1.プラス・マイナス120年構想
日本書紀紀年法には、プラス・マイナス120年構想が設定されています!

 日本書紀の巻九神功紀には、魏志倭人伝の記述が引かれています。魏朝の年号が見えるこの記述から、神功元年は西暦201年であることがわかります。それでは、次巻の巻十応神紀の応神元年は、何年のことであるのかといいますと、これも、応神紀に、百済王の即位年と薨年が記されていることによって、求めることができます。応神元年は、西暦390年となります。このことから、神功紀は、西暦201年から389年までの189年間を扱っていると考えることができるのです。
 しかし、神功紀に配布されている紀年の数は、69です。189年間を扱う神功紀に配布された紀年数が69ということになりますと、120年分の紀年が足りていないことになります。


69年(神功紀の紀年数)−189年(実際の経過年数)
=-120年(不足する紀年数)



 一方、応神紀の扱う時代の実年代は確かめることはできたものの、日本書紀には、海外資料と較べることで実年代を求めることができるような記事が、この後、しばらくの間、まったく見えなくなってしまいます。巻十四の雄略紀となって、ようやく再び実年代を求めることのできる記述が出現します。その雄略紀の記述内容は、雄略五年が461年であることを明示しています。
 このことから、応神元(390)年から雄略五(461)年までに実際に経過していた年数は、72年であったことがわかります。ところが、応神元年から雄略五年までの紀年数の合計は、192です。応神元年から雄略五年まで実際に経過していた年数は72年で、この間の合計紀年数が192となりますと、紀年数が120年分多く配布されていることになります。応神元年から雄略五年までに配布された紀年の合計数(192)は、実際に経過していた年数(72)をはるかに超えてしまっているのです。


192年(応神元年〜雄略五年までの紀年数の合計)
−72年(実際の経過年数)=+120年(超過する紀年数)

 

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