「オマエも人間だ」(巧)
良かった・゚・(ノД`)・゚・
ガーっと燃え上がるような最終回ではなかったけれど、「イイ」最終回でした。うんイイ。特に僕のような象徴性を読み解く視聴者にとっては、なんとも味わい深いラストでした。
最終回は網ですね、アミ。網に尽きます。
ずっと気づきつつ言わなかったんだけど、最終回で確信。
網のシーンを語るには、まずはオープニングを語らねばなりません。
555のオープニングは非常によく出来ていて、去年のmot×mot的オープニングベストなんかを選ぶことがあったなら、間違いなくナンバー1だなあなんて思っているのだけれど、それはひとえに象徴性の高さのためです。
赤いラインが人間とオルフェノクの境界を象徴していて、そんな赤い帯に束縛される真理……とか、同じく半分のリンゴ(赤い)が、巧が人間とオルフェノクの半身なのを暗示していたりと、本当良くできている。
で、今回語るべきは一番冒頭のシーン。OPの一番最初、巧が網を破いて出てくるシーン。ここが何気に重要。ここが分かってると今回の最終回は倍楽しめる。アレ、あの網もまた人間とオルフェノクの境目の象徴なんですよ。
そして、巧だけがその網を破くことができるのです。巧は人間だとか、オルフェノクだとか、そういう表面的な括りで人を分かつ、偏見や差別の網を破くことができる。そういう暗示なのであります。
巧と木場の決着がついたシーン。上記の「オマエも人間だ」の台詞を残した後、巧はOPと同じように網を破いて手前へと出てくる。対照的に網の向こう側で絶叫する木場。木場はあがくんだけど、網のこちら側には出てこれない。これが、巧と木場の差。人間でもオルフェノクでも、表面を分かつ網に捕われず、広義で「人間らしさ」を守ってきた巧に対して、木場は当初は「人間」として、結花の死後は「オルフェノク」として、表面的な括りの中で自分が属する側と逆側、つまり網の向こう側を否定することで生きてきたという対比。「括り」を打ち破って人を見れなかった木場。それが網に捕われている木場の限界。
ここで巧と木場の違いを見せつけたからこそ、最後に木場が駆けつけてくるところは熱い。最後、木場が現れる前に、覚悟の表情をした木場が網を破るシーンが挿入されましたよね。アレが熱かった。遂に木場も「括り」の網を破り去った!みたいな……そして「見つけようぜ、木場、三原!俺たちの答えを俺たちの力で!!」の巧のかけ声のもと、魂の三人同時変身。人間とオルフェノクを分かつ網をうち破った三人がついに同じ方向を向いて変身。思うに三原はラストシーンの語りなんかから、既に網を破いてるキャラで、逆に二話前に散華した草加なんかはあくまで人間側に属して網の向こう側(オルフェノク)を否定することを信念としたキャラだったので、この最後の変身シーンに参加するワケにはいかなかったのでしょう。
つーワケでラストバトルは燃えた。
網関係で一気に語っちゃえば、ラストシーンも見事でした。555のテーマの一つ「夢」に上手く収束しました。何が正しいか分からない555の中で、唯一作品的に「正しさ」として描かれていたのは44話、47話でそれぞれ僕が引用した敬太郎、添野刑事あたりの脇役の台詞でした。そんな添野刑事が「夢」について語って幕を閉じるのも味がありましたし、何より結花を抱きしめた、実は作中最ポジティブキャラだった敬太郎の夢(世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに…)が、最後に巧の「俺の夢」になるってラストも自然で共感できました。
そして夢が無い一人の青年だった巧がついに夢を語ったところで、「Justiφ's」。……おそらくは息絶えた巧。カメラがずーと引いてきて、再び破れた網が。巧が命を賭して破いた網の向こうに映る、敬太郎、真理、巧という、人間、オルフェノクの記号を埋め込まれた人間、オルフェノクの三人。少なくともこの三人の間では、人間とオルフェノクを分かちた差別と偏見の網は破られていた……というラスト。イイ!・゚・(ノД`)・゚・
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