説の記載順は、発表年次順としました。

≪春秋二倍暦説≫ 1880年(明治13)年に、ウィリアム・ブランセンという研究者によって初めて唱えられた説です(「日本年代表」)。基本的には、非現実的紀年数は2分の1に縮めれば、妥当な数字となるという考えです。『魏略』に「其俗不知正歳四節 但計春耕秋収為年紀」とあることも、その左証とされました。この説は、その後の紀年研究に大きな影響を与え、近年では、山本武夫氏が、『日本書紀の新年代解読』(1979年)、高城修三氏が『紀年を解読する』(2000年)において、春秋二倍暦説を用いています。ただし、二倍暦説に対しては、早くも1880(明治二十一)年にウィリアム・ジョージ・アストン氏が、二倍暦説で簡単に2分の1とする方法では非現実的紀年数を説明することは困難との見解を示したように、批判があります。
≪復元紀年説≫ 復元紀年説とは、日本書紀には、記事の無い空白年次があることから、紀年数から空白年次を引いた紀年数が、実際の歴代天皇の在位年数であるという説です。笠井倭人氏が、「上代紀年に関する新研究」(1953年)において発表しました。
≪60年配年構想説≫ 特定の歴代の在位年数に限っては、60年分の紀年が加算されているという説です。神田秀夫氏が『古事記の構造』(1959年)において唱えました。
≪紀年移設説≫ 神武天皇から欽明天皇の崩年までが書紀の創作的紀年構想の対象となっており、中国史(『漢書』「律暦志」と『史記』「周本紀」)の周の文王から後漢光武帝までの紀年を移設したとする説です。この説の提唱者は、藤井文夫氏であり、『日本書紀の紀年構造』(1999年)において展開しています。
≪プラス・マイナス120年構想説≫本説は、わたくしが唱えている説です。本説については、本HPの日本書紀紀年法入門、並びに、『日本書記の真実』などをご覧いただきたいと思います。

第一回歴史発見物コラム(2007年3月25日)

 最初のコラムでは、謎の五世紀について扱いたいと思います。

 昨今、允恭天皇陵(市野山古墳)の陪塚と考えられる古墳が数基発見されました。これらの古墳は、五世紀後半の築造と推定されています。一方、允恭天皇の在位は、これまでは、五世紀中葉と考えられてきました(412〜453年)。当時の陵墓は、寿陵(生前に前もって築造しておく陵)として造営される傾向にありましたので、允恭天皇陵には、通説と考古学的見解との間に多少のズレがあることになります。

そこで、この問題を多列・並列構造から見てみましょう(本ホームページの日本書紀紀年法入門をご参照ください)。允恭天皇には、455年から474年までの「延長紀年」があり、崩年は474年と考えることができます。允恭天皇の崩年をこの年としますと、允恭天皇陵の考古学的想定築造年代と多列・並列構造から見た在位期間との時間幅は、急速に縮まってくるのです。

同じことは、仁徳天皇陵についても言えます。仁徳天皇陵から出土したと伝わる銅鏡(ボストン美術館所蔵)は、百済武寧王(461〜523年)の陵墓から出土した鏡との関係から、考古学的には、五世紀後半から六世紀初頭とみなされています。仁徳天皇の在位については、四世紀説や五世紀説があり、はっきりしていませんでしたが、多列・並列構造からは、その崩年を483年と位置づけることができるのです。

多列・並列構造に照らし合わせますと、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇といった歴代天皇の在位は、いずれも凡そ五世紀となります。日本書紀紀年法は、多列・並列構造であると考えますと、プラス領域の歴代天皇の事跡と考古学発見とは整合してきます。多列・並列構造は、いわゆる「倭の五王」問題に対しても、興味深い視点となってくるのです。






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