†† 夢 守 教 会 ††  第二話「痛みの在処(アリカ)」3/(4)

  ◇

 説得の仕事は、手応えがあったとは到底言い難いし、かといってまったく無視されたかと言えば、そうでもない、そんな感触に終わった。
「それでは、ありがとうございました」
 礼儀正しく一礼して、最後の二十二階の隅に位置しているお宅の玄関を後にした。
 一階のパン屋さんにもう一度入店して説得の仕事をはじめてここまで来たけれど、だいたい皆の言い分は同じだった。警察から爆破予告の話と退避勧告の話を聞いた時点から色々考えてはいるけれど、七月まではまだ時間があるので、検討中であると。わざわざボランティアで退避の説得に回っているというのは感心するけど、今すぐどうこうと決められることではないと、そんな感じだった。
「不毛だったかな?」
 二十二階のエレベータの位置に向かいながら、理子にそう声をかける。
「どうだろうな。私は、そんな一回や二回来ただけで、はいそうですかと私達の言うことを聞いてくれる訳はないと元から思ってたしな」
 半分以上のお宅が留守だったとはいえ、一フロアに三世帯入っているビルディングを二十二階まで尋ねながら昇ってきたので、さすがに理子にも疲労の色が見える。だいぶ空に近いこの二十二階の廊下に差し込む光は既に夕日の朱色になっている。
 窓から差し込む夕日に頬を紅く照らされた理子は、フロアの壁にそっと寄りかかって額をぬぐうと、こんなことを言った。
「優希は、あれだけスゴイ空手の技を身につけるのに、一体何回くらい空手の型をくり返した?」
 理子の言葉の意図をはかりながら、しばし思案する。理子に僕の空手を見せたのは、モトムラ君と戦った例の夜の廃ビルの件の時のみだ。僕の空手というものが、いったいどれくらい理子には伝わっているのだろう。
「型に関してだけ言えば、毎日何かしらの型はやっていたし、演舞が近い時の休みの日は、一日中型の練習をしてたなんてこともあったよ」
「だろうな。私は空手に関してはそんなによく分からないけれど、アレがそれくらいの研鑽の果てのモノだったってのは分かる」
 まあ、そうだろう。自分の研鑽はともかく、空手の型というものは、遥の昔から先人達が研鑽の末にその動きを磨き上げてきたものでもある。
「だからさ、そんな簡単には行かないんじゃないか。説得して人の心を動かすってことも、ましてや人の心を守ろうなんていうのも」
 理子の話の意図を掴む。それは、そうだ。人一人の心を守り続けるということが、如何に果てしなく、遠い研鑽を必要とすることか。ちょっとだけ、今では思い出すのがおっくうになる程度の昔、強くなりたくて空手の型をくり返していた頃の自分の気持ちが、僅かの間微細に心に甦ってくる。
「そうだね」
 だからそう答えた。
 ドーピングでいきなり強くなってもそれは一時的なものであるように、例えもの凄い話術で、今日OKを貰えたとしても、それは一時の気持ちの変化で終わってしまう気がする。必要なのは、僕が空手の型を積み重ね続けたように、言葉を積み重ね続けて、相手の心にしっかりと僕らの言葉を届けることだ。
 心にも「既存」が必要だと言っていた菖蒲さんの言葉を思い出す。そうして伝え続けた僕らの「既存」の言葉が、相手の心の中に伝わって「模造」として残る。やがて、対話を重ねるうちにそんな「模造」が相手にとっての「既存」になれば、そこから新しい何かが生まれるかもしれない。説得するとか、そこまでいかなくても、相手に自分の気持ちを伝えるというのは、細かく考えていくとそういう作業なのかもしれない。
「それじゃ、少し間を置いてから、また来ようか」
 そう言った僕に頷いた理子の髪が、どこからか入り込んだすきま風に少し揺れた。
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